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身体の「選び方」/他人の身体にときめく

前回の記事を単体で購入された方が数名いて、忍びない気持ちになったので(2000字のために400円払って貰ったことが気詰まりなのである)、罪滅ぼしとして、追記を書くことにした。

「身体で通じ合える相手」というタイトルを見て、「もしや〈身体の相性〉的な内容を期待した方がいるのでは……」と更新後に思い至り、その観点で読み返してみた。
すると、「身体で通じ合う」ことの材料が「並んで歩く」のみだったので、「え、歩くだけなのか…?」と書いた当人も拍子抜けした。

またこんな赤字が入りそうである。

「『お星さま』ってなんでしょう。言ってしまえば、キレイ事に思えます。相手を異性として見られるか。つまりMさんとキスできるか、その先にいけるか、など、そういう観点はなかったのですか?」

 編集者N氏から原稿に赤字が入る。もっともな指摘だ。

―「恋愛音痴の受難〈前篇〉」https://cakes.mu/posts/12949

「もっともな指摘だ」なんて冷静に受けとめている風だが、実際は「みんなそういう観点で相手を見たり、選んでいるの?」とひどく戸惑った。

私はよく「みんな好きだなあ/みんな好きじゃないなあ」といった、ぬる~い「好き」の感覚にボンヤリ浸ることがある。
そんな「みんな」から、たった一人(じゃなくてもいいけど、限られた人)をピックアップするなんて苦痛で仕方がないと思う。

「〈一番の人〉を決めなきゃいけないなんて、残酷なシステムだと思いませんか? 誰が一番とかそんな順位付け、本当はわからないですよ。どの花が綺麗?って聞かれても、どの枝の花も綺麗じゃないですか。」

―「恋愛音痴の受難〈後篇〉」https://cakes.mu/posts/12985

「みんな好き」という、境界線のないボンヤリとした認識で生きてこれたのは、私がある意味、性愛の現場の外で「守られてきた」からなのだろう。

性に関する疑問が浮上するたび、「みんなどうしているんだろう」とボンヤリしてしまう。涼しい顔してこなしているみたいだけど、なんで? と。

みんながどこでどんな風に「選び方」を学んだのか聞いてみたい。それはきっと、私が本に夢中になったり、詩を書いたりしている間、ひそやかに進行していたはずなのだ。

大抵のことは「みんな」を擬態すればうまくいく。でも、身体に関する事柄はそうはいかないようだ。
だから、自分でも見ないようにしていた非常に個人的な部分を、愚直に言葉にして紐解くほかないのだと思う。

 *

以前、ある人と手を繋いだときに「この人じゃないなあ」と明確に感じたことがある。型の違う部品が無理やり噛んでしまったような違和感。その違和感を無視して付き合ったら、さらに噛み合わなさが増していった。

私は私の感覚を信用しておらず、しばしば無視する。
好きな相手を前にすると、緊張なのか、義務感か防衛本能なのか、生理的な感覚が無になる。相手に変だと思われないか、これで正解なのか、ということで頭がいっぱいになり、自分の生理感覚が置き去りになるのだ。

よく言われているように、恋人のにおいや汗、肌に触れたときの生理感覚は、重要な判断材料になる(らしい)。「においが苦手な相手は、遺伝子レベルで合わない」といった話も何度か耳にしたことがある。

付き合ってから相手の内面をより好きになったり、「好きな相手の趣味だから、好きになる」ということはあっても、「好きな相手の匂いだから、好きになる」なんてことはあまり無さそうだ。

昨晩飲んだ女友達は、「チーズを食べた後の、彼の口髭の匂いが凄く好き! 私が嗅ぐと恥ずかしそうにしている彼の様子を見てるのが好き!」と話していた。「それって人によっては不快なのでは?」というギリギリ感が可愛い。
(私は肌が弱いので、髭を生やしたまま顔を近づけられると、怒ってしまう)

においの好みなどの生理的感覚は、本人たち自身ではどうすることもできない。なんて理不尽だろう。身体の反応は、いつも非合理だ。

私の恋愛への好奇心も、性愛への忌避も、その理不尽さから生まれているように思う。
「AさんはOKだけど、Bさんはちょっと……」という線引きが、自分でもよくわからない生理的な感覚で成されている。そのことの得体の知れなさ、怖さ、魅力。

 *

それでも、他人の身体にときめくことがある。
男の人の、神経質そうに短く切られている爪が好きである。
メガネをかけた人が無条件に好きだったときもある(今は自分もかけるようになったせいか、メガネの魅力がだいぶ目減りした)。
前回の記事で書いた「歩調」もその一つなのかもしれない。

「短い爪」にしても「歩調」にしても、少しの気遣いで操作できるものなので、本当はそこに相手の魅力を見出すべきではないのだろう。

でも、そうした細部の発見によって、途端に相手が特別な存在に感じられたことは何度もあった。そこにはセクシャルな魅力も多分に含まれていたはずだ。
そんな自分を「不躾だな、暴力的だな」と後ろめたく思わないように努めたい。

それにしても。「身体」なんて煩わしくて不可解なものから逃れるために、人は言葉を開発したはずなのに。どうしたって、それ無しでは生きられないと思い知らされる。

身体が死んでいるなあ、身体のスイッチを入れたい、と思うとき、
誰かと一緒に「歩く」ことが頭をよぎる。

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