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音楽の国の冒険⑤(全7回)

マリア=テレジアとシェーンブルン宮殿

 8月3日。ウィーン滞在2日目となるこの日は徒歩では回れない郊外を中心にみることにし、まずはハプスブルク家の夏の離宮であるシェーンブルン宮殿を訪問した。

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 建設されたのは16世紀だが、現在の姿に改修されたのはオーストリア最大の名君マリア=テレジアの時代である。この宮殿は、ナポレオンの軍がウィーンを占領した際には彼により総司令部として利用され、ナポレオン戦争終結後にはその講和会議であるウィーン会議の舞台となり、また20世紀にはアメリカ大統領ケネディとソ連首相フルシチョフの会談の場となるなど、様々な歴史的事件の舞台となってきた。
 幼少のモーツァルトがマリア=テレジア一家の前で演奏会を行った際、転んでしまったモーツァルトを、皇女マリー=アントワネットが抱き起し、彼に「ありがとう、お礼に将来僕のお嫁さんにしてあげるね」と言われたという、あの有名なエピソードの舞台となったのもこの宮殿である。

 シェーンブルン宮殿は、フランスのヴェルサイユ宮殿と並び、バロック様式の代表的な建築物である。バロック様式の特徴は、一言で言えばその合理主義的特徴にある。17〜18世紀という時代は、哲学者フランシス=ベーコンやデカルトの登場に象徴されるように合理主義的思考の万能性が信じられた時代であり、絵画や音楽をつくるにあたっても黄金比などの数学的知見が取り入れられた。
 ではそのような特徴が建築にどのように反映されるかといえば、その庭園である。庭園の樹木は全て幾何学的な模様に刈り取られてしまっていて、「自然をそのままの姿に」という考え方は一切見られない。

 国語の教科書で定番として取り上げられる文章に「水の東西」がある。すなわち、西洋は自然を征服しようとする文化圏であり、それゆえ水を本来とは違った方向に流れさせようとする、つまり「噴水」をつくる。一方で東洋は自然と調和しようとする文化圏であり、それゆえ自然のままの水の流れを再現しようとする、つまり「鹿威し」である……と。
 私はあまりこの文章が好きではない。全国の学校では、この文章を比較文化論の例として取り上げているらしいが、そもそも噴水と鹿威しというたった2つの例を挙げて西洋と東洋とを対比しようとするのはあまりにも大風呂敷だし、自分の属する文化の優越性を示すために比較文化論を展開すること自体が、文化人類学的に誤った態度である。聞きかじりの話でしかないが、私が一度話したことのある他校の国語教師によると、この文章の著者自身が、「あれはあくまでエッセイみたいなもので論理的に書かれた文章ではないから、そういう取り上げ方はやめてほしい」と漏らしていたという。
 話は脱線するが、「現代社会」や「倫理」の教科書における和辻哲郎の風土論の扱い方にも大いに疑問がある。ヨーロッパの気候は「牧場型」で、それゆえ自然を征服しようとする、中東の気候は「砂漠型」で、好戦的性格が形成され、そしてアジアの気候は「モンスーン型」で、それゆえ平和を好み自然と調和的である、というアレだ。
 環境がその地域の文化に影響を与えるという環境決定論的な考え方は、論理的なようで論理的でない。決して証明不可能だからだ。結局のところこのような理論は、差別の合理化に過ぎないのではないか。大学時代の教員に聞いた話だが、ある留学生がこの手の議論を聞いたときに、「日本人は平和を好む民族だというけど、平和を好まない民族なんてこの世にいるんでしょうか」とコメントしたというエピソードは痛快だった。
 いや、あくまで過去にこういう議論があった、という形で風土論を扱うなら文句はないのだ。むしろ、基本的に「現代社会」や「倫理」の教科書において歴史上の哲学者たちはこのように扱われている。ところが、和辻の扱いだけ違うのだ。大抵の場合、風土論は、彼の活躍した明治期の日本の思想の節ではなく、「日本人の思想」という章の冒頭で紹介されている。これではまるで、風土論が日本の思想史を理解するための基本的な枠組みであるかのようではないか。
 余談が過ぎた。話を戻すが、私は「水の東西」の理屈が好きではない。が、シェーンブルン宮殿の庭園を散策していると、あながち間違ってもいないのではないかという気にさせられる。何しろ庭園の噴水は、いずれも天使が怪物を無理やり押さえつけて、口から水を吐かせるというデザインになっているのである。シェーンブルン宮殿に限らず、ウィーンで見た噴水もみなこのようなデザインになっていた。これは確かに、自然を征服しようとしているなぁ……という気持ちにさせられてしまう。

