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君たちはどう変わるか〜ツイッターが死んだ夜に語られた親切トーク〜

7/2(日)にジュンク堂書店本店で開催された水野しず著『親切人間論』刊行記念トークイベントをアーカイブで視聴した。

ゲストはWebメディア『オモコロ』編集長の原宿さん。


7月2日はツイッターが死んだ日だった。

突如APIの呼び出し制限がかかり、新たにツイートを読み込めない事態が起きた。


そんな日に行われたこのイベントでは、冒頭から「今日無事にTwitterが終わりまして」という終戦宣言のような切り出しから和やかな雰囲気で始まった。

インターネットに交わる多くの人間が慌てふためく一連の騒動と動揺を、水野しずは「令和の新しい災害のよう」だとし、「物事は全部続くと思い込んでるけど終わるんです」と語った。

原宿さんは「『親切人間論』を読んでいた人はラッキーです」と、本書の読者はこの事態にさして動揺しなかったはずと続けた。

「まあ、ツイッターも終わりましたし」

そんな発言がたびたび挟み込まれるのが可笑しかった。

自分もツイッターはおそらく一番アクセスするアプリで、今回の一件にはわかりやすくストレスを抱え、途方に暮れた。『親切人間論』の読者だったにも関わらず、まだ読みが浅かったかもしれない。

まるで世界が一斉に停電したかのように、緊急事態宣言が初めて出された東京の街みたいに、ツイッター上は近年記憶にないほどの沈黙と殺風景に包まれた。

たしかに現代におけるある種のクライシスだったのは間違いない一方で、よくよく考えると世間一般のダメージはあくまで限定的だったんだよね。というのも、関係ない人にとってはマジで関係ないから。

私の地元山梨で暮らすSNSの類をやらない両親にとっては、東北の山奥で晴耕雨読の暮らしをする老夫婦にとっては、あるいはまだスマホを持たせてもらっていない小学生にとっては、何も起こってないのと同じだった。

震災が起きたわけではない。

あとから冷静になればなるほどその事実が不可思議に思えて、なんかパラレルワールドで起きた物事のよう。その世界の一切を断ち切る意志さえ持てば別に切断することは容易だ。そしてその結果、実生活に及ぼす影響もリアルな災害に見舞われるよりもよほど軽微だろう。

SNSがライフライン化し、ツイッターが生活水の代わりぐらいになってしまった我々は、時代が時代なら米騒動レベルの騒擾感で取り乱した。

水野しずはイベントの中でツイッターに対する自身のアプローチを「(自分にとっての)公民権運動」という言い方をしていて、そのあとの話もすごく興味深かった。

では、今回の突如としたツイッターまともに使えません騒動で、私たちはなぜあんなにも動揺したのか。


個人的な解釈では「現実とあまりにも境界線の薄かったメタバースの破滅」だと感じた。

特に実名で活動し仕事にも直結してる芸能人のような人たちを除けば、多くの人にとっては呼吸するごとく自由にポップに往来していたメタバース的世界の終わりだった。自分も周りのアバターもいきなり消失。予告なくサービス提供終了ぐらいのインパクト。

芸能人も実名クリエイターたちも告知とかには困ったろうけど(告知についてはツイッターが便利すぎるあまり依存しすぎ、誰もが最善の代替方法を用意できていなかった事実に多くの人が言及していた)、一番困ったのは匿名的に繋がりを持っていた一般ユーザーだったと思う。

何を隠そう私もその1人だったから。

なんせツイッターでしか繋がっていない人だらけ。本名も顔も住んでいる場所も知らないけど、たまたま好きなものが同じだったり感性が似ていたり情報収集にメリットを感じたりなどしてご縁ができた人たち。

いつの間にやら親近感や仲間意識を覚えていた。居心地の良さも獲得し、居心地の良さはそのまま繋がりの厚さのように思い込んでいた。でも実際は薄い細い一本の線でしか繋がっていなかった。それを思い知った。

しかもたったひとつの会社の、たったひとりの経営者の意向で簡単に左右されるほど脆いものだという事実。

どれだけ薄氷の上で私たちはコミュニケーションを取っていたのか。何を持って永遠のように感じていたのか。


水野しずが冒頭で言ったように「続くと思い込んでるけどちゃんと終わる」。

終わる時は終わる。
それもあっけなく。

少々話が曲がりくねったが、なぜ悲壮感に襲われたかというとツイッターに存在してる人たちともう会えないのではないか?これまでと同じようなやりとりが出来なくなるのでは?ということにみんな動揺したのだろう。


