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麗しの島の冒険①(全3回)

「天龍国」台北(たいぺい)

 私が台北の空港に降り立ったのは、2016年3月31日のことだった。帰りの便は4日後の4月4日。私は基本的に、一度訪問した土地には二度と訪問しないつもりで旅をしているので、この5日間で台湾をできる限り回りつくすつもりでいた。中部の都市、台中(たいちゅう)から南部の台南、高雄まで訪れる弾丸ツアーだ。
 旅は台湾の首都?台北から始まる。首都という言葉に疑問符をつけたのは、実は台北が首都であるという法的根拠は存在しないからだ。台湾を統治しているのは中華民国政府であるが、この政府は、第二次世界大戦後に大陸で発生した国民党と共産党の内戦の結果、敗北した国民党によってつくられた亡命政権である。国民党政府は、自らが本来の中国大陸の統治者であることを主張し、70年代までは国際社会もその主張を支持していた。そのため、90年代前半まで台湾の首都は南京だということになっていたし、学校教育でもそう教えられていた。それどころか、教育の現場ではあくまで中国の地理・歴史だけが教えられ、台湾について教えられることはなかったのである。

 さて、台北といえば台湾への観光客が必ず訪問する都市であり、観光客の殆どは台北だけで二・三泊して台湾を満喫した気になって帰っていく。それが悪いことなわけではないが、やはり台北以外に住む台湾人からすると、台北=台湾のように外国のメディアで扱われることには不満があるようだ。1982年に歌われたヒット曲「鹿港小鎮」にあらわれたフレーズ「台北は僕の故郷じゃない」は大流行してその後多くの楽曲に引用されることになり、また最近では、若者たちの間で台北は「天龍国」、台北の住民は「天龍人」と呼ばれているらしい。わかる人にはわかっただろう、元ネタは日本の漫画『ONE PIECE』に登場する「世界貴族」である。

 チェックインを済ませると、台北一の繁華街である西門町(せいもんちょう)に向かう。美食の国に来たからにはグルメを楽しまなければ、ということでガチョウの肉と麺線、杏仁豆腐にかき氷を頂く。麺線はソーメンのような細い麺を牡蛎で出汁をとったスープで煮込んだ料理。地元の人たちの行列で賑わっていたが、大鍋で煮込まれた麺をざばっと碗に移し、手際よく客をさばいていく。座る所はないので、路上で立っていただく。この雑さがたまらない。
 台湾のかき氷は、果汁やジュースを凍らせたものを削って作り、そこに果実やアイスクリームが乗っかる。自分の顔よりも大きいそのボリュームに驚くが、ペロッといただけてしまう。間違いなく日本のかき氷の上位互換だ。

 ところで、日本の南西部から東南アジアにかけて、このような「具沢山なかき氷」の文化圏が形成されていると思うのだが、私の気のせいだろうか。韓国にはパッピンスという、色々な具が乗ったかき氷を豪快に混ぜて食べるという料理があり、フィリピンにも、コンビニスイーツとして採用されたことで有名なハロハロが、またマレーシアにも豆などののったかき氷、アイスカチャンが存在する。こうした食文化の数々と、日本の鹿児島県に存在する伝統スイーツ、「白くま」(かき氷に果物や豆がのっかったもの)には連続性があるように感じるのだが、どのように広まっていったのだろう。ご存知の方は情報提供をお願いしたい。

 ガチョウの肉に貪りついていると、向かいの席に座った老人に日本語で話しかけられ、ちょっとした会話を楽しんだ。こういう話をすると、さすが台湾、なんて風に思った読者もいたかもしれない。台湾は1895年の下関条約から1945年の敗戦までの間、日本の統治下にあった。その期間、教育は日本語で行われており、そのため一定以上の年齢層の方には日本語が通じる。代表的なのが台湾の4人目の総統だった李登輝で、彼は流暢な日本語を話すばかりでなく、作家の司馬遼太郎との会談の中で「自分は二十二歳まで日本人だった」と語っている。
 が、実際台湾を旅行してみた感想としては、言うほど日本語は通じない。台湾の人と日本語で会話したのはこのときくらいで、基本的に英語の方が通じるし、むしろ韓国の方が日本語がよく通じた。日本の統治時代に生きていた層ももうリタイア世代。「日本語が通じる」イメージはもう通用しなくなっているのだろう。
 もう一つ、ネットにおいては台湾について「親日」というイメージが流布している。特に2011年の東日本大震災の際、台湾から多額の義援金が送られてきたことはそのイメージを一層強化した。台湾と韓国。ともに日本の植民地であった土地であるにも関わらず、何故日本へのイメージが大きく異なるのか。よくなされる説明は以下のようなものである。