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 とはいえ、この次に訪問したプラハでは、このようなデザインの噴水は一つも見なかった。「西欧人」ではなく、オーストリアの人々のような支配民族特有の感覚なのかもしれないし、また18世紀の時代的特徴であるかもしれず、まだこの結論には留保が必要だろう。

 宮殿の庭園内の丘には、グロリエッテという記念碑があり、ここからの眺望が最高だと言われる。私も登ってみることにしたのだが、これがなかなかの重労働だった。庭園といってもあまりにも広く、暑い日差しの下、坂道を20分はかけて登っていかなければならない。

 何と言っても、庭園の中に動物園さえあるのだ。動物園は好きなので、中に入ってみる。特に日本では見られない物珍しい動物などは見られなかったが、それでも、宮殿の庭園内にある動物園、というシチュエーションが私の気持ちを高揚させた。
 何故なら、これこそが動物園の本来の姿だからである。動物園は元々、王侯貴族たちが金にあかせて珍しい動物を収集し、自ら楽しむために作られたものだ。この動物園もマリア=テレジアの夫フランツ1世が家族の憩いの場として作ったもので、動物園の中央には、皇帝夫妻が動物たちを見ながら朝食をとるためのパビリオンが現存している。植物園や美術館、博物館なども、元々は王侯貴族が個人的なコレクションとして集めていたものが、彼らが力を失うとともに、市民に一般公開されるようになったものだ。動物園という仕組みの原点を知ることができる、そんな動物園であった。
 庭園内には迷路もあった。入場料5ユーロを払って入ってみる。中をみると、植木を刈り込んで作った迷路が広がっており、家族連れが楽しんで歩いている。樹木を迷路の壁に作りかえてしまう……まさしく「自然を合理主義によって征服する」バロック様式の特徴が典型的にあらわれている。
 別に一人で迷路にチャレンジしても楽しそうとは思えないので、すぐ外に出た。5ユーロが勿体ないって? 私は旅行中、体験に対して払う金は惜しまないようにしている。少なくとも私は5ユーロ払って、シェーンブルンの迷路がどんなものだか知ることができた、それで十分だ。私はこういう旅行のやり方をしている。
 汗をだらだらとかきながら、ようやくグロリエッテに辿り着く。宮殿の威容を眺めながら、疲れをとるためにグロリエッテ内のカフェに入る。しまった、ウィーンのカフェは、一度入ったら一時間は出られないことを忘れていた……。頭が痛くなるほど甘いアップフェル=シュトゥーデル(アップルパイ)を食べながら、どうやってウエイターを呼び止めようかと思案することに時間をとられることになるのだった。

