勘が鈍る前に

 恒常的に何かを書いていないと勘が鈍る。文章の執筆にしろ楽曲の制作にしろ、なんでもそうだと思っている。演奏者が楽器の練習を怠らないように、創作者も日々の創作時間の確保は当然に大事だと思う。
 しばらく楽曲制作ばかりを行っている機会が多くて、そちらにかまけて小説であったり、こういった雑文を書いたりする時間をそこまで満足にとらないままここまで来てしまった。書いていない期間も、頭の中では常に文章のことは念頭にあった。カンパニュラとしての活動初期にnoteを開設して不定期に文章を書こうと思った経緯もそこにあったりする。何か書いている時間を設けておかないと楽曲ばかりの人間になってしまう気がしたし、それは僕の本心において望むところではなかった。

 自分の創作体験の根幹にはいつだって小説がある。
 小学五年生の頃、人と比べてかなり変わった子供だった。色々なことが長続きせず、癇癪を起こしてよく先生から怒られていた。授業中は漫画を読み、気に食わないことがあると平気で授業をボイコットして外に出る。辛いことがあるとすぐに大声で泣くし、指定された上履きなど教室であろうと校庭であろうと一切履いた記憶がない。その年の担任が厳しい先生であった場合など、僕のことを怒鳴り散らし、文字通り体を抱えて職員室に強制的に連れて行かれて、自分の行いについて反省と謝罪を行うまでここから一歩も出さないと言われたこともあった。
 先生といえど人間。色々な人がいるし、指導方針も人によってまちまちであることを、現在であれば重々承知もするが、そういったことを小学生の僕に理解しろというのは今振り返っても難しいことだったよなと思う。自分自身が相手のことを信頼していないのに、自分に対して強制力を伴って何かを促したり指示をしてくる人間は、全て理不尽な所業を行う悪人と捉えていた。そんな僕に、実の家族も、周囲も疲れていたのだと思う。
 ある日、詳細を一切知らされないまま、試しに一度カウンセリングを受けてみようと提案され、両親に連れられて保健所に行った。そこで応対してくれた女性が、今日まで僕が創作を続けているきっかけになった。
 保健所で、その女性に言われるがまま様々なテストを受けた。受ける際、その女性から事前に、これは「ゲーム」なので緊張せずに解いてほしいと聞いていたし、実際に積み木だったりイラストが書いてある紙であったり、その一つ一つが小学生の僕にとって不思議ながらも興味のそそられる内容だったので、全体を通して楽しんで受けた。それが所謂、僕の中にある障害の度合いを図るための検査であったことを知るのは、ずっと後になってからだった。

 ひとしきり検査が終わり、両親に対してその女性が話す前の小休憩の時間、気さくなその人が僕に、普段は何をして時間を過ごしているのか聞いてきた。その頃の僕は、検査を受ける少し前に従兄弟に連れられて入部した野球クラブを辞めていて、時間が有り余っていた。その暇に任せて、とあるきっかけにより自分で独自に小説を書き始めていたのだった。なので、そのままそのことを女性に伝えると、

「えー、読みたい」

楽しそうな声色でそう言ってくれた。自分の創作したものを、本心から望み、読みたいと言ってくれる人がいるんだ、と勘違いした僕はその日の帰宅後、その女性のために、一本の掌編を張り切って書き下ろした。
 翌週、両親が僕の検査結果の説明を聞くために再び保健所を訪れた際に、やはり応対してくれたその女性に掌編を渡した。その女性は驚きと共に受け取り、その場ですぐに読んでくれた。そこに書かれている内容、それはA4ノートを引きちぎって作った一枚に鉛筆書きにて、ミミズののたくったような字でびっしり文字が埋められていた代物だった、のにも関わらず、その全部に丁寧に目を通した後、その場で書いた本人である僕が驚いてしまうほど感動してくれた。

「すごい。嬉しい。こんな素敵な話、私のために書いてくれるなんて!」

 その反応に、今度は僕の方が、紛れもなく本心から感動していた。
 僕が書いたものを、読んでくれる人がいるということ。
 読んだ結果、感動してくれる人がいるということ。
 人が自分の創作物で感動してくれるということが、こんなに嬉しいのだということ。
 これが今日に至るまで、僕の創作活動の基礎になっている。

 あれから時を経て、小説に加えて音楽が自分の人生に加わってからも、底にあるのはいつだってこの時の体験である。
 あの頃から僕も幾分と歳を重ね、それ相応に物事の分別もつくようになった。いろんな形で恥を掻き、学びを得てきたおかげで、実際に何か行動を起こしたり判断を下す際に、ある程度は常識的な範疇で物事を推し量る術も心得たと思う。周りから見れば、僕も着実に大人になっているのだろうけれど、やっていることといえばあの頃と何ら変わりはないのだ。
 むしろ、あの頃に生じた原体験を、意固地になって守ろうとしているから、今日も誰に求められるでもない何かをせっせと書こうとしているのではないか、そんな風にも思ったりしている。

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