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番外編:赤紙 (note・エブリスタ限定)

「──いいか、赤紙来たら懲役食らえ。ぜってえ兵隊なんぞになるんじゃねえぞ。わかったな。おい恭! てめえ聞いてんのかこらァ」
 慈兵衛さんは店の奥を陣取り、柱に寄りかかりながら酒臭い息を吐いた。くっきりした二重瞼は今にも閉じてしまいそうにどんよりと重たい。
「はいはい百万回聞きやした」
 辟易し耳をほじる恭を先生が肘で小突いた。
 カウンターの端に慈兵衛さん、真ん中に水銀先生、その隣には恭。宴もたけなわだがあいにく恭は食べ足りない様子で、熱い味噌汁を啜りつつ長い説教をいなしていた。
 慈兵衛さんの家から歩いてゆける距離にあるこの居酒屋は、以前部下だった兵卒の妻が娘夫婦と営んでいるという。先ほどから恭がひっきりなしに白飯を運ばせているのが娘さんで、燗をつけてくれているのが女将さんだろう。絶対に飢えさせないという部下との約束を律儀に守り、今でもこうして通い詰めていると思えばどうしようもなく切ない話なのだった。

「百万回聞いたってなあ、やっぱり行く奴ァ行くんだよ。恭、おめぇと葵はもう二十……二十二、三、四……? だろ。ちっくしょう、馬みてえにドカドカ食いやがって。身体頑健、甲種だ甲種」
 慈兵衛さんはヤケを起こして燗酒をあおった。珍しくへべれけになった慈兵衛さんは時おり船を漕いではまた酒を煽り、夢うつつのまま説教を続けていた。
「……回るの早かったなぁ、今夜は」
 そう呟くと先生は腰を上げ、こんがりと焼き上がったホッケを受け取った。
「歳なんじゃねえの。おやっさんも」
 慈兵衛さんはカッと目を見開き、先生の頭を越して恭の頭をはたいた。重い一撃に思わず前に揺らぐ。
「ってえな、この馬鹿力が!」
「貴様、たるんどるな! 軍曹と呼ばんか!」
「そこかよ」
 恭は目をチカチカさせながらごちた。
 慈兵衛さんは若い。五十路の見える年齢になってなお腕っ節が強く、髪こそ白髪混じりだが顔立ちは勇ましい男前のままだった。ただ今日は珍しく酔っていた。何ともなしに酔い潰れてはぐだぐだと同じ話を繰り返す。
「やい、涼しい顔しやがって。先生も他人事じゃねぇんだぜ。赤紙来たら──」
「懲役いきます。本山軍曹殿」
 先生は丁寧に魚の骨を抜きながら薄く微笑んだ。その様子を見た恭は手元の徳利を逆さに振りながら一笑した。
「水銀さんは身体検査ではねられっから心配ねえよ。タッパは合格にせえうらなり面にぺらっぺらの体重、極めっつきのど近眼ときたもんだ」
 恭の野次に先生は無表情で眼鏡を押し上げた。
「……その前に医師だから。前線はない。軍医ならともかく」
 育ちか医者の器用さか。恭の手元にコトンと据えられたホッケは、これ以上ないほど美しく骨抜きにされていた。

「やっぱり全然見えねぇの、眼鏡無いと」
 恭は先生の顔を下から覗き込んだ。上下とも長い睫毛がかげを落とす。
「ほぼ。冬の朝に窓が曇ってたりするだろう。あんな感じにもやが掛かって、色は分かるんだけど輪郭がもう──」
 恭は両手で先生の眼鏡を外しタングステンの灯りに透かしながら、ふーんと呟いた。それから先生の向こうでいびきをかき出した慈兵衛さんを確認し、茶色い睫毛をゆっくりとしばたたいた。
「……おやっさんはああ言ってたけどよ、俺兵役行くかも。赤紙来たら」
「何で」
 先生は正面を見たまま猪口に口を付けた。細く白い喉を熱い酒がゆっくりと流れてゆく。恭はキュッと燗をあおり、
「あんたみたいな虚弱が一人分呼ばれなくて済むからだよ」
 と愛想なく答えた。
 先生は暫し押し黙り、それから顔を覆うように眼鏡を上げた。
「……本当は、軍隊の方が食事が美味しそうだから」
「一理ある」
 恭は空になった茶碗を見下ろし、よっと重い腰を上げた。
「店の人、忙しそうだから飯取りにいくわ。おやっさん見ててくれ」
「健啖だね。良いことだ」
 鼻で笑う恭が奥に消えると先生は慈兵衛さんの肩に羽織を掛け、長い溜息をついた。