 さて、シェーンブルン宮殿を現在の姿に仕立て上げたマリア=テレジアとは、どんな人物だったのだろう。
 1740年、神聖ローマ皇帝カール6世が男子のないままに逝去したため、彼女は異例ながらも、女性としてハプスブルク家の家督を相続することとなった。当時はハプスブルク家の当主が神聖ローマ皇帝に即位することになっていたが、女性が神聖ローマ皇帝になったという前例はない。そのため、神聖ローマ帝国内の地方領主たちはハプスブルク家に対して反旗を翻し、世に言うオーストリア継承戦争が始まる。
 中でもオーストリア最大の敵となったのがプロイセン国王フリードリヒ2世であった。冷徹な合理主義者として知られる彼は、戦争が始まると同時にオーストリア最大の工業地域であるシュレジエン地方を併合してしまった。
 マリア=テレジアの対応は大胆だった。ハンガリーへの協力を求めたのである。先に述べたように、ハンガリー人はオーストリア最大のマイノリティであり、当時のドイツ人とハンガリー人は感情的に激しく対立していた。
 しかし、マリア=テレジアはこの戦争を戦い抜くためにはハンガリー人の協力が必要不可欠と考え、わざわざハンガリー人の好む馬術を練習して、自ら騎乗してハンガリーの首都ブダペストに赴き、議会にてハンガリー議員たちの説得を試みた。このとき彼女はまだ幼い息子ヨーゼフ(後のヨーゼフ2世)を抱きかかえ、「この子を抱いた私を助けられるのはあなたたちだけなのです!」と涙ながらに訴えたという。
 彼女の魅力にとりつかれたハンガリー議員たちは「我々は我が血と生命を女王に捧げる!」と叫んで彼女への臣従を心から誓い、以降、ハンガリー人たちはオーストリア軍の中でも最も勇敢な兵士たちとして名を馳せることになるのである。
 しかし、ここまでしても、結局シュレジエンを取り戻すことはできなかった。以後、彼女はこの地方を奪還するために、オーストリアの富国強兵策に努めることになる。中でも国際社会を驚かせたのは、ハプスブルク家にとって長年の不倶戴天の敵であったフランスと手を組んだことである。世に言う外交革命だ。この同盟に伴い、マリア=テレジアの娘マリー=アントワネットが後のフランス国王ルイ16世と結婚することになったのはまた別の話である。
 こうして入念に準備した上で、1756年、マリア=テレジアはシュレジエン地方を奪還するために、プロイセンに戦争を挑む。世に言う七年戦争である。このときオーストリアはフランスの他にもロシアやスペイン、スウェーデンをも味方につけ、プロイセンはすっかり敵に包囲されてしまうことになった。プロイセン国王フリードリヒ2世も大いに追い詰められ、一時は自殺を決意するほどではあったが、ここで奇跡が起こる。オーストリアの同盟国であるロシアで女帝エリザヴェータが崩御し、代わってピョートル3世が即位したのだが、この新帝がフリードリヒ2世の熱烈な信奉者であり、さっさとプロイセンと講和を結んで戦線離脱してしまったのである。こうして形勢は逆転し、結局マリア=テレジアは領土を取り戻すことができなかったのだった。
 ……と、こうしてマリア=テレジアを主人公に物語を書こうとすると、何ともしまらないオチになってしまう。歴史が紡ぎだす物語に書き手はいないのだから、当然といえば当然だ。そして、たとえ彼女が領土を撮り戻すことには失敗したとしても、彼女の行った内政改革が、その後のオーストリアの発展に大いに貢献したことは疑いようもない事実である。
 彼女を語る上で、彼女がヨーロッパ史上稀に見るほど多産だったことに触れないわけにはいかない。1736年から56年にかけての20年間で実に16人もの子を産んだ。上述した彼女の様々な業績も、殆ど彼女の妊娠期間中に行われたのだというから舌を巻いてしまう。
 しかし、彼女にとって悲劇だったのは、長男ヨーゼフとのそりが合わなかったことであった。結局マリア=テレジアの神聖ローマ皇帝位への即位は認められず、夫のフランツ1世が皇帝位についていた(そのため、よく彼女は「女帝」と呼ばれるが、これは正しくない)。フランツ1世が1765年に死去すると、代わって長男ヨーゼフがヨーゼフ2世として即位することになるが、マリア=テレジアは政界から去ることはなく、母子は共同統治者としてオーストリアの統治にあたることになった。
 しかし、ヨーゼフ2世はこともあろうに、母が蛇蝎のごとく嫌っていた、あのプロイセン国王フリードリヒ2世に憧れており、冷酷な合理主義者として振舞おうとしたのである。彼はフリードリヒ2世と手を組んで、母に断りもなく、ポーランドから領土の大部分を取り上げることを約束してしまった。彼女は最後までこれに反対し、批准書への署名を拒否し続けるのである。
 1780年にマリア=テレジアが死去して、ヨーゼフ2世が単独の統治者となると、彼は目の上のこぶが取れたかのように、その合理主義精神でもって、宗教寛容令や農奴解放令など様々な近代化改革に着手していった。しかしそのあまりに急進的な改革は貴族たちから猛反対を受け、彼の憧れのフリードリヒ2世にですら「彼は最初の一歩がなく、二歩目から歩き出してしまっている」と揶揄されてしまうほどだった。そのためヨーゼフ2世の死後には彼の改革は全てが旧に復されてしまうことになるのである。彼の墓には、彼自らが考えた「良き意志を持ちながら、何事も成し遂げることができなかった男、ここに眠る」という墓碑銘が刻まれているが、この言葉はまさにヨーゼフ2世という人物を象徴しているといえるだろう。
