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月刊コグマ#11 ライフサイクル

わぉ。もう11月。
びっくりだね。

どうもこんにちは。
ゲッカンアワーのお時間です…

なんてことは置いておいて。

最近はだんだんと寒くなってきて、やっと冬が近づいてきたって感じがする。

周りでは秋なんてなかった~とかすぐ終わっちゃった~とか言っていて、どことなく寂しい。

実際はそうだったので言い返す言葉もないが。

冬も寒くならなさすぎて、冬なんてなかったとか言われるんだろうか。

来い冬よ、精一杯楽しんでやるぞ!!


願いを叶える聖杯 ※ネタバレあり

※ペルソナ5のネタバレをがっつりとします。
嫌な人は飛ばしてね。


誰かに全てを任せて、自分は何も考えず生きていきたい

そのような怠惰な願いを抱いた大衆が生み出した神、
統制神ヤルダバオト

今回は、彼の行動と心理について、今一度かみ砕いて理解しよう!
という回である。

彼はそもそも、大衆の願いを叶えるために存在していた大衆のパレス(メメントス)のオタカラである聖杯であった。

元々は、ただ願いをかなえようとするだけ。
しかし、大衆の心が歪んでいくにつれて怠惰の精神も強まっていき、そのオタカラも歪んでしまった。

そんな怠惰に堕ちた大衆の願いをかなえるべく統制しようともくろんだ。

実際、この時点での大衆は、国の指導者となるであろう人間(獅童正義)の本心や悪事が怪盗団によって暴かれた後もそのことには目もむけず、総理大臣として国を任せようとしていた。

つまりはこういうことだ。

ヤルダバオトの行動は女神転生シリーズのLowルートの面々の考えにも近しいものを感じる。
人間の為だとのたまいながら、自分のいいなりとして統制しようとしているのだ。

それでいて、自らが神なのだから、自身が唯一正しい存在だという傲慢なところもある。

ヤルダバオトのもくろんだこと。
それは、現実世界とメメントスの同一化。

メメントス最奥の牢獄は「考えて苦しむ自由」を放棄し「選ばなくてもいい自由」を得た者達が集う場所であった。

怪盗団とそれを助ける協力関係の仲間たちはこの「おかしさ」に気づくことが出来るが、怠惰に浴した大衆はおかしいことをおかしいと気付くことが出来ない。

彼は戦闘中、「大衆の望み」という技を使っていた。
この技は、その名の通り、大衆の導いてほしいという望みを吸収して体力を回復するというもの。

吸収とはいっても、無理やり徴収しているわけではない。
自分たちから力を分け与えているのだ。

どれもこれも、聖杯に導いてくれ と望んでいるから。

コイツと対面していると、嫌というほど我々大衆のダメさが露呈しているようで、怪盗団には頭が上がらない。

さて、ここまでヤルダバオトについて掘り下げてきたが、どうだっただろうか。

そもそもの原因は、なんでもかんでも人任せにしようとした大衆がいたからこそ、こんなことになったのか…と思わざるを得ない内容だった気がする。

ちなみに実際に、本編でも怪盗団を惑わせてきたのは常に大衆だったと語られていた。

P3、P4、P5とやってきてふと思ったのだが、
ストーリーのラスボスの面々(ニュクス、アメノサギリ、ヤルダバオト)のおかげで結局、影時間やマヨナカテレビの世界、メメントスを現実世界と融合していた。

現実世界の人間との干渉がいわゆる神にとって途轍もなく重要なことだということが分かる。

クニノサギリやヤルダバオトに至っては、人が望んだからしているという根拠つきだ。
ちなみに、ニュクスも「死に触れてみたい」と人が望んだから引き寄せられている。

P1やP2ではどうだったのだろうか。P2をやりたいとは思っているがハードもソフトも無いので、移植で出してほしいところだ。

最終的に、大衆の人々は怪盗団の存在を再び認知し、人々の総意とも言える反逆の意思が集まったことで、新たなペルソナが顕現し、彼をオタカラである聖杯へと戻すことが出来た。

こうやってペルソナシリーズをやっていると、
自分と向き合え とか
真実から目をそらすな とか
そういうメッセージを教えられているような気持ちになる。
(実際にそうだが)

