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仏教はローグライクRPG

仏教には十地思想というものがある。

これは、悟りまでの段階を十段階に分けたもの(その内容は経典によって異なるし、さらに細分化してもよいと認めている)で、分類方法に十地や菩薩五十二位といった思想がある。

これをどう説明すればわかりやすいか考えたとき、ローグライクRPGと同じであると気付いた。


我々は生まれた段階でLv1である。素手ではラスボスはおろか、スライムやおおがらすにさえ苦戦するのである。もちろん、強いモンスターを倒したほうが経験値はたまる。しかし、自力では倒せないのだから、最も効率が良いのはスライム狩りなのである。この状態を一地と呼ぶ(但し、『華厳経』のような菩薩五十二位を採用する経典では、「一地」はLv41に該当する)。

問題は、二地、三地とレベルがあがり続けられるかである。死んでしまうと、輪廻という仕組みが採用され一地(Lv1)からやり直しなのである。そればかりか生まれてくる国も違う、つまりダンジョンのマップや、モンスターの配置さえ違うのである。

ところが、「この俺」というキャラクターは失われても、プレイヤーには功徳という経験値が積みたてられている。確かに修行しなおしなのであるが、前世でのプレイ内容によっては、地獄に生まれたり、畜生に生まれたり、人間に生まれたり、人間の中でも高ステータスで再生するのである。うまく人間として生まれ、僧侶になれれば、他よりはレベルが上がるのは早い。

釈尊は生まれた瞬間に『Mahavastu』では十地、『Mahavastu』を受け継ぎ発展させた『華厳経』では一地(『華厳経』の場合、一地はLv41に相当する)であった。まさに勇者なのである。あとは「煩悩」という魔王を倒すだけの状態で生まれてきたのである。

さらに発展させた『法華経』では、覚ったとき、実は過去世での永遠の修行(レベル上げ)が重要だったと気付く。適正レベルの永遠の修行―現実問題、例えば、親が殺されなければ、親が殺された人の気持ちはわからないし、いじめられなければ、いじめられる人の気持ちがわからないのである―その中で自ら理想を持ち、乗り越えようと繰り返し繰り返し輪廻したからこそ、人々を救う慈悲に転じることができたのである(最も神からの働きかけはあったが…)。

この思想が、四十華厳の普賢行として、法華経の久遠実成の釈迦として、無量寿経では第二十二願として展開していくのである。

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