特別使いたいSNSなんてなくて、そこに存在してる人たちが好きかどうか。その人たちとのツールに過ぎない。

ツイッターが好きというより、ツイッターのノリが好き。そこにいる人たちとの関係性が好き。

みんなツイッター自体にブランドを感じていない。だからこんなに多くの時間を割いて多くの人と繋がらせてもらってるのに、積極的に課金しようとはしない。LINEとかGoogleとかWikipediaぐらいの感覚。なんすか今さら課金って? そんなスタンス。
ブランドに魅せられブランディングが成功していたらみんなApple製品にするのと同じように金を落とすだろう。

ただし、あまりにツイッターそのものに依存、安寧というべきか、しすぎていて、もはや思考停止して、個々の内実に伴うツイートや、切実さからくる熱量のユニークさが希薄になっている。

原宿さんは「バズりすぎて死ぬこと」の視点を取り上げ、水野しずは「時事ネタ」や「どうしてもウケたい」が先行しすぎていることに言及した。

茶道を引き合いにした「てまえ」の例は腑に落ちた。今はコレがいいんでしょ?という作法に回収されすぎて自分自身は本当は何をどう面白がってるか分からなくなってる、というようなお話。
ほかにも今は"インターネットが染みたナニか"をただ味わっているだけになっている話とか。
まじで分かりやすくて納得するのでアーカイブ視聴してほしい。


ちなみにスレッズは9割の人が正しい方向性の使い方をまだ見出していない。ただの避難先として、または初期ツイッターの郷愁を追体験したくて、とりあえず始めてみただけの様子。


ツイッターはすべてが小慣れ感とか惰性とかポーズっぽくなってきている。バズってるツイートを見ても、コレ1年前にも同じような内容の見たなとか。箇条書きにされた格言らしいツイートなんて完全に意識高い人たちが情報商材脳で使いまわしているだけだし。

でもそういった小慣れや上っ面の発信は、私もテレビ番組の感想を書くときに自覚もあって。
たまに本気で言いたいことよりも、言いたかったはずの本質よりも、先にそれっぽい文章やウケそうなテーマが浮かんでいて、そこにたどり着くためだけの単語を拾ってしまっている感じがある。具体はないはずの"ツイッターっぽさ"を、自分からやりにいっているとき。

けっこう心当たりがある人も多いはず。


じゃあそこで何が必要で、これからは誰が生き残っていくのか?

ってところを、このトークイベントや『親切人間論』の中では語られている。
薄々なんとなく自覚や危機感は持っているのに、目を背けていたり自分では定義解釈できなかったりすることをめちゃくちゃ分かりやすく綴ってくれている。

だから何度もこの本を読み返し他のトークイベントも直接観に行っていた自分にとっても、あらためて色々と気付きがあった。
「もしかしたら自分だけしか思ってないようなこと」「その人の頭や心をちゃんと通過してから出てきた借り物じゃない視点や解釈」がいかに大事かを思い知らされる。

実力、変化、逸脱、めっちゃ大切。


原宿さんは恥ずかしながら今回のイベントで初めて知って、その対話ぶりも初めて堪能したんだけど、とても魅力的な人だと感じた。かなりユニークなのにそこにドヤ感や欲がなくて、相手と自分の距離感も見誤ることなくコミュニケーションがはかれる人。静止画で見るよりもずっと気さくだし、しずさんとの相性もめちゃくちゃ良いと思った。
しずさんが段々とテンション上がっていくのも分かったし、心から爆笑する様子や楽しんでいる姿を観られたのは水野しずのファンとしても素直に嬉しい。


ツイッターが死んだ日にジュンク堂本店で感性豊かな2人によって語られたトークイベント。

アーカイブ7/16(日)まで視聴できるのでオススメ。何より『親切人間論』を読めば全方位的にヒントを得られるし、自分で色々考えるようになる。
思考停止している自覚がある人にもオススメ。


以下は自分の備忘録的メモとキーワード。

・いいとも最終回
・波長バズり
・実力の運用
・正気を保ちながら正気であることをバレるな
・大谷ナントカ→藤井聡太や三笘薫も?
・虚構の懸念
・ヨーグルトなめすぎ
・メタルギア
・ラ行がメビウスの輪
・世界を変えるな減らすな増やせ
・多様性、サステナブル、その語感に踊らされる
・バトロワの最初みたいなどうにもならん感
・適応と消耗戦
・髪型はせめて10年に一度変えろ
・タイトル最高シリーズ
・食べない、二の足踏まない
・果たして、そうでしょうか?
・雑談の解決法

『親切人間論』の感想note↓


サポートが溜まったらあたらしいテレビ買います