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ショートショート 『反転芸人』

 サーカスは市の東側、波がのっぺりとした湾に面すのひとつにやってきた。
 串状に海に突き出た港には、コンビナート、製油所、製鉄所、発電所、物流センターなどが建ち並び、普段は運搬用の大型トラックが忙しく出入りする場所だった。関わりのない人間にとって面白い場所ではない。

 ただし数年に一度、この市にサーカスが来るときは別だ。

 広い敷地に色とりどりの巨大なテントが建てられ、そのまわりに数百の露天、見せ物小屋がフラクタルの様相で集まる。楽隊が騒がしい音楽をかなで行進する。
 夜になると、サーカスはオレンジ色、赤、紫、青といった様々な灯りに照らされ、湾を挟んだ向こう岸からも、ぼうっと夜に浮かびあがって見える。
 露天で焼かれる様々な食材、豚、鶏、牛、海老、貝、魚などから出る煙が立ち昇り、サーカスをドームのように覆う。煙のドームに光が映え、陸にあがった大きな夜光虫のように見える。
 音楽や人々のざわめき、車群のクラクションが混じり合い、騒音は深夜まで続く。

 それは小さな見世物小屋だった。

 サーカスの中心である7つのテントからすれば、巨象の皮膚にとまったハエに寄生するアメーバのようなものだ。事実、市役所と契約書を交わしたサーカス本部は、そんな見世物小屋の存在は知らなかった。違法な露天商たちを目こぼしする代わりに、幾らかの小遣いをかせぐ役人も知らなかった。役人と連携し、小商人あきんどの場所決めをするヤクザ者の数人は知っていたようだが、彼らはその見世物小屋にはかかわらないように気をつけていた。

 残照が海面をオレンジ色に焼く夕暮れに、小屋は開いた。

 客は多くなかった。どちらにしろ、客席として置かれたパイプ椅子は20脚。円形のステージの周囲にぞんざいに並べられているだけだ。椅子には中年から初老にかけての男たちが訳知り顔で座っていた。
 演物だしもののひとつ目は、身体中にオイルを塗った半裸の女の取っ組み合いだった。ミルク色とチョコレート色の肌をした女ふたりで、半裸という表現は控えめにすぎた。
 取っ組み合いが始まると、男たちの顔はだらしなくなり、女たちの顔は険しくなった。ふたりとも言葉は発しなかった。荒い息を吐き、犬のように唸り、ときに吠えた。拳や肘が相手の腹を叩き、金色の飛沫を客に飛ばした。互いの爪に裂かれた皮膚が垂れ下がり、時折、客が掛け声をかけた。
 最後は、チョコレート色の女が頭突きで相手の鼻を潰した。顔中を血まみれにしたミルク色の女は動かなくなり、小屋の男たちが彼女の手足を抱え、運び出した。

 こんな調子の演物だしものが5つ続いた。

 どれも市の教育委員会が知れば怒り狂う内容ばかりだった。大量のミミズにミートソースをかけて食う老婆、下半身が人間の人魚が踊る、ミイラの頭を使ったジャグリングなどだ。
「では、今夜の最後の演目となります」
 古ぼけて茶色くなった燕尾服えんびふくの司会が、右目の義眼で客を見渡し言った。「反転芸人です。………おっと」
 彼は腰を浮かせた客を両手で押し留めた。
「途中での出入りはご遠慮いただいています」
 匕首あいくちを呑んだような声に、肥ったポロシャツの男は、尻をもどした。椅子が軋んだ。

 出てきたのは、全裸の老爺ろうやだった。

 禿頭とくとうのてっぺんから足、性器の先端にいたるまで、全身に深緑の線からなる入れ墨をまとっている。それは老人のたるんで皺になった皮膚の細部にまで入り込み、奇妙な古代文字のように見えた。
「シッ、お静かに」
 誰も声などあげてはいないが、司会は色の悪い唇に指をあて、沈黙を求めた。
「今からお目にかけるのは、たいそう困難な技なのです。最初に発明したのは、いん王朝に仕えた芸人だと言われています。今晩、これを見ることができるお客様は、大変、運が良い。しかし………」
 司会は、もう一度、客を見渡した。「ご邸宅に戻られても、この小屋の中で見たことを、美しい奥様やお利口なお子たちに話して聞かせるのは、やめていただきたい。いや、やめていただきます」
「おい、客に向かって」
 声をあげたのは、さきほどの男だった。濃紺のポロシャツの背に大きな汗じみを作っている。

 一瞬、小屋の中が暗くなった。

 発電機の不調なのかもしれない。燃料のガソリンがなくなったのではないのは、すぐに明るさが戻ったことで分かった。
 ポロシャツの男はいなくなっていた。パイプ椅子の薄いクッションがゆっくりと膨らみを取り戻していった。
 男がいなくなったことに気づいた客はいなかった。皆、ステージの老人に目を奪われていた。
 老人の痩せた身体が宙に浮いていた。
「さあさあ、始まりです」
 片目の司会は言い、ステージ脇にしりぞいた。
 ステージから30センチほど浮いた老人は、テントの低い天井に顔を向け、大きく口を開いた。年齢からすれば立派すぎる犬歯が灯りを受け、ぎらりと光った。

 老人は、口を開き続けた。大きく、大きく、大きく。

 やがて老人の口の中から赤黒い管のようなものがぬめぬめと現れた。
「皆様は、トポロジーという言葉をお聞きになったことはおありでしょう? ドーナッツとマグカップは同じ、という奴です」
 司会の声は地底から聞こえるようだった。「人間だって、所詮ひとつの管にすぎません。口から肛門にかけて穴が開いた。穴のまわりにくっついた肉と皮と言っても良いでしょう。あなたの隠している美しい愛人も、突き詰めれば穴なのです」
 老人の長々とした食道があらわになり、その先、もうひとつ大きな器官があらわれようとしていた。
 客の誰かが嘔吐した。
「おやおや、この程度で?」
 司会がはしゃいだ口調で言った。「まだまだです、うちの芸人が完全に裏返るまでは、まだまだ時間がかかります。そして夜は長い。途方もなく長い」
 宙に浮いた老人が、あり得ない角度でのけぞった。メリメリと筋肉と骨が分かれる音がした。唇が、首と同じ大きさにまで裂けている。
 血しぶきを浴びた客が椅子ごと倒れた。
「まだまだです。お付き合いいただきますよ、皆様」
 
 テントの中、灯りは次第に暗くなっていった………。

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