ふとした時に、この言葉たちを思い出すんだから、たぶん自分の中で大切な言葉になっているのは間違いないだろう。

これからも、出来れば人任せの怠惰に浴さないように頑張らなくっちゃぁな。

あ、そういえば、最近はP5Tをやっている。
シミュレーションRPGをやるのは、たしか妖怪三国志以来だった気がする。

P5Tはクエストにパズル要素が多く、たくさん頭を使うので大変だが楽しいので、皆さんもおすすめだ。

それに来年の2月辺りには、P3Reroadが発売される。
皆さんも今回の話で気になった方はぜひ、遊んでほしい。



ライフサイクル

※この話は11月1日から書いた日記をまとめたものです。

とはいえ、ちゃんと書いていたのは1週間くらいで、あとは全く書いてなかったので、友人とのDiscordなどから思いだして書いていきますね。

11/1 (水)
久しぶりに髪を切りにいった。

土日はバイトが入っているし、あんまり外にも出たくはないから、水曜日に行くことにした。
もちろん水曜日も入っているけど、さすがに行かなくては伸びまくってしまう。

結局あんがいいい感じに切ってもらって、僕は気分が良い。バイトはめんどくさいが。

11/6 (月)
五等分の花嫁が急に読みたくなった。

クリスマスの回が個人的に好きで、時期的にもうすぐクリスマスなので、ちょうど良い。

今日からいつまでかかるのか分からないが、1週間で読んでしまいたい。

11/7 (火)
ラブコメとか、ドラマとかを見ていると、改めて「自分の良いところってあるのかな」と思うことがある。

体育会系でスポーツ万能でもないし。
勉強がめっちゃ出来るわけでもない。
リーダーシップもないし、人から頼られることもない。
上手なところも何一つない。
自分から見て自分の良いと思える、取り柄な部分が思い当たらない。

今の一番の悩みはそこなんだろう。
苦しい。単純に苦しいよ。

でも、これはただの悩みだ。
悩みなんだから、
Diamond なあの子が言っていたとおり、
どうにかして自分で乗り越えなくちゃな。

あ、そういえば、プールも泳げないんだった。

11/10 (金)
大学の講義でプロジェクトマネジメントというもの必須科目としてあるのだが、そこでプロジェクト計画書を作ることになった。

もし自分がプロジェクトを始めるのならどんなものをするのかから考えていくのだが、考えてみると出来そうなことがたくさんあって少し楽しい。

実現できるのかの現実性ももちろん必要なのだが、考えることの可能性は無限大である。

そういえば話は変わるが、友人をイルミネーションに誘ってみた。
まだ詳しいことは何にも考えてないが、とりあえず見たくなった。

それに、写真を撮ったら送りたい人がいる。

なんだか楽しみになってきたぞ。

11/13 (月)
最近、講義に来る人が少なくなってきたように感じる。
いつもいた人たちが軒並みいないのだ。

もちろん出席数とか単位とか足りているんだったらいいんだけど、授業回数的に、そんな余裕をかましていける感じでもない。

友人も最近は見なくなってしまった。
彼が言うには、講義で自分の学びたいことが出来るのは良いがあまり学ぶつもりのないこう講義まで必須科目になっているから、らしいい。

出来ることならその時間でプログラミングを組んでいたいと彼は言っていた。

今月が終わるころまでには来るのだろうか。
少し心配だ。

11/17 (金)
ちょっとめんどくさい事案に巻き込まれてしまった。

いや、巻き込まれたというより引き起こしてしまったというのが、この場合は適切かもしれない。

端的に言えば怒らせてしまったのだが、
インスタで聞いても「怒ってないよ~」というし、
それなのにフォローも外されてしまったので、あの子の心意は分からない。

正直、自分も関わるのに飽き飽きしていたので関係を直そうとは思わないが、
こんなにも冷たい態度を自分は他人に取ってしまうんだなと少しショックである。

本当にめんどくさい。

11/23 (木)
今日は友人と一緒に約束していイルミネーションを見に行った。

恵比寿のガーデンプレイスまで遊びに行ったのだが、想像以上に綺麗なイルミネーションだった。

大きなツリーはもちろん、シャンデリアも灯されていてとても明るかった。

他にも、今の大学はどうだとか、どんな人が好きだとかいろんな話をした。

とっても充実した夜だったように感じる。

今度は東京駅の方のイルミネーションの話題が出てきていたので
また見に行きたい。


と、いうことで如何だっただろうか。
個人的には今までの月よりはイベントというか出来事が多かったように思う。

12月もこんな感じに面白いことが増えてくれるといいのだが。
いや、自分からしていくのか。

えーっと、カレンダーを見てみよう。

12/24 (日) バイト ○
12/30 (土) バイト ○
12/31 (日) バイト ○

…来月は忙しくなるぞ!!



