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『読みたいことを、書けばいい』を買う勇気

あなたは本を買うのに「勇気」が必要なことがあっただろうか。僕は、ある。

恥ずかしい本ではない。極めて真っ当な本だ。なのに僕は、その本を買う勇気がなかなか持てなかった。ずっと前から気になっていた本なのに。なんなら発売日を心待ちにしていたぐらいだ。

それなのに、いまになるまで買う勇気が持てなかった。なんだろうこれは。気になってる子に告白するしないみたいな話じゃないか。

告白、ではなくこの本を買う勇気が出なかった理由は2つある。まず、読むのが怖かった。読んでフラれるんじゃないかという恐怖があった。

わけのわからないことを言ってると思う。どんな文章であれ、わかりやすいことが大切だ。読む前から、この本は「大事な本」という確信があった。意味のある出逢いと言い換えてもいい。

読めば絶対にライターをしている自分と向き合うはめになる。自分のしょうもないキャリアなんて相手にならないのはわかってる。だけど、この本と付き合いたかった。

そうやって本を手に取り、自分にとって大事な出会いになるのがわかってる本と一緒に過ごして、自分で自分についてきた「嘘」がバレて本にフラれるのが怖かったのだ。

いや、この「嘘」はライターならほとんどの人が知らずについてしまってるかもしれない。

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2つ目の理由。田中泰延ワールドに手玉に取られて、この本を「楽しんでしまう」んじゃないかという恐れがあった。

これも意味がわからない。本が楽しく読めていいじゃん。そんなハッピーなことはない。ふつうはそうだ。

だけど、僕にとっては、ただ楽しく読めてしまってはダメなのだ。なぜなら、文章を書いて食べているから。どうやったら、文章が食べものになるのか。

原稿用紙に手書きで文章を書くなら、まだなんとなくわかる。丹精込めた原稿を畑に植え、ちゃんと土をかけて鎮圧して育てれば立派なかぼちゃが育つ可能性はゼロではない。

だけど、こうやってキーボード、あるいはもっとスマートなデバイスに向かってテキストを打ち込んだ文章が食べものになるなんてイリュージョンすぎるだろう。きっと何か大きな組織が関与してるに違いない。

話が脱線した。いや、そもそもちゃんと軌道に乗ってさえいなかった。

ちゃんと読み手を楽しませながら、本のタイトルのように「書き手がまず読みたい」が最初から、衝撃のラストまで続く。そんな本って、なかなかない。これは、同業者としてすごく思う。

全編にわたって「書き手が読んでて楽しい」内容が続くのだ。昔のタワレコのPOPみたいに「全曲、捨て曲無し!」な「捨て文字無し」で読まされてしまったら一気読みしてしまうだろう。

文章の構成そのものは極めてわかりやすく、なんていうか風通しが良い。けれどもそれだけじゃなく、読み手のレベル(あえてそう言うけど)に応じて、いろんな仕掛けが用意されていて、ただ読みやすいだけじゃないのだ。

こういうのって、つい難しい言葉で説明したくなるけど(そのほうが、っぽいから)、なんていうか読み手の進み具合に合わせて出て来るすごく洗練された視差効果やストレスなく現れるモーダルウィンドウが実装されてるみたいだ。

結局、小難しく説明してしまってるけど、田中泰延ワールドを楽しんで自分の心象の中だけで遊んでしまっては、せっかくの意味ある出逢いがそうではなくなってしまう。

その恐れと対峙しながら読むべき本なのだ。僕にとっては。だから僕は、買うのに勇気が必要だった。

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言っておくけれど、僕は人間の書店員さんから本を買って、まだ「ほんの数ページ」読んだだけでこの文章を書いている。そんなことって許されるだろうか。

仮にも一冊の本のレビュー記事として受け取られるかもしれないものを、数ページ読んだだけで書くなんて、世が世なら市中引き回しの刑だろう。

だけど、僕は許そうと思う。『読みたいことを、書けばいい』を買う勇気が持てたのだ。そして、あの1行が目に飛び込んできた瞬間に、こうやって自分が読みたいことを書く勇気も持てたのだから。

あなたが「書く人」の生活をしているなら、あるいはしたいならこの本は朝用と夜用に2冊買う価値がある。