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ここらへんの史跡をゆく③ ~清須城

織田信長ゆかりの清須城へ行った。2週前の投稿を予定していたのだが「ブルース・ウィリス引退」のニュースが入り急遽差し替え、そして先週は健康診断の結果に気を取られ、 "無気力投稿" でお茶を濁してしまった。

清須城

気を取り直して、今回はちょっと前に行った清須城について書く。清須城は名古屋駅の北西約6kmにある。その跡地のど真ん中を、躊躇なく東海道本線と東海道新幹線が貫いている。明治時代の国家プロジェクトは、史跡なんかに一切頓着しなかったようだ。電車からも見えるお城は、往時を想像して1989年に造られた模造の天守だ。

清須城は1405年の築城で、15世紀末頃のお城周辺は尾張国の中心地だった。1534年生れの信長は、1555年から小牧山城に移る1563年までここを本拠とした。1560年の桶狭間の戦いはここから出陣、熱田神宮に参ったあと現地に赴き勝利を収める。二年後の1562年、桶狭間では敵方にいた徳川家康が清須城を訪れ、信長と軍事同盟を結んでいる( 清須同盟 )。

清須城での最も有名な出来事。それは1582年、本能寺の変で斃れた信長亡き後、織田家の後継者及び体制&所領の配分を決めるために開かれた "清須会議" だ。三谷幸喜さん原作・監督の映画をご覧になった方も多いだろう。

2013年公開 映画「清須会議」

映画では、豊臣秀吉(当時の姓は羽柴 45歳)と柴田勝家(60歳)の確執を軸に、登場人物の駆け引きが繰り広げられる。人懐っこくて狡猾な秀吉に、実直で不器用な勝家は翻弄されっ放し。そこに昔から両人ともが恋焦がれる、信長の妹お市の方の思惑も加わり事態はより混迷する‥ といったコメディー。

結局会議は秀吉の目論んだ通りに終わる。勝家の所領はわずかに増えただけだったが、望みであったお市の方との結婚が承認された。
前期高齢者の私としては、初老ながら頑張る勝家に肩入れしたい。

柴田勝家とお市の方

柴田勝家は齢六十まで戦場で数々の武功を挙げてきた。外交能力にも長け、所領の行政も優れていたと伝わる。いわゆる "超一流の仕事人" だった。
ここからは私の想像です。清須会議での秀吉の魂胆など、勝家は全てお見通しだった。不公平な所領配分も敢えて承諾し、残りの人生はお市の方とその娘たちのために生きることを選んだ。お市の方も「勝家なら三人の娘を大事にしてくれて平穏に暮らせるかな」と考えた。うん、そうだったらいいな。

歴史上の人物の人物像形成は、映画や小説での描かれ方に大きく影響される。柴田勝家は、"不器用" で "単純" で "一本気" だったのだろうが、"滑稽" ではなく、決して "無能" ではない。お市の方に映画のキャラのような、"計算高く" "意地悪" という史料は無いはずだ。もうひとつ、勝家が「裸足で廊下を歩くと足跡がベッタリ残るほどの脂性」という設定は、あの映画に必要だったのか。三谷先生、ちょっとやり過ぎだと思いますが。

閑話休題。何の為の清須会議だったか‥ 会議が終わるや否や、織田家家中の権力抗争が始まった。翌1583年の賤ケ岳の戦いで勝家は秀吉に敗れた。続いて居城である北ノ庄城を攻められ、勝家はお市とともに自害した。

お市と三姉妹の像 福井市

北ノ庄城が落ちる間際、勝家はお市の方に「三人の娘とともに城を出るよう」勧め、家臣にも生き延びることを許した。また賤ケ岳で裏切った前田利家を責めることもなかったという。度量大きく温かい人柄が偲ばれる。
お市の方は北ノ庄城で勝家とともに果てたが、城から逃がした三姉妹のうちお江を通じて、織田信長や徳川家康の系図は現代まで続いている。

お市にまつわる家系図

柴田勝家の一生は、"大きな仕事" を成し遂げた "幸せな人生" だったと思う。
そして映画でコミカルに描かれたことなど、豪放磊落に笑い飛ばしているのかもしれない。

< 了 >

【附記】「ここらへんの史跡をゆく① ~桶狭間」で、司馬遼太郎さんの「街道をゆく」の記載内容に言及しました。気になっていて最近読み直したところ、桶狭間などこの辺りに来られたのが、司馬さん最後の取材旅行になったようです。1996年1月の取材後に倒れ、2月12日に亡くなりました。
「濃尾参州記」は、 -未完-  と締めくくられています。 

街道をゆく 第43巻 「濃尾参州記」は7章までで絶筆  -未完- で発行されています。
※文庫本のカバー画像は岐阜城です。


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