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メアリと魔女の森(とハピエン村)

メアリと魔女の花という題名を思い出す前に、メアリと魔女の森という題名だったかな~~と思っていたら違っていたのでそちらを題名にしました。ヘッダ画像をおかりしています。

まずその……ぼくはこの映画がどのような経緯で造られたかなんてさっぱり知らない、興味がない、調べもしない……わけですが、「メアリと魔女の花」って検索エンジンに入れた時に───それが正当な評価なのかどうか知らないし興味ないのだが──サジェスト汚染がいろいろ起きてそうだな、と思い、またそのようなことを思う自分にうんざりし、そしてそのサジェスト汚染っぷりを確かめてもいない(もちろん今後も確かめる気はない)のに世界に対してうんざりせざるを得ない感じっすね~~~~~~~と思った。

つまり魔女の宅急便とハリーポッターとラピュタとキマイラ研究所と……みたいなことですね。この固有名詞群が何を意味するのかぼくにはわからない。説明のしようがない。

つまり悪意を持ってレビュウをしようと思えばどの映画だっていくらでもできる。ぼくは今回この映画じゃなくてスティーブン・キングのドリームキャッチャーの感想を書こうと思ったんだけど、そちらだってめちゃくちゃ言おうと思えば言えてしまうので滑稽だ。

また物語には教訓があってもおかしかないのかな、と思うんだけど、そういうのっていつまで経ってもでてこないな、いい感じやんけと思っていたらでてきた。それは「人間には扱いきれないタイプのちからも存在するんだよね~~~~~~~~~~~~~だからそういうのはやめようね」的なものだ。

つまり反核……とかでしょうかね。今で言えばAIとかもでしょうか。便利だけど引き際をわきまえろよ、的なことですかね。。。。。。。。今という現実からギリ未来に残せるメッセって何かな、と考えた場合、「頼むから滅亡せんといてね^^;」ぐらいしかないっすよね。ひとまず人類が滅亡しなければ自分の子孫が生き延びる可能性が高まる。誰しも自分の子孫はかわいいものなのでしょう。右翼とか左翼とかどうでもええんで、とりあえず、死なんといてや!wと。

そしてぼくはハピエン村の住人なので、こうしたジュブナイル(ジュブナイルなのか?)映画で異性同士がでてきたらそいつらはくっつかなきゃ嘘だろ!?と思ってしまう。ハピエン村とはハッピーエンドしか愛せない村のことである。そこの住民であるからにはハッピーエンドしか受け入れられないのだ。

今回この文の題名をわざと森にしたが……もちろんあのブルーベリー然とした花にはそれなりの意味があったが、森でもあまり意味が変わらない気がする。それはこのハピエン村につながる入り口こそが森であり、森がなければすべての話が始まらなかったからである。

すでにここまで読んでいただいた方にはぼくが純粋な気持ちでこの映画を見れなかったことぐらいは瞬時に伝わってしまったことだろうが、伏線とかベクトルとかいちいち造らなきゃいけないの大変だよな~~~~~~~~~の気持ちで思いっきり見てしまったのだった。それはメアリとピーターの悪口言い合う関係が森の前で中断され、相思相愛に向かうあたりにも言える。

メアリはいつまで経っても学校になど入学しないし、親御もあらわれやしないし、一体どうなっているのか。つまりはそこまで期間が進む話じゃなかっただけなんだけど、まさかメアリが50時間ぐらい寝ないで戦う話だとは想像しまいて、と言いたいわけです。ピーターがメアリを助けに行かなきゃと思えるほどコミットメントというのかエンゲージメントというのかが高まっていた。責任感というべきか。

きれいでしたね。大学のジムみたいな場所での生徒の動きとか校庭を歩き回る活け造りだかなんだかわからない生物オブジェクトとか生きてるなにかとか……作画コストが尋常じゃなかったんじゃなかろうかと思える。教室の最上階に行って透明になる魔法とか被害を受ける生徒群とか……なんか一様に目隠しされてたのはこちらも作画コストのためでしょうかね。顔のパーツなんていちいち書いてたら設定資料が倍の厚さになってしまう。

そしてキマイラ研究所。こんな物が出されたってことはメアリに関係するだれかがキマイラにされちまうという伏線でしかない。そして実際そうだったけど、キマイラっていうのはAとBが足されてABになっちまうんだと思うんだけど、Aは帰ってくるけどBが帰ってこない描写だったもので「え……」とか思っちゃったんだけどこの感覚は正しいのだろうか。

そして満島ひかりですね。どう見ても声優じゃない声に……「圧倒的正義」の役回りを与え、圧倒的正義な言い回しをさせ、上記「力に溺れるなよ」的な教訓を言わせるというのがこの物語の本懐なのだとすれば、若き日のシャーロットとは完全無欠のヒロインになる。一時的ではありますが……

マジでもえもえきゅんでしたよね。シャーロットに関してだけはなんの伏線もなく圧倒的正義として書かれていたことにあっけに取られた。あ別にこれ遠回しに皮肉ってるわけじゃなくて、物語の進め方としてこういうのもあるのか、そしてここに言いたいことを詰め合わせるとこういう見え方するのか、みたいに思ったというだけのことです。

大竹しのぶには気づかなかった。渡辺えり子はでてきてそうだと思ったらマジでいてわろた。そしてぼくは校長が小林幸子にちげえねえ、あ~あそんな起用するのってどうせ角川だから角川の息がかかってる映画なんて見るんじゃなかったと思いこんで見てたら、天海祐希でクソワロタ

いや……天海祐希の演技が凄まじいんだなと思ったわけです。小林幸子の持つ重厚さ(小林幸子は果たして重厚さを持ち合わせているのだろうか?プラス、ぼくは小林幸子自体は別に嫌ってはいない)そしてアレがキートン山田だと思っていたら遠藤憲一じゃなくてぼくの嫌いな方の男だった。今からでもキートン山田だったってことになりませんかね。

で、実際角川の息がかかってるかどうかみたいなことを今から調べりゃかんたんにわかるんだろうけど、実際そうだった時にがっかりしたくないのでそれはもうシュレディンガーの猫でいいと思っている。ぼくらには携帯片手で一瞬で知れることだろうと知らないで居続ける自由があり、それは楽しめるべきものなわけです。

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