コーヒーにまつわる雑多な記憶

ep.1 両親とコーヒー
 母は、コーヒーが好きだ。
 団地で暮らしていた頃、当時母は30歳になったくらいだった。私は小学校1年生。毎朝、母がガランガランと鈍い音を鳴らしているのが何なのか、気になるようになった。
「おかあさん、それ、なにしてるの?」
「豆を挽いているの」
朝の音の正体は、カリタの黒いダイヤミルだった。今思い返すと、あの団地の狭い部屋には、いつも父の吸うたばこと、母の淹れるコーヒーのにおいが混じりあっていた。朝起きると、母は着替えてコーヒーを淹れる。父はパジャマのままたばこを吸いながら新聞を読んで、母からコーヒーを受け取るのを待つ。母がテーブルにつくと、父は読み終えた新聞を母に渡して、広告をめくる。母の手元にはコーヒーと、いつも板チョコが1枚置いてあった。朝の時間をゆったり共有している両親を、私は寝起きのぼんやりした視界で感じていた。南向きの窓から斜めに陽が差して、マグカップから立ち昇る湯気を照らしていた。特に会話はない。だけど、穏やかな時間で、とても好きな時間だった。


ep2. 父と缶コーヒー
 ある日、母が大やけどを負った。春巻きを揚げていたら急に破裂して、母は顔の半分に高温の油を浴びてしまった。同じ団地に住んでいる幼馴染のお母さんが、病院に連れて行ってくれた。処置室に母が入ったその直後、父は待合室に駆け込んできた。
「お前が何かしたんじゃねぇらな?」
すごい剣幕で迫られたけれど、幼馴染のお母さんが庇ってくれた。私と言えば、母が悲鳴を上げてうずくまったのを見て、ただただ驚いて何もできず、まだ状況が呑み込めなかった。ようやく落ち着きを取り戻した父が、ふらふらと待合室を出て行った。そのタイミングで、母が処置室から出てきた。何か言葉を発するでもなく、疲れたような、ショックを受けた様子だった。あとから当時の話を聞くと、顔に痕が残るのではないか、どうして春巻きの中身のソーセージに切り込みを入れ忘れたのか、自分の娘はまだ何もできなくて頼りにはならないのだ、と、様々なことが頭をめぐっていたらしい。
 翌朝、母はコーヒー豆を挽いていなかった。代わりに、鍋にお湯を沸かして、口を開けた缶をそこに入れていた。
「何をしているの?」
「ゆせんしてるの。」
湯煎、の意味がわからなかったけれど、少しずつ甘ったるい、でもいつもと似た香りがしてきたのを感じて、中身がコーヒーであることを理解した。
「昨日パパが病院で買っておいてくれたの。とてもじゃないけど、すぐには飲む気になれなくて、この人は何考えてるんだろうって腹が立ったけど。でも、パパなりの優しさね。」
父は珍しくベランダでたばこを吸っていた。レースのカーテン越しになんとなく、ばつの悪そうな表情をしていた。
「パパのこと、呼んできて。」
父を見ながらそう言った母の顔は、優しい顔だった。


ep3. コーヒーと紅茶と砂糖と
 彼女のことを、私は「友人」と呼んでいいのか、今でも迷っている。彼女は中高での同級生で、お互いに同じ人を好きになった。彼女は中学の時にその人と付き合い、私は高校でその人と付き合った。彼女は私と同じ合唱部で、同じように読書が好きだった。彼女のお父さんは、私の父と同じく銀行員で、厳しく育てられていた。彼女は、いつも強くあろうとする人だった。当時は、お互いにうまくいっているようで、なんとなく噛み合わなかった。お互い、いろんなことに困って、苦しんでいた。お互いがお互いのことをうらやましく思っていた。 いつのまにか、競い合うようになった。成績、読書量、部活、恋愛まで。周りが私たちをそうさせた、ようにも思う。
 高校を卒業する頃、彼女との関係は希薄になっていた。そもそも、私が不登校になってしまったのも一因ではあるけれど。ようやくここを離れられるんだなと、卒業アルバムを眺めていたら、彼女の卒業文集のページに至った。
「コーヒーと紅茶と砂糖と」
卒業文集らしさのないタイトルだった。書道を習っていた彼女の文字はしなやかな枝のようで、私は好きだった。
「彼女は私が大量の砂糖をカップに放り込むのを見て、「邪道だ」と笑った。」
邪道だ、と笑ったのは、私だ。彼女はそのあとコーヒーと紅茶、砂糖やミルクにまつわる歴史を連ね、こう結んでいた。
「ブラックコーヒーと、いつか仲良くなれるだろうか。」
 SNSで帰省することを知らせると、時折個別にメッセージが届く。
「今度、新しく見つけた喫茶店に行こうよ。」
相変わらず、彼女は大量の砂糖をコーヒーに放り込む。それを今は邪道とは思わなくなったけれど。彼女はブラックコーヒーをどう思っているのだろう。

(後日追記予定:20191029)


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