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距離を置くこと、「忘れる」こと。

一昨日の夜から妙に熱っぽくてだるい。昨夕測ったら、やはり微熱があった。
いつもなら構わず仕事をするけど、珍しく「もう今日は仕事しない」と決めて、布団にこもっていた。
新刊のエッセイ集。著者としての作業が終わり、あとは刊行を待つばかり。
2/16(金)に発売記念イベントも決まり、順調に席が埋まっていっているようです。ありがたい(第2弾も企画中だよ)。

年明け初めてのnote。どんな一年にするか、タイムラインを流れる知人たちの抱負を、眩しい気持ちで眺めていた。かく言う私はどうか。
この記事の終わりで予告した事柄も、「書かなくては」と思いながら、また間が空いてしまった。今回は準備体操のような、別のお話です。

意味のないことを書く時間がめっきり減ってしまった。
時間があった頃は、もっとくだらない、目的のないものをいっぱい記録してたんだなあと思う。余分な言葉を吐き出して、身軽に生きてきた。

「会うたびに違う人みたい」「顔の印象が安定しない」とよく言われる。それは、そのときどきで、書いているものに入り込んでいるからだと思う。恋人を取っ替え引っ替えすること(したことないし、してみたいとも思わないけど)と似た効果があるのかもしれない。
何も書いていないときの私は抜け殻である。
昨晩は抜け殻になって眠っていた。

「読む」という行為は、つくづく不思議だと思う。
読み手が能動的にテキストを追ってくれる分、どんな意味を見出すかは、ある程度読み手に委ねられている。
その「読み解き」の自由度は、映像や音楽に比べると、とても高いように思う。

文章は、読み手の能動性に頼った表現方法だ。
作り手と読み手がそれぞれ自立して、決してぴったりと重なることが無い。
自分が「書く」という手段を選んだのは、その自立した距離感が心地よかったからだろうか。

「ファン」という言い方があまり好きではなく、「読み手」とか「読んでくれる人」と呼んでいるのは、読者との距離を保つためかもしれない。

私は、自分の言葉の肯定者や、洗脳相手が欲しいわけじゃない。そんなのちっともつまらない。
ただ一瞬でもいい、振り向いてくれたら、と思っている。

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先日、新刊の3校(3回目のゲラ)が出て、ようやく一息に一冊を読み返す余裕ができた(それまでは加筆修正でいっぱいいっぱいだった)。

自分の書いたものを時間をおいて改めて読んでみる、というのはすごく奇妙な体験だ。

酔い覚ましがてら、新宿駅まで二人で歩く。夜風が少し生暖かく、春を感じた。思えば、もう3月も終わりに近い。私はあることを思い出し、口を開いた。

「この前、友達と『永遠なんて存在しない』って話になったんです」
「おお」
「永遠なんてない、と思ったら楽になったんですよ。どんな関係にも変化はあって、同じ状態を保ち続けることは不可能なんだと」
「そうだね。夫婦だってそうだもんね」
「ありえないと思っていた相手と、あるきっかけで急に接近することもあるし、仲がよかった人と疎遠になることもある。だから、今うまくいかなくても、関係性が変わっていくのを気長に待てばいいのかなって」

急に視界が開けて、だだっ広い荒野が目に飛び込んできた。ぼんやり眺めていると「ここに新国立競技場が建つんだよね」とMさんが教えてくれた。4年後の2020年は、途方もなく先のことに思えた。

「恋愛音痴の受難〈前篇〉」に何気なく書いたこと。2016年春に知人と実際に交わした会話である。
2020年を到達点とするならば、今はちょうど半ばの2018年。
でも私は結局、同じ場所に戻ってきてしまったのではないか。と、ゲラを読んでいる目が少し揺れた。

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