見出し画像

ショートショート 『不眠者の見る夢』

 地下9階、区画215に由子ゆうこは眠っている。
 深夜3時、僕は仮眠室を出て廊下を渡り、エレベーターに乗った。
 どうせ眠ることはできないのだ。ベッドに横たわりウトウトしても、一時間もすれば目が覚めてしまう。
 もう苦しんだりはしない。
 僕たち不眠者は眠りを必要としていない。眠るのが普通だと考えるから苦しむ。今は普通の時代じゃあない。長い眠りを必要とする多くの人たちと、僕のように眠らないで済む少数派に分かれているのだ。
 残念なのは、由子が睡眠者だということだ。
 だから僕は眠っている由子に会いに行く。
 エレベーターが静かに停止した。
 管理局のIDカードと虹彩認証で区画215に入る。
 シンとした巨大な空間は、墓地に似ている。しかし各区画ごとに横たわっている4096人は死んでいるわけじゃあない。眠っているのだ、深く。
 空調と僕の足音だけが聞こえた。
 当たり前に眠っている人間なら寝返りを打ち、寝言を言い、いびきをかき、歯軋りさえするだろうが、睡眠者は本当に死んだように眠る。脳波の振幅からは、夢さえ見ていないと考えられている。
 中央路に交差する三つ目の通路を右に折れ、八個目のベッドに由子は横たわっていた。
 カプセル状のベッドはロックされていて、医師でない一般局員には開けることはできない。青白く発光する半透明のまゆ、その中に横たわる由子を見るだけだ。
「やあ、こんばんは」
 僕は椅子を引き寄せ、由子に話しかけた。
 管理マニュアルではひかえるようにとされている行為だ。音を立てる、カプセルを叩くなど。しかし禁止は無意味だ。今まで、どんなに話しかけても、由子が目覚めることはなかった。
「この前会えたのは、いつだったかな?」
 僕は言った。「………ああ、三ヶ月前だ。正確には94日前だった。君のお父さんと妹さんがすぐに駆けつけてきたんで、僕はあまり話せなかった。お母さんは4階で眠られているよ。特に問題はないみたいだから心配しないで」
 もちろん由子は眠っていた。くせのある巻き毛が少し伸びただろうか? リップクリームさえ使っていない彼女は、初めて会った小学校の頃からほとんど変わっていない気がした。
「今度はいつ会えるかな?」
 僕は言った。「君たちのパターンは安定していないからね。でも、そろそろじゃないか?」
 心配なのは、睡眠者全体で目覚めるまでの間隔が長くなりつつあるという最近の報告レポートだった。その期間が最大になったら、僕たちは二度と会うことができなくなるのではないか?
 由子が眠ったのは僕たちが中学を卒業する年の春だった。東欧や中東、東アジア、アフリカなどで紛争が激しくなっていた頃だ。
 ほとんど同時期に、僕は不眠者となった。
 感覚に過ぎないが、大量の睡眠者と僕のような不眠者の発生は同期シンクロしているようだった。まるで人類全体で眠りの帳尻を合わせてるみたいに。
 眠れなくなった僕は、高校卒業後、管理局に入局した。ずっと眠っている人々を、ずっと眠れない人間が世話する。それでも夜警仕事などよりは給料が良かった。何より由子のそばに居ることができる仕事だった。
「今度君が起きたら、映画に行きたいね」
 僕は由子に言った。「卒業式が終わったら行こうって言ってたよね」
 それが僕たちの初めてのデートになるはずだった。高校は別だけれど、いつでも会えるね、とそのデートの最中に言うつもりだった。
「もうすぐ、あの映画の続編が公開されるらしい。大丈夫だよ、僕も結局、最初のやつは見逃した」
 くすくす笑う由子の顔が見えるようだ。
 コツン、という音に、僕は顔をあげた。
 カプセルのセンサーが黄色く明滅している。華奢な由子の指が持ち上がり、強化ガラスに触れた。
 覚醒だ。

