見出し画像

小説「あのこは貴族」 居心地の悪さこそ自由の証なのかもしれない

私は都内にある某私立女子大に進学し、それから10数年後、紆余曲折あって今は生まれ育った地方都市に暮らしている。

当時私の通っていた女子大は、東京生まれ東京育ちのお嬢様から、私のような地方出身者まで幅広い女子が通っていた。

だが、たまたま私の友人の9割は、都内あるいはその近郊から通う、実家暮らしの生徒だったので、地方から上京してすぐに一人暮らしをスタートした私は入学早々、「私だけみんなと違うのかも」という孤独感を感じるようになった。
幸いにも、2歳年上の兄が近くの大学に通っていて、私のマンションの近所に住んでいたので本当の意味で孤独だということではなかったが。

同じ高校から別の東京の大学に進学した友人達に話を聞くと、どうやら状況は少し違っている。上京して一人暮らしをしている生徒同士で仲良くしていることが多いようだし、同郷の生徒がいたりもするらしく、ワイワイやっているらしい。
すぐさま私は「学校選びを間違えたかもしれない」と思ったものの、数週間が経つとそのことも忘れ、他大学のサークルの新歓や大学での勉学、隣の大学の男子とのデートなどに忙しくなっていった。しかし、相変わらず大学内では、どこか居心地の悪さを感じていた。

それよりも、親元から離れ、これまでの自分のことを誰も知らない場所(同じ高校からは誰も同じ大学に進学しなかった)で生きていくことは、私にとってずっと願って止まなかった自由そのものだったように思う。

時折感じる孤独感さえも新鮮に感じ、気がつくと東京の一人暮らしの大学生という境遇を、一気に好きになっていった。

先日、山内マリコさんの小説「あのこは貴族」を読み終わった時、私はこの時のことを強く思い出した。

東京生まれの箱入り娘で婚活中の華子と、地方出身の上京組で、猛勉強の末に慶應大学に入るも金欠で中退し、IT企業に勤める美紀。アラサー世代のこの対照的な2人が、1人の男をきっかけに巡り会うストーリーだ。

この話に出てくるような「東京の上流階級」とまでは行かないかもしれないが、私はそれに近いものを目の当たりにしていたように思う。

私自身、地方出身ではあったが、両親に何不自由なく育てられ、大学まで出してもらえたわけだから、十分に恵まれた人生だと思う。 

だが、生まれた場所ですでに決して超えることのできない壁があるのだということを私は大学生活の中で、漠然と感じたのは確かだった。

「東京の上流階級と、地方のマイルドヤンキーは似ている」
小説の中で、このような表現をしている箇所があり、私は目から鱗が落ちた。

どちらも、昔から知っているテリトリーや人物にしか近寄らず、その価値観が絶対だと信じて揺るがないさまが同じだということだ。
そして、ある種、凝り固まった価値観や生き方に、縛られているのだと。

私は、目の前の現状を「当たり前」だと思える人たち、自分の考える価値観に揺るがない自信を持つ人に出会うと、ずっと羨ましいと思ってきた。(もしかすると羨ましいというのは表向きで、正直に言えば軽蔑していたのかも、しれない。)

目の前に提示された仕事やパートナーシップ、家族との関係性、その他あらゆる人生で遭遇する物事の価値観を、何の疑いもなく受け入れられる人たちだ。

それは、東京に住んでいても地元に戻ってきてもずっと感じてきた違和感だった。発する言葉の一つひとつに、どこか寛容性を感じられず、ずっと居心地が悪いとさえ感じた。

だが、今思えば私は、ある意味誰にも、何にも縛られることのない「自由」を常に手にしていたのかもしれない。
むしろこの「居心地の悪さ」こそが、自由であることの証なのかもしれない。

それに、私自身が「この人はこういう人だ」と勝手にラベリングをしていた面もある。蓋を開けてみれば皆、同じように何かに悩み、同じように何かに囚われながらも、目の前の人生を必死に生きているのだ。


この物語は、女性に焦点があたっているが、性別や年齢を問わず、各人の抱えている呪縛から解放され、全ての人にとってきっと勇気をもらえる物語だとおもう。

どんな価値観や環境にいても、自分自身で人生を切り開いていく事は、誰にでもできるのだと、教えてくれ、清々しい気分になれる。

「あのこは貴族」は2月に映画が公開されるそうだ。小説も素晴らしかったので、ぜひこちらも、観ようと思う。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?