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愛が偽りに終わるとき(1994/3/1)/山崎浩子【読書ノート】

私はいかにして統一教会に囚われ、いかにしてそこからのがれたか―。
入信、合同結婚式、教えへの懐疑、そして棄教。いわゆる統一協会問題の渦中で身をもって考えた家族、友情、愛の真実…愛し、闘い、ひたすら真摯に生きようとしたひとりの女性の魂の記録。すべてを克明に語る。

本書より引用

元教会員牧師の脱会理由

翌朝、姉に牧師さんを呼んでほしいと頼んだ。
そして、その日の夕方、二人の牧師が訪れた。自分の教会の仕事があるので、翌日からは交代で来られるということだった。私は三つ指をついて、少しばかり笑みを浮かべて出迎えた。
「ボクがサタンに見えますか?」
私は首をふった。誠実そうで嘘がつけないようなタイプに見えた。統一教会で言われているのとは、ちょっと違うなと思った。
「あなたは、統一原理を真理として信じているんですか」
「はい」
「真理とは、ぐらぐらしない、動かないものという意味ですね」
「はい」
「そしたら、統一原理が本当に真理であるのか一緒に検証していきましょう」
「はい」
今日はあまり時間がないので……ということで、初めに聞かされたのは、脱会した信者に対して、教会の指導者クラスの人からの脅迫電話を録音したテープだった。
(こんな人もいるの?)

おそろしいほどに、薄汚い口調だった。
統一教会をやめるのはいいが、反対活動だけはするな。霊の子たちに連絡するんじゃない。もし、そんなことをやったら、ただじゃおかない。――そんな内容のテープだった。
私は悲しくなった。教えは正しいのに、こんな人がいるから、教会が悪く思われたりするんだ。
文先生に申しわけない。そう思った。他にも多くの暴力事件の資料を見た。
信じられない。
しかし、統一原理は正しいし、メシアである文先生は正しい。それなのに私たち一人一人が、きちんと責任を果たさないから、こうなってしまうんだ。いきすぎのあった点は、これから私たちが改善していかなければならない。そうでなければ、神とメシアがかわいそうだ。
私は何を聞いても、そんなふうに思うばかりだった。

翌日。
牧師さんが自分のことを話してくださった。彼は、なんと以前統一教会員だったのだ。
(どうしてこの人は、堕ちちゃったんだろう。<アダム・エバ<男女問題>か。アベル・カイン<上下問題>か。それとも反牧の手によるのか)
ところが、そのどれでもなかった。

彼は教会員である時に、既成教会の神学校へ通わせてもらったのだそうだ。
キリスト教と統一教とをひとつにしなければならないという神の摂理があるので、キリスト教を学ぼうということだったらしい。
そして、そこで統一原理でいうキリスト教の概念がかけ離れていることを感じ、深く学んだあと、自分から統一教会を脱会したのだそうだ。キリスト教を学んで、統一原理の間違いに気づいたのだという。

私は今まで、そんな人に出会ったことがなかった。教会の中で耳にするのは、「天理教や創価学会や、いろんなところから統一教会にいっぱい来てるのよ。それに既成教会からもね、たくさん来てるの。みんな今までのキリスト教では得られなかったものがあるから、どんどん来てるのよねえ」ということだった。
逆に統一教会から既成キリスト教へ自分の学びによって離れていく人がいることなど聞いたことがなかったし、また信じられなかった。
これこそ真理と思えるぐらい、統一原理は素晴らしいものなのに、それを自分から捨てたというのか。

脳天を打った衝撃の一文

そんないくつかの話のあとだった。『福音主義神学概説』(H・ミューラー著、日本基督教団出版局刊)のたった数行の文を見せられた時、私は、身体の中がカーッと熱くなったのを感じた。
それは、次のようなものであった。

問一 福音主義神学の本質は何か
一 福音主義神学は、〔十戒の〕第一戒の約束に基づいている。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト記20:2-3)。
福音主義神学は、すべての真正なユダヤ教神学とともに、ご自身をその言葉そのものによってその民に啓示し給うた神の約束の下に立っている。それはその基点において、啓示神学である(ローマ3:2)・それによってすべての異教的神学(自然神学)が退けられる。なぜなら、
a 福音主義神学は、神が人間を欲し、求め、見出し給うことによってご自身を認識させるべく与え給うということに信頼しているが、しかし異教的神学は、人間が神を欲し、求め、見出すことによって神を発見するということを頼りにしているからである。
b 福音主義神学は、神が神からしてのみ、すなわち神ご自身のみ言葉からしてのみ認識され得るということ、それゆえまた神がご自身を人間に啓示し給うということに基づいているが、異教的神学は、神が創造から(現に存在しているものから)認識され得ると考え、それゆえ人間は神を発見し得ると考えているからである。
c 福音主義神学は、神認識が賜物であり恵みであることを知っているが、異教的神学は、神認識を宗教性や敬虔における人間の業と見なしているからである。
(統一教会は、キリスト教を統一するなんて言ってるけど、これでは、そんなことは絶対にできない。キリスト教における最大の罪を犯しているんじゃないだろうか)
統一原理は、被造世界から、つまり現に存在しているものから、神を知ることができるという教えだった。
つまり、福音主義神学では異教的神学と定義されていることを、統一教会は行っていることになる。神を人間の理性や知性でおしはかれる存在とする統一原理は、神を人間より小さい存在として見ることになるというのが、福音主義の考えである。たとえ福音主義というものがキリスト教の中の一部の考えだったとしても、統一原理とは決して交わることはない。統一教会がキリスト教を統一することなど、できない相談なのだ。
私は、その本を一晩中読み続けた。難しい本だった。けれど、統一教会の信仰は、この本でいっている本当のキリスト信仰とはかけ離れているものであり、正反対の極と極であることだけはよくわかった。
どっちのいう神がホントなんだろう――。
(神様、どうか私に正しい判断を与えてください)



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