   ***

 芝生は朝つゆで濡れていた。
 僕は施設の広い前庭を横切り、無人サービスのカフェテリアに入った。カモミールティーを買って窓際の席に座る。小さな音でボサノヴァがかかっている。早朝で、客は勤務が終わった警備員だけだった。奥のテーブルに突っ伏して眠っている。
 僕は紙コップを持ったまま、管理局の無愛想な白いドームをながめた。今頃、地下9階では肉親たちが由子と面会しているはずだ。
 彼らであれば、由子は覚えているのだろうか? 中学時代のボーイフレンド以前でしかなかった僕などとは違い。
「………いや」
 僕は頭をふった。
 前に目覚めた時、由子は僕を覚えていた。恥ずかしそうに微笑み、苗字を呼んでくれた。その前の時だって。
 今朝目覚めた由子は、怪訝な顔で僕を見あげ、話しかける僕を怖がりさえした。これまでとは確実に違う反応だった。
 腹の底に重苦しいものが生まれている………。
「ここ、良い?」
 浅黒い顔が僕を覗き込んでいた。
 管理局付きの医師、リナ・カプールだった。彼女は由子と父妹の面会に立ち会っていたはずだ。
「ええ、どうぞ」
 現実に引き戻され、僕は錆びついた声で答えた。
 リナは白衣の裾を折りながら僕の向かいに座った。コーヒーをテーブルに置く。
「急な覚醒で、忙しかったでしょう」
 リナは言った。「前兆はあったの?」
「センサー上はありませんでした」
 僕の答えに、リナは唇の端を少しあげた。
「センサーなんてオンかオフの粗雑な機器に過ぎないわ。あなたの感覚には追いつけない」
「不眠者の、ですか?」
「不眠者特有の感覚の繊細さ、加えて肉親や配偶者、恋人などの間に発生する共感性ね。あなたに特別なパスを与えている理由よ」
「彼女は高校に入る前に眠ったんですよ。僕たちは子供だった。恋人なんて言える関係じゃあなかった」
「それでも、彼女の目覚めのタイミングで会いに行った」
「先生、医者のくせにオカルトきなんですか?」
「まだ発見されていないシステムの上に発生する現象をオカルトって呼ぶのなら、もちろん興味はあるわ」
 僕は頭をふった。リナの出身は北インドだと聞く。宗教的な背景もあるのかもしれない。
「彼女は覚えていましたか? 自分の家族を」
「完全に覚えていた、とは言えないでしょうね」
 リナは答えた。「断片的な記憶はあるけれど、それを頭の中で整合的に構成できない。あなたの記憶に関してもね」
「先生、何が起きているんです?」
 僕は聞いた。気になっていた。睡眠者を病気と言うのであれば、由子の記憶の喪失は、病相が更に進んだということになるのか?
「この先、どうなるんですか?」
「分からないのよ」
 リナは言い、コーヒーを飲んだ。「我々医者も知りたいと思っている。でも………」
 朝陽が昇り、芝生をきらめかせた。ドームの影が伸びる。あの地下に、由子を含めた大量の睡眠者たちが眠っているのだ。古代ローマの地下墓地カタコンベのように。
「私なりの仮説はあるわ。すぐに検証できるようなものじゃないし、医者仲間にはとても言えない。あなただってオカルトだと笑うでしょうね」
「教えてください。どんな仮説です?」
 僕は聞いた。
 リナは少しためらったが、徹夜明けの雑談に過ぎないと思ったのか、小さく頷いた。
「睡眠は、一般的に考えられているほど個人的なものではないのよ」
 リナは言った。「人類学や心理学、社会学には、睡眠は、ある意味で集合の持つ機能だと主張する説がある」
「集合? どのサイズのですか?」
「様々な階層よ」
 リナは掌を宙に広げてみせた。「家族や友人、狩猟採集民の集団から人類、生物一般といった階層まで含めて。睡眠は共同体のシステムを保持し、生物学的に蓄積された遺伝情報の流通に関与しているとも考えられる」
「じゃあ、眠らない僕たちはけ者ってことだ」
 僕は笑った。
「そうとも言えない」
 リナは真顔で答えた。「考えてもみて。睡眠者の大量発生と不眠者の出現は、時間的に同期していた。私はある事象の裏表うらおもてだと思っている」
「睡眠者と不眠者が裏表うらおもて?」
「少なくとも機能的には補完関係にあるんじゃない? 眠る人々と、歩哨ほしょうのように起きている人々。ある人類学者は、家族単位のそうした眠りを、合同睡眠と呼んだ」
「今起きていることは、母数が大きすぎるんじゃないかな。第一、集合の主体はどこにあるんだろう?」
「極端な話になるけれど、私は………」
 その時、緊急事態を告げる警報音が鳴り響いた。リナや僕のスマートフォンから、そしてカフェテリアに設置されたスピーカーから。奥のテーブルで警備員が身を起こした。
「何かが起きた」
 リナが立ち上がった。「思っていたよりも、ずっと早い」
「何が?」
 その答えを聞くことはできなかった。
 リナはカフェテリアを出てドームに走った。僕は管理棟に向かった。