 それにしても、マリア=テレジアはオーストリアの象徴として何とふさわしい人物だろう。国を代表する「英雄」は、単にその人物の功績が抜きん出ているというだけでなく、その人物がその国の道徳や規範を体現した人物であることが望ましい。フリードリヒ2世やビスマルクはまさしくドイツ的精神を体現した人物であると言えるし、アメリカ建国の父の一人ベンジャミン=フランクリンは、「最もアメリカ的なアメリカ人」と形容される人物である。日本史で最も人気のある英雄と言えば織田信長だが、彼はどう考えても典型的な日本人像を大きく外れている。あまり若者に⼈気のない徳川家康の⽅が、むしろ「⽇本⼈の英雄」にふさわしいのではないかとも思う。
 その視点で考えると、まさしくマリア=テレジアはオーストリア的な英雄である。時代錯誤な表現にはなってしまうが、いかにも男性的なプロイセン国王フリードリヒ2世に対して、マリア=テレジアは、同時代の女性君主――例えばイギリスのエリザベス1世やロシアのエカチェリーナ2世など――と比べても女性的なイメージの強い人物である。また彼女自身が多産だったという事実もあり、その統治は母性愛という言葉をもって語られ、現在に至るまで「国母」としてオーストリアの人々の尊敬を得ている。
 このフリードリヒ2世とエカチェリーナ2世のイメージの対比は、そのままプロイセンという国とオーストリアという国の対比、ひいてはドイツとオーストリアとの対比に重なっている。すなわち、ヨーロッパの中でも勤勉で、きびきびとしたイメージのあるドイツ人と比べて、オーストリア人は、同じドイツ系民族でありながらも、どこかおっとりとした印象で語られることが多い。そういう意味で、ヨーゼフ2世よりもやはりその母こそがオーストリアの象徴にふさわしい。
 また、今回この旅行記を書くにあたって、オーストリアやウィーンについて書かれた書籍を読み漁ってみたが、それらの本ではいずれも、オーストリア国民やウィーン市民の特徴として、保守的で変化を好まないという性質が語られていた。
 様々な改革や斬新な外交策に着手したマリア=テレジアを保守的な人物と言うことはできないが、しかし、彼女と対置して語られることの多いライバルのフリードリヒ2世や息子のヨーゼフ2世と比べると、やはり保守的なイメージがある。彼女は君主制や貴族制の意義を疑うことはなかったし、また良き結婚生活こそが最大の幸福だと信じるあまり、正式な結婚以外の男女の交際を告発させるお触れを出し、享楽的なウィーン市民の眉をひそめさせることもあった。
 改革を実施するにしても、彼女は入念な根回しをしてから取り組んだ。この点が、息子のヨーゼフ2世には足りない部分だった。合理主義者のヨーゼフ2世は、宮廷からあらゆる無駄を削ろうとした。例えば、宮廷の厩舎に飼われていた1200頭の馬を一気に400頭に削って、馬を世話する役人の数や餌にかかっていた費用を削減しようとしたのだが、これを聞いた母帝は「それでは一体、これまで馬の世話をした係官はどうするの? まさか彼らを露頭に迷わせるつもりではないでしょうね」と述べたものだった。
 ヨーゼフ2世の改革は一事が万事こんな調子で、彼の命令により様々な不要不急の地位や職務、会議、宴会、儀式、祝祭が廃止されていったが、これにより、マリア=テレジアのもとには解雇された人々が嘆願状を携えて行列を作ることになるのだった。
 この母子のエピソードは様々な示唆に富んでいる。歴史を学んでいると、伝統にとらわれず、世の中に変化をもたらそうとする革新派の人々こそが新しい歴史を切り開く役割を果たし、保守勢力は彼らの希望を挫き、歴史に停滞をもたらす敵役として扱われることが多い。しかしもちろん、あらゆるシチュエーションにおいて革新派が正しく、保守派が誤っているなどということはあり得ない。マリア=テレジアは、時には慎重に過ぎるような、保守的な態度こそが成功を導くこともあることを私たちに教えてくれる。
 またマリア=テレジアは保守的であったにしても決して不寛容ではなかった。現在、保守勢力は必ずといっていいほど愛国主義や移民排斥といった思想に結びついてしまうが、これらの思想は必ずしもセットではない。君主制・貴族制に固執していたマリア=テレジアは少数民族であるハンガリー人の地位に常に気を配ってきたし、またヨーロッパで最後まで絶対君主制を維持しようとしていたフランツ=ヨーゼフ帝も、「一致協力して」をキーワードに多文化の共存を目指し、実際その治世下でハンガリー人には広範な自治が認められることとなった。保守主義と異民族・異文化への寛容は両立し得るのである。
 そして、ヨーゼフ2世が一見無駄なものを排除しようとしていった結果として失敗を招いてしまったという事実は、コロナ禍の中で、様々な「不要不急」のものが排除されようとしている今だからこそ、重要な示唆を与えてくれるだろう。無駄に見えるものにも、現にそれが存在している以上は、何らかの形で誰かの役に立っている。一見すると無駄なものが多い学校という空間に生きる我々教員こそ、このことを肝に銘じなければならない。