「ういーもう飲めねえ……ねっみい、限界でえ」
「ちょっ、と──」
 慈兵衛さんは寝言のようなものを口にしながら先生に撓垂しなだれ掛かった。重さに耐えかねた細い肩が柳のようにしなる。
「重いです、慈兵衛さん帰りましょう。完全に飲み過ぎです」
「おう。肩貸せい」
「はいはい。そろそろ勘定しますから、恭が戻ったらもう出ましょう。ちょっと待っててください」
「んっだと? てめえ、上官に指図しくさるかー」
 ──始まった。慈兵衛さんはへべれけになると軍曹に戻る。人前では滅多に酔わない慈兵衛さんだ。この癖を知っているのはおそらく先生と恭の他にはいないだろう。
 こうなったら逆らわないのが上策で、先生はすぐさま恭順し肩を差し出した。慈兵衛さんは丸太のような腕を白い首に巻き付け『座れ』と命じた。
 刹那、慈兵衛さんは力いっぱい先生を抱きすくめた。眼鏡が鼻先にずれる。
 直感的に押し返したものの分厚い胸板はびくともしない。そのままがっちりと巌の如く固まってしまいついには退っ引きならなくなってしまった。
「ちょっと、慈兵衛さん」
「本山軍曹と呼べい……ったくてめえ、今までどこ、行ってやがった」
 うなじの辺りで酒気さかけを帯びた低い声が震える。
 先生は慎重に言葉を選んだ。
「……ずっとお側に居りましたよ、軍曹殿。もう行きましょう」
「てめえ、まあたどっか行きゃあがるか!」
 慈兵衛さんは激昂した。もう目が開いていなかった。
「行くな! もう、行くんじゃねえ、撤退だ。撤退しろ! 上官、命令だぞ……都司ぃ」
 先生は瞠目した。それからゆっくりと黒い睫毛を下ろし、霜の下りた頭をまるで幼な子をあやすようにポンポンと撫でた。呼ばれた名前を知らなくても、慈兵衛さんの心がまだ日露戦争に置き去りにされていることを苦しいくらいに理解していた。

 ふいにガチャガチャと箸が転げる。目を開けると、戻った恭が山盛りの白飯を片手に硬直していた。
「……本当マブかい。おいおい他所でやんな。飯が不味くなっちまう」
 気もそぞろに腰を下ろした恭は心からのうんざり顔で白飯をかき込んだ。
「違う、そういうんじゃなくて。慈兵衛さん、やっぱり今日はおかしい──どこか悪いのか? あ、駄目だ。折れる」
「チッ、世話が焼けら」
 恭の手を借りようやく腕を解いた先生は慈兵衛さんの額に冷たい掌を押し当てた。気持ちがいいのか、慈兵衛さんは天井を見上げたまま唐獅子のようないびきをかき始めた。
「熱は?」
「……分からない。酔いすぎてて」
 先生はとりあえず勘定をと言って席を離れた。
 恭はどら猫のようにホッケに齧りつきながら慈兵衛さんの足を軽く蹴り話しかけた。
「軍曹殿、お開きです。皆一緒に帰りましょう──駄目か」
 恭は仕方なしに重い右腕を肩に担ぎ何とか上体を起こしに掛かる。戻った先生も反対側を支えるがどうにもこうにも骨である。
 途端、慈兵衛さんはすっと微睡みから戻り大きく大きく伸び上がった。
「なんでえ、もうしめえかよ」
 慈兵衛さんはあくびをしながら首元を掻いた。
「……本気マブかよ。醒めやがった」
 恭は楊枝で歯を突きながら久々に声を出して笑った。
「よかった、気がついて。貴方が落ちると僕らでは手に負えません」
 先生は肩を回しながら笑った。
「それにしても急に目が覚めましたね。どうしたんですか」
「ああ……」
 慈兵衛さんはばつの悪い笑みを浮かべた。
「皆一緒に帰る、なんてあいつらは言う訳ねえからな。それと──俺の部下に猫背はいねえ。撤退だ」

***

慈兵衛さんの番外編でした。
恭・先生・慈兵衛さんは飲み仲間。必ずこの順に座って先生が慈兵衛さんにお酌しつつ恭を養う感じです。慈兵衛さんは個人的にお気に入りなので、いつか軍人時代のスピンオフを書いてみたいなあと密かに思っています。

次回8話目は2/6 (月)に公開予定です。小夜の父・夕作が登場したり、恭の意外な苦手が分かったりする回。飲兵衛トリオも登場致します。お楽しみに!
ご精読ありがとうございました!

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