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前方後円墳の狭い周濠と大規模区画の意味するものは?

今回のテーマは古墳の周濠(しゅうごう=古墳のお堀)です。

纏向学[まきむくがく]研究センター(奈良県桜井市)の論文集『纏向学の最前線』(2022年8月)の中から、僕が印象に残った論文をできるだけわかりやすく紹介し、コメントします。


論文:周濠の出現~箸墓古墳の周濠と外濠状遺構の意義~

筆者:福辻淳氏(纏向学研究センター主任研究員)

近畿の古墳には周濠に水をなみなみとたたえるものが数多く見られます。トップ写真は堺市の百舌鳥[もず]古墳群にある、土師[はぜ]ニサンザイ古墳です(2021年11月11日撮影)。

ところが、古墳がつくられた当時はどうだったのかというと、周濠はそれほど広くなかったようなのです。

福辻さんは、奈良県の箸墓[はしはか]古墳、渋谷向山[しぶたにむかいやま]古墳といった前方後円墳の周濠幅を調べています(便宜的に古墳の墳丘裾から周濠外肩までを「幅」と見なしています)。

〇今回検討の対象とした古墳・墳墓の後円部径(後方部幅)に対する後円部側の周濠状遺構の幅の比率…は、後円部径が150m前後となる大王墓級の前方後円墳ではその比率は0.1以下となり…

『纏向学の最前線』「周濠の出現」(福辻淳氏、2022年)

例えば、箸墓古墳は後円部の直径約160mに対し、周濠幅は約10m(比率0.063)です。10分の1以下なのです。

箸墓古墳の北東側には箸中大池があります。築造当時の周濠とは別物だということは知っていましたが、本来の周濠が10分の1以下というのは意外でした。現在の百舌鳥古墳群や古市[ふるいち]古墳群では、幅50mはある周濠を目にします。現在の周濠は、後円部直径に対する比率は0.2以上だと思われます。

福辻さんは奈良盆地東南部(大和・柳本古墳群)の前方後円墳を調べていますが、百舌鳥古墳群や古市古墳群でも同様の調査をして、本来の周濠の幅が調査できるといいと思います。水抜きしなければならないので簡単ではないのですが…。

ちなみに、2006年に土師ニサンザイ古墳の後円部の周濠を水抜きして調査したところ、正面に2m間隔で柱を立てたとみられる穴(直径90㎝・深さ1m)の跡が見つかりました。何と、推定で約130本の柱で支えられた、幅12m・長さ45m以上の橋の跡だとされているそうです。お江戸日本橋は幅8mだったそうですから、ニサンザイ古墳の橋はとても大きいです(現在の日本橋は27m)。

他の古墳でも水抜き調査でこういった橋の跡が見つかれば、何に使われた橋なのか、明らかになってくるかもしれません。古墳は墳丘だけでなく、周濠の研究も楽しみです。

周濠の外側に大規模区画:周濠は農業用水に?

福辻さんは箸墓古墳や渋谷向山古墳などの前方後円墳の周濠の外側に「大規模区画」が見られることも明らかにしています。論文サブタイトルの「外濠状遺構」はこれを指します。

例えば、下記の平面図にある、渋谷向山古墳の盾形の区画も、大規模区画であることが推定されるとしています。

『纏向学の最前線』「周濠の出現」(福辻淳氏、2022年)より転載

〇比較的小規模な周濠状遺構の外側に、古墳の築造に伴うと推定される大規模が区画が存在する例が見られる。箸墓古墳の「外濠状遺構」…のほか、渋谷向山古墳の「盾形区画」のような、丘陵上の墳丘周囲を取り巻く平坦面についても同様の性格を持つものと推定される。…(大規模区画は)今後確認例が増える可能性がある。
〇幅の狭い周濠状遺構の掘削ではまかなえない土量が、大規模区画の造成により補われたと考えることができる。
〇特に重要な意味を持つと思われる特徴は、大規模な墳丘には似つかわしくない「(周濠の)幅の狭さ」である。おそらく…外側に大規模区画を形成し得るような大きな労働力を保有してなお、幅の狭いものである必要があったと思われる。その理由を明らかにすることは難しいが、水を湛[たた]える機能をそなえている点を周濠の要件とすれば…湛水[たんすい]を意図したことがその理由の一つとして考えられる。

