第三十五回 北村透谷 書評『罪と罰』、『「罪と罰」の殺人罪』

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今回のテキストはわかりづらかった!とクレーム入りました!
すみません!
思うに文体の古めかしさ(明治25年)も然ることながら、
批評対象のドストエフスキー『罪と罰』についてのマニアックな
言及がハードだったかなあと思います。

罪と罰 そのあらすじ

考えすぎで精神を病んだ貧乏な大学生が、
「不平等の解消」という思想のもと、金貸しの老婆(とその妹)を惨殺する。
その後に罪とはなにか、神はいるのかなどいろいろ悩む、そんな話。

批評ってエラそうだよね


批評家」ってあんまりいいイメージはないのではないか、と思います。
皮肉な用法では「自分ではなにもせず文句いうだけ」みたいな。

現代だとAmazonや食べログなどのユーザーレビュー、このブログも含め、
素人が上から目線で好き勝手に言い募ります。

プロ・アマ含めた「批評家」の
その臭さ、鼻持ちならなさの原因は何でしょうか?


考えるに「自分は何でも知っている」という態度に起因するのではないか。
それは「新しいものは認めない」という老けた達観や諦観へと至り、
受け手をしらけさせる。

でも、この北村の書評はとにかく無邪気素直、というか
感動が漏れてしまってます。

乳を混ぜざる濃茶を喜び、水を割らざる精酒を飮み、沈鬱にして敢爲、堅く國立の宗教を持し、深く祖先の業を重んず、工業甚だ盛んならざるが故に中等社界の存するところ多くは粗朴なる農民にして、思ひ狹く志確たり。

冒頭はこんな感じ。ロシアという国を論じ、その民衆や制度を紹介し、
インテリの型を崩していない。

その後も

開卷第一に、孤獨幽棲の一少年を紹介し...

と冷静にあらすじの説明をはじめますが、

居酒屋に於おける非職官人の懺悔?自負?白状と極めて面白し...

ここから様子がおかしい。
ちょっと視点がミクロすぎる、というか。
マルメラードフというダメ父さんはたしかに印象的なんですけど、
中身を未だ読んでない読者としては何が何やら状態でしょう。

ロシアの「黒船」を諸手をあげて歓迎する

最初はインテリ調で幕を開けたこの「書評」ですが、
全体としては「絶賛」あるのみです。

第二卷の速やかに出でんことを待つ。


はやく続きが読みたい!」だったり、


ドストイヱフスキーの名と著書に至りては吾文界に之を紹介するの功不知庵に多しと言はざる可からず
余は不知庵がこの書を我が文界に紹介したる勇氣をこよなく喜ぶものなり


翻訳してくれてありがとう!」(大事なことなので2回言います)

と童心にかえったかのようなノーガードな無邪気ぶり。

「ノーガードな」といえば、
「実名レビューでの絶賛」って結構勇気いるんではないか、と思います。
それでメシ食ってるプロであれば当然。

たとえば映画の予告編で

「★★★★★ 素晴らしい映画だ ーシカゴ・トリビューン」

みたいな感じで絶賛してるのは大概、個人ではなく「新聞」や「レビュー紙」のような気がします。

で、個人の場合は「星の出し惜しみ」をする。要するに「ケチ」なのです。
「ゴダールに比べればまだまだダナ」的な。
だって絶賛してその作品に「穴」があったら批評家も気まずいですしね。

で、北村透谷もそんな立場に追い込まれたようで...

アンチテーゼによって思考がクリアになる

https://www.aozora.gr.jp/cards/000157/files/45396_19346.html
「罪と罰」の殺人罪』という書評の「続き」という変わった内容なのですが、
「『罪と罰』は殺人の動機が弱い。展開も支離滅裂」みたいな別の批判的な書評があったようで。

人命犯には必ず萬已むを得ざる原因ある事ことを言ひ、財主の老婆が、貪慾を憤どふるのみの一事にして忽ち殺意を生ずるは殺人犯の原因としては甚だ淺薄なりと言ひ

これに対し、北村は大慌てでこの書評を出した様子が伝わってきます。


余は「罪と罰」第一卷を通讀すること前後二囘せしが、その通讀の際極めて面白しと思ひたるは、殺人罪の原因のいかにも綿密に精微に畫出せられたる事なり、もし或る兇漢ありて或る貞婦を殺し、而して後に或る義士の一撃に斃れたりと書かば事理分明にして面白かるべしと雖へども、罪と罰の殺人罪は、この規矩には外れながら、なほ幾倍の面白味を備へてあるなり。

あんたら「儒教」に染まりきった古臭い・お決まりの物語で満足なんだろうけど、これは新しい小説だ。口出すな。
というのが建前ヌキの本音でしょう。

「絶賛」するにもリスクがある、その一方で
「コイツらわかってないなあ」というイライラのおかげで
ややぼんやりしていた北村の『罪と罰』論が一気に明確になったようです。
これぞアウフヘーベン、ですね。

原理主義者に(できるだけ)ならない方法

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贔屓のスポーツチーム、政治の話題、愛用のブランド...。
現代の「宗教戦争」のようないがみ合いは日常見受けられるかと思います。
身近なところでは本や漫画、映画などでも。

たとえば個人的には
「『ハイキュー!!』読んでる人間に悪いやつはいない」
と考えていますが、同時に
「『〇〇』が好きなのはブームに流される浅いやつだ。信用ならない」
と無意識に「キモい思考」をしている自分に気づいて愕然とします。

じっさいのところ「同じコンテンツが好き!」という接点で盛り上がれるのは、
ほんの短い期間で、人それぞれの「感じ方」「思考の深さ(オタク度)」が合っていないと、
そんなに深い仲にはなんない気がします。
(個人的には分野に関わらず「独自の体系的な理論」を持っている人とは仲良くなる傾向が...笑)

分析・批評も思考を深めるいい手段ですが、
原理主義」も程度があるのでしょう...。

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