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エンタメ断捨離してたらプロレス(興行ではない)が必要ないと判明した話

お家時間を楽しむどうたら化が進んだこともあり、ありがたいことにかつてないほどエンターテインメントの充実が図られました。ヘッダ画像をお借りしています。

プロレスの定義

各種プラットフォーム内におけるコンテンツの肥大だけでなく、コンテンツを提供する側のプラットフォーム自体が母数を増やし、Netflixは株価を下げたり契約者が減ったり税務監査が入ったりした。後半の文はなんも関係がありませんし特にねとふりに対して恨みはありません。

プラットフォーム内コンテンツを充実させるのは企業であるケースが主流だとは思いますが、素人も頑張る。とりわけYouTuberなんかはわざと仲が悪いみたいな感じを演出して、非日常じゃない感を提供しようとしますね。これがプロレスです。ぼくが非常に苦手な単語です。仮面をかぶったりパンツ一丁でロープ際から滑空する興行のことではない。

この元来のプロレスという言葉の意味をも汚していることもぼくがプロレスという行為および単語を忌避する理由でもあります。とはいえ元来のプロレス自体も運動であるレスリングにプロフェッショナルを勝手につけて名乗っていて、レスリングに携わる側は辟易しているのだろうか?疑問は尽きない。

エンタメには平和以外必要ない

別にプロレスの肩を持ってポジショントークがしたいわけではありません。

ぼくはエンターテインメントに対して平和しか求めていないことに最近まで気づいていなかった。

なぜならエンターテインメント以外の事項が平和ではないためです。以外、という言葉がカバーする範疇は、自己の意識がエンターテインメントと認識する対象以外のすべてです。

自己が人間であれば人間社会を、自己がありんこであれば蟻社会を、自己が「わに」だったらアリゲーター社会を指すでしょう。

ぼくが定義する悪い意味でのプロレスとはまさにわざわざ「平和ではない世界を演出する」文脈のエンターテインメントです。気が立った人たちが気が立つ様なことをする。これを地獄と言わずしてなんとする。

本当は仲が良いのに、裏回しして「じゃあ今日はこのタイミングで僕にキレてもらって……wへへww」「あっわっかりました~悪(わる)ですねwwwブヘヘ」みてえな談合の結果、視聴者は当事者たちが醜く言い争っているさまを見せつけられることになる。

「争いを造る」とは「敵を造る」とどう違うのか

プロレスという言葉が織りなす文明の驚くべき伝統はここからで、なんと視聴者も当事者たちが本当は別に仲が悪いわけではないことは織り込み済みなわけです。

つまり、その場において当事者たちが口汚く互いを罵る必要性など森羅万象のどこを探したところで見つからない。どぶに落ちていない、自分の財布に入っていると今確認したばかりの1円玉をどぶの中に入って探す行為となんら変わりがない。

「そこまでしてでもエンターテインメントを造ってくれ」、なんて誰に頼まれたんだろう?また誰が頼んでいると思い込んでいるのだろう?強迫観念ではないのだろうか?それでもプロレスを見る層が一定数ある……とは思いたくはありませんが、まったくないわけではなさそうで恐ろしい。

万人受け……と言ってしまうと大げさかも知れないので具体名も出せませんが、そういう人に限って(あるいは下地のキャラクタ性も手伝い)誰かとコラボレーション(誰かが誰かと共にライブ配信するだけでコラボレーションという大げさな言葉を使う文化も非常に苦手であり困っています。一緒にライブ配信する、でいい)した際に相手を口汚く罵ったり、対戦ゲームでもないのに相手に不利を強いたりして演出してしまう。

そのようにして、平和ではないものを断舎離していくと結構な数を減らすことができる。しかしながら同時に、結構な数が減ってしまう事実に戦慄せざるを得なくもなる。

竜ちゃん(上島竜兵)が得意としていた、出川哲朗と喧嘩した2秒後に仲直りの接吻をする芸があります。

これは仲直りまでは同じ文脈と言えるかも知れない。

ただ、一瞬で仲直りするから誰か少しだけ傷つくかも知れないけど尾を引かない。そんな竜ちゃんが造った文化に対しても汚泥をなすりつけてはいないだろうか?

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