同上

まとめると以下のとおりです。

  1. 周濠の外側に大規模区画をもつ前方後円墳がある。盛り土のための土量を確保したと推定される

  2. 大規模区画をつくるような労働力がありながら、周濠は意外と狭い

  3. 周濠が水をたたえることを目的をしたからではないか(周濠が広いと貯水できない)

福辻さんが、周濠の「湛水機能」は何を目的としたものだと考えているのか、論文からはわかりません。

考古学の重鎮である白石太一郎さん(国立歴史民俗博物館)は、論文「古墳の周濠」(1983年)の中で「(前方後円墳は)大和、河内の首長たちの灌漑王的性格を象徴するもの」と述べています。つまり、古墳の周濠は水田稲作のための農業用水の調整の役割も果たしていたのではないかということだと思います。

※評論家の小名木善行[おなぎ・ぜんこう]さんも同じ説を唱えています。

僕も特に近畿の前方後円墳の周濠は、農業用水の調整の役割も果たしたという説に賛成です。古墳は大きな労力をかけてつくられています。それだけの労力をかけてでも造成されたのは(人々が協力しあったのは)、水田稲作のためにも必要だったからではないでしょうか。

ひょっとしたら、大王墓というよりは、そちらのほうがメインだったかもしれません。今後、古墳の位置と水田遺構との関係が解き明かされるといいと思います。

※古墳の周濠は温水溜池として機能していたのではないかという記事を公開しました。古墳の立地についての研究も紹介しています。(2023/9/11)

幕末には枯れていた周濠と文久の修陵

福辻さんの論文からは離れますが、江戸時代の文書によると、幕末の頃も、周濠はそんなに立派なものではなかったようです。

〇岡ミサンザイ古墳の周濠は陵池というが…地所が高いために水溜りが乏しく…陵池の貯水能力を高めるために、池底を…掘り下げるための人足の扶飯を役所に求めた
〇誉田御廟山[ごんだごびょうやま]古墳の周濠は霞池といわれたが…幕末期には埋没に近い様子であった
〇仲津山古墳の周濠部は…四ヶ所の池がわずかに残っているのみで、他の部分は埋没していた
〇墓山古墳の周濠は谷池といい…池の…一部は墓地になり…一部は埋没して田となっている

「村落と陵墓古墳の周濠」(外池昇、1990年)より。古墳名は現在の名称に変更

「村落と陵墓古墳の周濠」(外池昇氏、1990年)https://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/131/131-05.pdf

江戸時代は旱魃もあり、一部の周濠は干上がっていたようです。

枯れていた古墳の周濠が、どうして現在は水が豊かなのかというと、幕末(文久=ぶんきゅう)と明治の修陵[しゅうりょう]で大規模な浚渫が行われたからです。修陵は当時の尊王思想の高まりを受けたものです。農民にとっては、周濠の水を田畑に引水できるようになったというプラスもありました(役所の許可が必要にはなりましたが)。

修陵は身近だった古墳を生活者から遠ざけ、本来の姿を失わせたかもしれません。古墳ができた当時の姿と人々の生活を見てみたいです。大王墓として崇めつつ、農業用水として親しんでいた様子がうかがえるかもしれません。

#古墳 #前方後円墳 #周濠 #箸墓古墳 #渋谷向山古墳 #纏向学の最前線 #文久の修陵 #古墳時代 #考古学

(追記2023/3/3)

僕が入院中の2023/1/20に『纏向学の最前線』がPDFで公開されました。編集部に感謝します。

福辻さんの論文は分割版1(p175-184)となっています。

(最終更新2023/9/11)


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