 台湾が中国の領土に加わったのは17世紀になってからのことで、日本の前に台湾を統治していた清朝政府も、台湾の住民にとっては外来政権に過ぎなかった。しかも清朝政府はあまり台湾に関心を払わなかったようで、1871年、琉球からの漂着民が台湾の先住民に殺害される事件が発生し、日本政府が清朝政府に抗議をしたときには、清朝は「台湾は化外の地である」、つまり清朝の権力や法が行き届いていない土地であるとの回答をしている。この事件の報復として1874年に日本により台湾出兵が行われてようやく、清朝政府は台湾の統治に本腰を入れ始めたようなのである。また日本の統治から逃れても、韓国のように独立国になることはかなわず、国民党の統治を受けることになった。国民党の政治腐敗、また以前からの台湾の住民(本省人(ほんしょうじん))に対する弾圧はひどく、台湾の人々は「犬が去ったと思ったら豚がきた」と嘆いた。すなわち、台湾はその歴史時代から一貫して外来政権の統治を受けてきたのであり、日本もその一つに過ぎない。だから韓国と比べたとき、日本の統治時代について冷静な視点を持っている、というのである。

 これはある程度は当たっているとは思う。しかし、これはあくまで日本の統治が「マシだった」というだけの話で、日本の台湾統治に全く罪がなかったかどうか、というのとは話が別であることに注意しなくてはならない。実際、私が台湾を旅してまわった感想としては、ネットでいわれているほどに親日であるという気はしない。確かに今回のご老人含め、日本人というだけで好意的に話しかけてくれた方はいた。しかしそのような経験は、中国でも韓国でもしている。日本語や英語を話せなくても、筆談などで一生懸命会話しようとしてくれる中国人もいた。自分の経験だけで述べるならば、台湾を親日国であるとすると、中国や韓国も間違いなく親日国であると言わなければならない。
 そもそも、ある国が親日であるとか反日であるという情報にはあまり意味がない。大学の講義で聞いて印象的だった話があるのだが、日本は1970年代、中国と国交回復して間もない頃、確かに親中国であった。「シルクロードブーム」が到来し、中国の秘境を取材するような番組がいくつも作られた。では、その時期と、中国との関係が冷え込んできている現在とを比べたときに、中国語の学習者の数や、中国に関する研究者の数はどちらが多いかといえば、圧倒的に現在なのである。国と国との関係において、「好き」は必ずしも興味に結びつかない。台湾と同じく「親日国」としてネット住民に持ち上げられている国としてトルコが存在するが、トルコを持ち上げている人々はどのくらいトルコのことを知っているのだろう。日本は現在、中国だけでなく台湾とも尖閣諸島をめぐって領土問題を抱えているが、そのことが意識されることは滅多にない。これも「親日国」という情報が目を曇らせてしまっている事例といえないだろうか。

 西面町のランドマークとなっている建物が西門紅楼(せいもんこうろう)である。この建物は日本統治時代に公営市場として建設されたもので、現在は複合商業施設となっている。その脇道に入ると、いくつものレインボーのフラッグがはためていている。レインボーは同性愛のシンボル、すなわちここは台北屈指のゲイタウンなのである。日本でいえば新宿二丁目にあたるが、二丁目がどこかアングラな雰囲気を漂わせているのに対し、ここは西門町のど真ん中にあるというだけでなく、オープンテラスの店が並んでいて、どこか開放的な、明るい雰囲気である。
 台湾はLGBTの解放が最も進んでいる国家で、2019年にはアジアで初めて同性婚を法制化した。今年の新型コロナウィルス騒動の際、台湾ではIT担当大臣がマスクの在庫を知ることのできるアプリを自ら開発したことで話題となったが、この大臣は中卒で、かつトランスジェンダーという、日本の政界では到底出てこないタイプの人物であった。マイノリティに寛容な社会を作り出すことは、結局のところ人的リソースを最大限に活用できる社会を作り出すことなのだ、と世に示した事例として意義深い。

 西面町の観光を終えると、地下鉄で台北最古の寺院である龍山寺(りゅうざんじ)に向かった。仏教寺院ではあるが、道教や儒教の神々も祀られており、「神さまのデパート」などと形容される。龍山寺に限ったことではないのだが、台湾の寺院の表門には電光掲示板がでかでかと飾られていて、何とも安っぽい雰囲気を出している。日本人からすると有難みを感じられないような気もするが、東南アジアの寺院でも、やたらとカラフルだったり電飾で飾り立てられたりしている仏像が見られることを思い出す。こうした寺院の「安っぽさ」は、これらの国で寺院がまだ「生きている」証拠なのだろうと思う。日本の仏像もかつては極彩色だったが、塗料が落ち、煤けたことで現在のようなモノクロのカラーリングとなった。我々にとってはそれが当たり前になり、そうした落ち着いた色彩の仏像こそが有難いと感じるようになっていったが、むしろこうした派手で安っぽい寺院こそが、本来の寺院の形といえるのだろう。とはいえ何でもかんでも電光掲示板を多用するのは中華圏独特の価値観といえる気がするが。