   ***

 管理棟の中は大騒ぎだった。
 僕が中央管理室に入ると、チーフと夜勤明けの局員たちが並んでコントロールパネルを見あげていた。
「どうしたんです?」
 僕が聞くのに、
「起きたんだ。皆で、一斉に」
 チーフが答えた。「今までなかったパターンだ」
「皆って、ここの睡眠者全員がですか?」
「同じ目覚ましに叩き起こされたみたいにな」
 僕と同じ不眠者の溝口が答えた。「ヤバいことに、他の地域でも発生しているらしい」
「それじゃあ地球規模の目覚まし時計ってことになるな。すげえうるさそうだ」
 まだ若い幸田が言った。
「冗談を言ってる場合じゃない」
 チーフは頭をふった。「ゆうべ、9階の215区画で覚醒した娘がいたな。記憶が断片化していたらしいが」
 由子のことだった。
「さっき一斉に覚醒した睡眠者たちも、同じ状態に見える」
 チーフは監視カメラの画像を切り替えた。カプセルの中、上体を起こしてぼんやりと辺りを見まわしている睡眠者たち。皆、奇妙に同じ動きに見える。
「下手をすると管理局の責任問題になりかねない」
「責任なんて言われても、こっちは大したことをしているわけじゃあないですがね」
 幸田が言った。「栄養管理、排泄管理、スキンケアまで、すべて国が決めたルール通りにやってますよ」
「分かっている」
 チーフは腕を組んだ。「医師チームが調査を開始したばかりだ。今、我々がやれることはほとんどない。だが、どうせ報告書を提出しろと来るだろう。データの整理をしておいたほうが良いかもしれないな」
「まずいデータがあったらどうします?」
 溝口が聞いた。
<どこにいる?>
 僕は管理室の中を見まわした。幻聴ではない。
「そいつは………」
 チーフは微妙な顔をした。「ちょっとリーダークラスで会話しておいたほうが良いかな」
<ワタシはここにいる。アナタはどこにいる?>
 奇妙な声だった。大人数の男女の声を混ぜ合わせたような。しかし確実に分かった。その中に由子がいた。由子が僕を探している。
「じゃあ、他のリーダーが来てから会話、ってことで。ああ、空いてるな。会議室Bで、全員入りますよね」
 溝口が会議室の予約画面を操作する。
<僕はここにる。今、そっちに行く>
 伝わるかどうかは分からなかったが、僕は考えた。
「それまで二時間か。仮眠しておくかな。俺も夜勤明けで出続けってのはこたえるからな」
 チーフの言葉に、皆の雰囲気が弛緩した。コントロールパネルの緊急事態マークに変化はないが、各々の作業に戻っていく。
 僕は中央管理室を出た。
 行く場所はひとつしかなかった。
<来て>
 由子を含んだ声が言う。
 僕はドームへの渡り廊下に入った。
 スマートフォンが着信を告げる。リナ・カプールからだった。
「今、どこ?」
 リナが聞いた。緊張している。
「ドームに行こうとしています」
 僕は答えた。
「駄目!」
 リナはほとんど叫んでいた。

