鬱映画に魅せられて #1

はじめに
はじめまして、吉川れーじです。
僕は普段、大阪で音楽を作っています。音楽を作るうえでインプットの作業はとても大切で、その為にこれまで様々な芸術作品から多くのヒントをもらってきました。その一つが映画でした。僕にとって映画とは僕自身の精神衛生の引き出しの中身を充実させる手段の一つでもあり、音楽の皿にほんの少し隠し味を加える秘匿のスパイスでもあるのです。それほどまでに僕の音楽と映画は直結していて、なくてはならない存在なのです。
そんな僕が常日頃から思っている映画のお話です。

は?鬱映画ってなに?
俗に言う『鬱映画』の定義とは主にバッドエンドの作品である事、性的描写ないし暴力描写が露骨に出ている事、そして差別的な内容を含んでいる事。多くの『鬱映画』と呼ばれる作品にはこの三つの要素のどれか、もしくはその全てが含まれて構成されている。こういった映画の多くはヒューマンドラマやサスペンスといったジャンルの中でも特に『救いのない』『報われない』『後味の悪い』とレビューサイトにまとめられている。
はたしてそうだろうか…?。本当に映画のストーリーの中で、主人公の『彼』や『彼女』たちは救われてないだろうか…?。僕は大きく間違っていると兼ねてから思っていた。しかしながらそれを証明する術も、それが必ずしも間違っていると言える絶対的な確証も無かったのだ。
そもそもこういった映画を『鬱映画』と呼ぶ事自体にも僕はあまり肯定的ではない。どんな物事にも側面はあって、ある一面だけを切り取ってレッテルを張る、その安直な思考が僕は好きではない。だがあえてタイトルに『鬱映画に魅せられて』とつけたのには、崇高な映画を軽々しく鬱映画と呼ぶ人にこそ読んでほしいという理由があるのです。
僕はずっと言い出せずにいた。僕が敬愛してやまない作品に対して「あれは胸糞悪いから見ない方がいい。」などと軽薄で傲慢なレビューを書くサイトや、それを鵜呑みにし知人に「胸糞映画だから見てみww」などと触れ回る自称映画好きの戯言も、ずっとずっと堪えて聞き流してきた。だがしかし、それももう終わりにしようと思う。
なぜなら僕は…
『鬱映画』の皮を被ったとんでもない『糞映画』を
見つけてしまったから…。

邦画「子宮に沈める」について
ダークな映画を探し求めて、ネットの闇をあてもなく彷徨っているうちに辿り着いた一本の映画。「子宮に沈める」
この映画を見終わった瞬間から今もずっと”モヤモヤ”と不愉快な気持ちだけが残っている。それはストーリーやメッセージ性、はたまた演出や音楽などのそういった映画本来の持つ『価値の有る表現』によってもたらされる”モヤモヤ”とは全く違う、むしろ真逆の『価値の有る表現』を台無しにする、大きく間違った思想がもたらす”モヤモヤ”である。本当は話題にもしたくない、それくらい僕は憤慨している。これを書く時点でこの映画の監督からすれば僕の負けなのだろう。それでも僕はどうしてもこの映画が、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」や「チョコレート・ドーナツ」や「隣人は静かに笑う」や「BOY A」と当たり前のように並んでいるのが本当に許せない。
もし「子宮を沈める」を観ようと思っているなら、止めたほうがいい。本当に時間の無駄。そしてもしこの映画を友達や恋人にオススメされたなら、そいつのケツにケリでも入れてやって、即座に縁を切った方がよい。
#2 ではその理由と他の崇高なる鬱映画との違いについて書きたいと思います。


吉川れーじ



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