 シェーンブルン宮殿は、マリア=テレジアの強烈な存在感を感じさせる空間である。ホーフブルク宮殿には、最後の住人であるフランツ=ヨーゼフとエリーザベトの夫婦の存在しか感じられなかったが、この宮殿では、そこにいるだけで彼女に包み込まれているかのような温もりを感じる。その理由の一つは、彼女より後の一族たちは、主にこの宮殿を夏の間のみの離宮として用いていたのに対し、マリア=テレジア一家はこの宮殿をむしろメインの住居として用いていたという点にあるだろう。
 まずこの宮殿の外壁に用いられている薄い黄色、通称「テレジアン=イエロー」と呼ばれるこの色が、何とも彼女の母性的なイメージに合っている。中でも印象に残っているのが「百万の間」と呼ばれる部屋で、この部屋の壁はインドよりとりよせた細密画によって装飾されている。当時の西欧人が中国や中東だけではなくインドの文化にも関心を持っていたということに驚かされたが、それ以上に、この細密画を切り貼りする作業が、マリア=テレジアの子どもたちによって行われたという話が強く印象に残った。マリー=アントワネットら、幼きマリア=テレジアの子どもたちが、ぺちゃくちゃお喋りをしながら作業に従事する様子が目に浮かぶ。この宮殿は、良き家庭生活こそが人間の幸福だと信じたマリア=テレジアの理想を体現した場でもあるのである。

音楽の国の冒険⑥へ(5月8日 9:00公開)

by 世界史☆おにいさん(仮)

Header Photo by Matthias Müllner on Unsplash

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