   ***

「生まれようとしているのよ」
 リナは言った。
「何がです?」
 僕は渡り廊下の途中で立ち止まった。リノリウムの床が朝陽を弾いている。ガラス越しに、芝生の緑がまぶしい。
<来て、早く>
 由子が僕を呼ぶ。
「………新しい形態の、ヒトよ」
 抑えた声でリナが言った。「睡眠者たちは個人じゃない。全体でひとつの意志を共有している。眠りの期間は統合のために必要だったのかもしれない」
「今朝、話していたことですね」
 僕はスマートフォンに言った。「先生の仮説に過ぎなかったんじゃないんですか?」
「フェーズが進んだのよ、彼らの覚醒で」
 リナは言った。「あなた聞いたわよね、集合の主体はどこかって。その主体が生まれたの。睡眠者全体がひとつの主体となっている。この施設だけじゃなく、世界中の睡眠者がひとつになっているの!」
「………しかし」
 僕は乾いた唇を舐めた。「じゃあ、由子は?」
「消えたとも、消えていないとも言える」
 リナは言った。「彼女個人の意識がどんな形で統合され、もしくは継続するかは分からない。誰にも分からないでしょう」
<行くわ>
 声が、決然と言った。それは由子の声にいっそう近づいているように聞こえた。僕というフィルターがそうしているのかもしれなかった。
「逃げたほうが良い」
 リナは言った。「言ったでしょう? 不眠者は表裏一体だって。私の考えが間違っていなければ、あなたは彼らに呑み込まれる」
「僕を、どうしようというんですか?」
「不眠者は歩哨なの。彼らはあなたを必要とする。頭蓋骨に閉じ込められた脳が目や耳みたいな感覚器官を必要とするように」
 靴底に振動を感じた。床が揺れている。
<そこね>
 先端が見えた。
 不眠者の見る悪夢だった。
 半透明の先端が床を抜け、ゆっくりと浮き上がってくる。中に色が見える。ふと思ったのは、昔、母が買ってきた水菓子だった。薄い水色のゼリーの中、様々な色合いの果物が埋まっている。宙に捉えられたように。赤、紫、黄、だいだい………。
 質量を持たない塔は、床から廊下の天井までを貫いた。神社の巨木のように太い。しかしこれがほんの先端であることを僕は知っていた。本体はドームの地下深くで育っている。
<みつけた>
 由子が言った。
 瞬間、塔が実体化した。
 それに呑み込まれていなければ、僕は管理局の瓦礫の下敷きになっていただろう。
 ゼリー越しに見る崩壊だった。
 凶暴な大樹が根ごと起立したように管理局のドームが持ち上がり、渡り廊下と管理棟を道連れに空中にのたくった。ガラスやプラスティックが砕け、陽光を弾く、それを追ってコンクリートや鉄筋、様々な建築資材が宙に舞った。続いて大量の土塊つちくれが大気を鈍色にびいろにする。太いパイプが踊り、水を噴出する。
 不思議と、人間の身体は見えなかった。
 睡眠者たちは、僕自身がいるこの塔に一体化している。彼らの存在を感じる。管理局員はどうなったんだろう? チーフや仲間たち、リナや医師たち、警備員や事務員たちは?
<すべてが変わるの>
 由子が耳元でささやいた。
 僕は地表を見下ろしていた。
 感覚的には500メートルほどだろうか? 地面から引き剥がされ、裏返ったドームのシェルが転がっている。土と瓦礫が混じり合い、抽象画めいた風景を描いている。その上にパイプからの水が虹を作る。朝の時間を妨げられた鳥たちが東のほうに飛び去っていく。
「僕たちはどこにいるんだろう?」
 僕は由子に聞いた。
<ここにいるわ。でも、どこにでもいるのよ>
 由子は言った。
<ほら、感じるでしょう?>
 確かに感じる。
 世界中で天高く佇立している塔の存在を。仲間であり、由子であり、僕自身だ。それはヒトとヒトに達するすべての生き物の記憶をはらんだ粘菌だ。高く高く塔を作り、世界に飛散する。
<さあ、行きましょう>
 由子が言った。
「ああ、行こう」
 僕は答えた。
 そして僕たちは飛び立った。広大な世界に向かって。

Dream of insomniacs


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?