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たとえ牛歩でも〜牛と私〜

久しぶりにゆっくり本を読み、note を開く余裕ができたありがたさ。

そもそも、始めたきっかけは、ほぼ日が好きなので、糸井さんみたいに毎日何かしらか文章を書いてみようと思い立ったが、なかなか続かない。

高山なおみさんも好きなので、シンプルな料理を作り、本を読み、エッセイを書き、感受性豊かにイキイキと暮らしたいと思うけど、時々心はカサカサになる。

暮しの手帖とか、天然生活とか、うかたまとか読んで丁寧な暮らしを目指しても、なかなかそうもいかないものだ。

ダメな自分に溺れることもあるし、くたびれて擦り切れた状態で料理に向かっても、イマイチな仕上がりになる。

飲食店は沢山の人と関わる仕事なので、たまに人に翻弄され、心がさざなみ立ち、気が散って、真っ直ぐ料理と向き合えないことがある。

でも、老舗を何十年も続けている料理人の方々は、そんな日々の些細なことで揺るがないぶっとい芯が通っているのだろう。

酒造りは、人生修行

と懇意にしている日本酒の蔵元さんが言っていた。

人生の先輩達も日々を戦って、困難をなんとか乗り越えて、大切なものを守り続け、向上心を持ちながら前に前に進んできたのだろう。

だから、私も挫けていないで、また、少しずつ進んでいこうと思う。たとえ、牛歩でも。

閑話休題。

ある人が岩手の人を見て牛のような人達だと言ったというようなことを聞いたことがある。


おっとり、のびのび、猫背でのそのそ歩き、

「んめ、んめ、」

と言いながらもっつもつとご飯を食べるあたりかしら。

でも、畜産もやる農家出身で牛と育ったので、私も牛のような雰囲気は持っているかもしれない。

熟成ブームが来てだいぶ経つ。ギリギリまで熟成させて、悪くなっていく周りを削って、芯の部分を最高に美味しく食べるというもの。

安いお肉も絶品になるという。

人それぞれなので、食材にそういう活かし方があるのは充分承知してるつもり。でもなぁ、なんだかもったいないなぁと思ってしまう。周りは腐らせて捨てちゃうなんてかわいそうだなぁとも。

うちで飼っていたのは肉牛だったので、可愛がっても最後は売られてしまうのが切なかったけど、美味しく食べるのが供養、と信心深い祖父も言っていたので、みんなの血となり生きる糧となるなら良いなと思っていた。

だから、食べ物を粗末にしたり、無駄にするようなことはとても怒られた。

料理人として暮らしている今もなるべくロスのないような調理を心掛けている。食べれられるところは全て工夫して美味しく食べたい。

沖縄では、豚を鳴き声以外は全部有り難く食べるという。それくらいのおおらかさで生き物の命を受け止めたい。

岩手には、短角牛という美味しい赤身肉がある。茶色の毛、夏山冬里方式という独特の放牧スタイル。

すくすくのびのび育つ短角牛は、噛み締めると干し草のような芳しさ、噛めば噛むほど滲み出る旨味がある。

あの山の風景が見えるよう。

アミノ酸は寝かすことで増えるというので、ある程度の熟成は必要で、もちろん少し寝かした方がより美味しい。

でも、結果的に大きくトリミングしなければいけないような贅沢な熟成方法は、この健やかに育つ牛の姿を見たら罪悪感が湧いちゃうじゃないか、と思うのだ。

だから、料理人はみんな、是非生産者さんの声を聞くべきだし、生産現場を見た方がいい。


最近、新人ちゃんに教えながら、一から調理の仕方の意味、素材を活かす調理法、味付けを考えている。

お肉は特に火の入れ方が重要で、単純な調理だけど、とても難しい。例えばコックさんは、上にならないとお肉の焼きはやらせてもらえない。

焼いたお肉の最上の仕上がりは追求すればするほど奥が深く、一生勉強なのだ。

でも、でも、食材と向き合い、生産者さんや、育った環境や、食べた時のお客さんの反応を色々想像することの楽しさといったら!!

初心に帰って、一歩ずつ。

短角牛の炙り焼き

短角牛モモ肉200gは常温に戻しておき、塩をまぶす。(美味しいあら塩を!)

フライパンや焼き網を熱し、中火で30秒くらいずつ返しながら全面を満遍なく焼いて、キツネ色の焼き色がちょっとついたら、火から外して、アルミホイルにくるみ、休ませる。(余熱で火が通る。)

切り分け、ステーキソースをかけたり、山葵醬油や塩、胡椒など好みのタレで食べる。

おいでくださりありがとうございます。 不器用な料理人、たぬき女将が季節の食材、料理、方言にまつわるよもやま話を綴っています。おまけレシピもありますよ。