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【短編エッセイ】プルーストを探して 

3日前に出逢ったあの娘にオススメされた本を探しに古本屋へと僕は車を走らせた。

彼女が読み彼女の一部になっているであろう物語を僕も読みたいのだ。

彼女には僕をそう感じさせる特別な何かがあった。
出逢ってから一緒にいた時間は24時間もないのに永遠に続くすべりだいのように会話は続いた。

でも駅で手を振り、その姿が見えなくなると永遠なんてないんだと僕は我にかえった。

有限ということについて考えていると、大好きなミュージシャンのアルバムを古いラジカセで聴いている時を考える。
これも終わりがあるから一曲一曲を味わうことができるんだなという感謝に近い気持ちになる。

あの娘との時間も有限の中だからこそ輝いていたのだろうか。

最近読んだ小説に人生に絶望している少女が出てきた。
その娘は自殺を図り薬を飲むのだが、運悪く生き残ってしまう。
生き残った少女は隔離された病院であと1週間の命だということを先生から告げられ、初めは生き残ったことに憤りを感じていた。
だが、じわじわと迫ってくる死に対して、生のありがたさのようなものを感じ、のこされた時間の一分一秒を彼女は大切に生きていく。

そんな物語を読んだ後だったから、有限がもたらす儚さが余計心にしみた。


「プルーストを読む生活。これだけは読んでほしい、なんならこの一冊を読むだけでいい!」
と彼女が読んでいる時の興奮や楽しさが伝わるような表情で目を輝かせて僕に話す顔を思い出すと無性に僕はその本を読んでみたくなった。

プルーストという言葉は知らないが、古本屋に着き1人「プルースト、プルースト」と呟きながら何個もある本棚の一段一段を丁寧に探した。

なかなか見つからずに店内をぐるぐると何周かしてみたけれどプルーストはなかった。

少しだけ肩を落としながらも空いた好奇心という腹を膨らませるためにあの娘がオススメしていた小説を3冊、その中の一冊の著者の別の作品を一冊。合計4冊の文庫本を脇に抱えレジにむかった。

レジに向かう途中で僕はCDコーナーを横切った。そこであるアーティストの名前が目にとまり立ち止まった。
そしてTHE HIGH -LOWSのCDをいくつか手に取った。
THE HIGH -LOWSは僕が宇宙一かっこいいと思っている2人、甲本ヒロトと真島昌利が1995-2005年の間やっていたロックバンドだ。
2人の時点で宇宙一じゃないじゃんと思った方はそんなのどうでもいいじゃないかと、流してほしい。
そんな彼らがTHE HIGH -LOWSの前にやっていたTHE BLUE HEARTSのCDを僕はいくつか持っている。
でもTHE HIGH -LOWSのCDは持っていなかった。

つい1週間前くらいに僕は2ヶ月ほどやっていた父の寿司屋の手伝いをやめ、自分で色を塗ったバンにしばらく生活できるくらいの荷物を積んで家を離れた。
旅に出たのだ。
そんな自分の近況を新しい生活の始まりだと感じていた。
今の自分の状況にぴったりだと思い、名前とメンバーを変えて新しく生まれ変わった彼らのアルバムを4冊の本と一緒に脇にはさみレジへと僕はまた歩き出した。


ところでアルバムは本の短編集に似ていると思う。
いや似ているどころではなく、アルバムは短編集そのものだと言いたい。
アルバムの題名があって曲のタイトルがあり、歌詞という文章がタイトルごとに広がっている。

そしてそれを自分というたった1人の人間の感性で詠み進めていく。

そんなことを考えながら僕はその日の寝床である、河岸の駐車場でラジカセにCDをセットした。
昔ながらのラジカセ。
カセットテープだって聞けちゃうこのラジカセ。
これを僕は去年の末に亡くなったおばあちゃんの家から持ってきた。

今年の年賀状が少なかったのはおばあちゃんが亡くなったからなのか、時代のせいなのかはわからないでいたい。

このラジカセをおばあちゃんの家で見つけた時、それまで忘れていたいろんな思い出が蘇ってきて目に涙が溜まった。
小さい頃に頻繁におばあちゃんの家に預けられていた僕は、夜寝る時にいろんな物語をこのラジカセで聴いていた。
日本の昔話や世界の童話などたくさんの物語をそのラジカセはながしてくれていた。
そしてその物語達は僕が目を閉じるとアニメのように僕の脳裏に現れて寂しい気持ちを忘れさせてくれた。

なぜ本を読むようになったのかをあの娘に聞かれた時はテキトーにいい感じの答えを言ってしまったが、本当はこんな経験から物語が好きになったことを思い出した。

それから文字がわかるようになり家にあった本だけでは飽き足らずに毎週のように図書館に連れて行ってもらい絵本や紙芝居を読みあさった。
紙芝居を妹に読み聞かせしてあげたりもした。
そのおかげか小学校の国語の時間に「。」ごとに順番に音読をするときに先生からよく褒めてもらえた。

そうやっていろんなことを思い出していると、あの頃スマホなんかがあったら僕は今本を読んでいないのだろうかという疑問がふと頭をよぎった。
本は僕のことをどう思っているかはわからないが、22年生きて、本は親友になった。

今時の子は本が読めない。
なんていう話をちらほら耳にする。
それを聞く度に今の子供が気の毒な気持ちになるけれど、僕が逆の立場だったらそもそも今時のって一括りのイメージに当てはめてくる大人達に腹が立つと思う。
一万年前の人からしたら今時の人は大自然の豊さが僕たちに与えてくれるものを忘れて、なぜみんなコンクリートだらけの土地で生活しているんだろうと気の毒に思うだろう。
しかし東京のような大都会にだって、コンクリートの隙間から顔を出しているたんぽぽを視て、温かい気持ちになる人はたくさんいるんだ。

人は相手の環境、仕事や学校やその人が関わっている人でその人を判断してしまうようなことがよくある。
僕らはどんなメガネをかけて世界を見ているのかもう一度良く考えてみる必要がある。

「プルーストを読む生活」を僕に教えてくれた女性がかけていたメガネは僕の目にとても魅力的にうつった。
だから僕はその本を読んでみたくなったのだろう。
今僕は探していた本を持ってはいないけれど、探したからこそ別の素敵なものを手にすることができた。
探していたものとは別の何かが見つかる。
考えてみると人生でそんなことはたくさんあるんじゃないだろうか。

高校生の頃、将来を考えるとき。
僕は自分は何が本当にやりたいことなんだろう、何をやっていくのが自分にとって良いのだろうと悩んでいた。
間違えたくなかったから、コレっていう答えが欲しかった。
「たくさんの大人達に出会って話を聞けばそれが見つかるかも」そう思った僕は3年間を通してヒッチハイクで日本中を旅した。

その結果探していたコレっていう答えは見つからなかった。
でも探してはいなかったけれど後から振り返ればコレを見つけるために探し始めたんだなと思うことをたくさん見つけた。

大人達よりも3-5歳くらいの子供の方がよっぽど大事なことを知っていたし、旅中お腹が空いた時には、毎朝朝ごはんやお弁当を作ってくれていた母の偉大さを見つけた。

たくさんの人たちにありえない程の、無条件の優しさと愛をもらって、当時はなんでこんな優しくなれるんだろうと思っていたが、自分もその人達みたいに行動してみると、とっても幸せな気分になった。
「あぁ、愛を持って誰かのために何かをし始めると、みんなやめられないんだな」と今は自分なりに解釈している。

そんな気づきの数々が発見できると思うと、太陽の下でページをめくる僕の手はとまらない。

そして僕はプルーストという言葉の意味をまだ知らない。

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