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H-013 奴隷半身像

石膏像サイズ: H.98×W.61×D.39cm(原作サイズ)
制作年代  : 1513~15年
収蔵美術館 : ルーブル美術館
作者    : ミケランジェロ・ボナローティ(Michelangelo Buonarroti 1475-1564)

1504年のフィレンツェでのダヴィデ像の完成後、ミケランジェロはローマ教皇から招聘されローマへと向かいました。当時の教皇ユリウス2世(1503-13年在位)は、政治的手腕にすぐれた教皇で、15世紀を通じて回復しつつあったローマ教皇の影響力をより大きく安定したものにした人物です。また芸術を保護した教皇としても知られ、ラファエル・ブラマンテ・ミケランジェロといった面々は、ユリウス2世によってローマに招かれてその活動の場を与えられました。

ユリウス2世はミケランジェロに”ユリウス2世霊廟”と、”システィーナ礼拝堂の天井画”という2つの巨大プロジェクトを依頼しました。1505年に依頼を受けた当初の霊廟の計画は、等身大以上のサイズの彫像を40体以上配した壮大なものでした。ミケランジェロにとっては、その芸術の能力を最大限に発揮できる絶好の機会を与えられたため、大いに感激し、自ら石切り場にこもって、一年近くの歳月を費やして大理石を選定しローマへ運んだそうです。

ところが、ローマへ戻りいざ制作という1508年、ユリウス2世はシスティーナ礼拝堂の天井画を優先して制作するよう命令します。彫刻家であることを自認していたミケランジェロはこれを固辞しますが、教皇からの強力な要請に屈する形であの天井画に立ち向かうことになりました(霊廟建設は中断され、天井画に実に4年の歳月が費やされた)。天井画の完成後には1513年に肝心のユリウス2世が逝去し、新しい教皇にメジチ家出身のレオ10世が即位します。ユリウス2世の遺族であるデラ・ローヴェレ家と、新教皇を送り込んだメジチ家とは敵対関係だったため、またもユリウス2世霊廟の制作は後回しにされることになり、ミケランジェロはフィレンツェへと戻りメジチ家関係の制作依頼に応えねばならなくなりました。そんな紆余曲折を経て、結局1545年にユリウス2世霊廟は完成します。

15世紀を通じて、フィレンツェ・ヴェネツィアなどでは”壁付墓碑(教会の壁面を利用して、そこにくっついた形で墓碑を構築したもの)”が一般的だったことを考えると、この霊廟の計画はスケールだけでなく、そのスタイルも非常に野心的なものでした。最初の計画では、サン・ピエトロ大聖堂内に、40体以上の彫像に取り囲まれた、幅7メートル、奥行き11メートル、高さ8メートルの独立した構築物を作る予定でした。その構成は、最下層は人間界に、中間層は神の恩寵を受けた預言者と聖人たちに、上層部は最後の審判に於いて下の二つの層を超越した者達にそれぞれ捧げられていました。しかし、度重なる計画の変更によって、その規模は大幅に縮小され、最終的には”壁付墓碑”のスタイルに落ち着き、三層構造だった計画は二層のみの構築物として実現されました。

この壮大なユリウス2世霊廟の計画のために制作され、そこから”はじき出されてしまった”のが「瀕死の奴隷」という彫刻作品なのです。消滅してしまった最下層部分に設置されるはずだったのが、全部で6体制作された奴隷像でした。最下層は人間世界を象徴しており、この奴隷像は”魂が肉体に囚われの身になっている”ことを表現しているとされています。最下層が省略されてしまったことにともなって、この奴隷像ともう1体の奴隷像はロベルト・ストロッツィという人物に贈られ、さらにフランス国王に献上された結果、現在ではルーブル美術館のコレクションとなっています。

ルーブル美術館収蔵 「瀕死の奴隷像 Dying slave」 1513~15年制作

ミケランジェロ自身による、初期計画の図案 ”奴隷”らしき彫刻群が最下層部に配置されている

(写真はWikimedia commonsより)




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