 夜が明けて。私は朝から長蛇の列に並んでいた。お目当ては油条(ヨウティアオ)と呼ばれる揚げパンと、豆漿(トウジャン)と呼ばれる豆乳である。朝食を外食で済ますのは中華圏では一般的な風習で、特に油条と豆漿の組み合わせは上海で定番の朝食スタイルである。豆漿は甜豆漿(甘い豆乳)と鹹豆漿(しょっぱい豆乳)を選ぶことができ、鹹豆漿にはザーサイや干し海老などが入る。いずれもコップではなくスープ用の容器で提供され、油条を浸しながら食べるのだ。さて、実食。うーん……微妙。そもそも私は豆乳は苦手なのだ。なら食べるなよ、と思うかもしれないが、普通の豆乳は揚げパンを浸したりしないんだから、ちょっと一味違う豆乳なのかもしれないと思うではないか。が、違った。完膚なきまでに豆乳だった。まぁ、朝から豆乳のために並ぶという貴重な経験をできたので良しとしよう。

 この日一日は台北市内の観光にあてた。台北は地下鉄網が充実しており、観光のしやすい都市だ。まず徒歩で総統官邸である総統府、迎賓館にあたる台北賓館を外から見学する。これらは日本統治時代には台湾の総督府および総督官邸として用いられていた建物である。次に二・二八和平公園に向かう。この公園は1947年に発生した二・二八事件を記憶にとどめるため建設されたものだ。台湾に国民党が逃れてくる以前から台湾に居住していた人々を本省人、国民党とともに移住していた人々を外省人(がいしょうじん)と呼ぶが、二・二八事件は本省人の起こしたデモに対して国民党政府が激しい弾圧・虐殺で応じた事件である。公園の内部には、日本統治時代以来の歴史を持つ、国立台湾博物館がある。
 次に中正記念堂を訪ねる。国民党の指導者にして、中華民国の初代総統である蒋介石を記念した建物である。巨大な蒋介石像は常に衛兵に守られており、正時ごとに衛兵の交代式が行われる。かつて台北市内には数多の蒋介石像があったが、2016年に成立した民進党の蔡英文政権により撤去され、この一つを残すのみとなった。

 ここで、国民党と民進党の話をしておこう。1948年以来、台湾では国民党の蒋介石・蔣経国(しょうけいこく)親子により独裁体制が敷かれていたが、本省人として初めて総統になった李登輝総統の時代に民主化が始められ、その中で生まれた初めての野党が民進党だった。「一つの中国」を唱え、中国大陸への主権を主張する国民党に対して、民進党は「台湾独立」、すなわち台湾は元々独立しているのであって、大陸の中華人民共和国とは無関係であることを主張する。国民党が外交姿勢としては親中的、内政面では保守的な傾向を持つのに対し、民進党は日本重視の姿勢をとり、内政面ではLGBTへの差別撤廃を訴えるなどリベラルな傾向を持つ。共産党と喧嘩分かれしたはずの国民党が親中派というのは不思議な感じがするが、中国の立場としては、あくまで中華民国には「一つの中国」を主張していてほしいのであって、民進党のようにはなから無視されては困るのである。だから中国は国民党に接近をはかる。今年の1月に行われた総統選挙では民進党が歴史的な大勝利を収めたが、このことの背景には、中国の香港デモに対する苛烈な対応に対して、台湾の人々が拒否反応を示したことがあると思われる。
 その後、中華民国と中華人民共和国にとって共通の「国父」である孫文を記念した国父記念館、孔子を祀る孔子病、抗日戦争の中で命を落とした人々を祀る忠烈祠(ちゅうれつし)を訪問し、電車で一時間ほどかけて淡水(たんすい)まで移動した。淡水は清朝がアロー戦争に敗北した際に開港した港の一つ。風光明媚で、どこか横浜を思わせる土地だ。台北に帰る途中で士林(しりん)の夜市により、顔ほどの大きさのあるフライドチキンと臭豆腐をいただいた。こうして怒涛のスケジュールを何とかこなし、台北の夜は更けていくのだった。

麗しの島の冒険②
麗しの島の冒険③

by 世界史☆おにいさん(仮)

Photo by Vernon Raineil Cenzon on Unsplash


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