int heart;

9月のテーマは「S」。10月のテーマは「宝石」「金」。
そして今回の月刊のテーマは「愛」。

その愛について少し掘り下げてみることにしよう。

僕が長らく思っていること。
それは、「恋」は特別な相手に対しての「好き」という感情だが、
「愛」は性別に関係なく、誰もが誰に対しても抱ける「好き」という気持ちだということ。

家族愛はもちろんだし、友情だって一つの愛だ。

生活していて
「もしここで倒れたら、心配してくれる人はいるのだろうか」
と考えることがある。

通りすがるカップルや若い夫婦を見ると
「愛される人はいいな」
と思うことがある。

もし自分が倒れたら、家族はもちろん心配してくれるだろう。
少なくとも、産まれてから今までの間、家族として生活をしてきたのだ。

その生活の分だけはお互いにあったと思う。
そうだと思いたい。

愛されるっていいなぁと思うとき、真っ先に思いつくのは家族の姿だ。
他の人に愛されていたと感じないから、思いつくのは家族の姿だけなのは少し悲しいところだが。

そんなことを言っておいて、少し矛盾するかもしれないが、
友情は愛だと思う。

友情は親愛の情になると考えるからだ。

実際に考えてみてほしい。


今日は11/6。
いつもはこの時間に来ているのに、今日は隣の席のAくんが来ていない。

どうしたのだろうか。何かあったのだろうか。

風邪か少し早いインフルエンザか。
もしくは部活でけがをしてしまって、来れていないのかもしれない。

少し心配だな。

今日は昨日見た動画の話だったり、一緒にやったゲームの話だったりをしたかったのに。

この話をしたら彼はなんていうだろう。
Aくんだったらたぶん良いリアクションが返ってくるんだろうな。

うーん…

明日は来るかな。
じゃあ明日までこの話は取っておこうかな。


さぁ。この朝の学校で隣の人を待ちわびているシーン。
このシーンにも愛がいくつか見てとれる。

例えばこの
「少し心配だな。」
というところ。

ここからも、友人に対する愛情が分かる。

病気なのか、怪我なのか。
どちらにせよ大丈夫なら嬉しいが心配だ。
という気持ちがひしひしと伝わってくる。

また、その後半の
「Aくんだったら~」というこの部分からも、
彼ならこういうだろう という想像が出来る時点で愛はあることが証明出来る。

つまり、友情は一種の愛なのだ。

Q.E.D.証明完了
Shut up黙ってろ, the right answer has been given.正しい答えは示された

話は少し変わるが、以前から、僕は僕と関わったすべての人が大好きだ、というようなことを言っていたと思う。

とはいえそれは、個人的にそれに該当する人、というよりも、今までに関わってきた同級生や後輩に向けて言ったので悪しからず。

でも、ここからもっと出会う人は増えて行って、その人のことを理解していくんだから、大好きな「愛している」人たちは増えていくんだろうな。

正直、僕はそれが楽しみで仕方がない。

色んな人を理解して、好きになれることは途轍もなく幸せなことだと思うし、その過程は正直難しいとも思う。

本当の意味で理解できた人だって、誰一人としていないのかもしれない。

けれど、一つ。
尊敬というこれもまた一種の「愛」を持っていれば
人と人との関係は作れるだろう。

だって僕たちは、「愛」を抱ける人間なのだから。

ちょっとカッコつけていたら、足に小指をぶつけてしまった。
もしかして足と机は愛し合っているのか?
だから近づいちゃったんだろ?

はー、許せない。

そういえば、僕は動物に詳しくないけど、
動物にも同じ種族の動物同士で愛があるのかしら。

少し気になってきたな。

これが書き終わったら、とりあえず調べてみるか。



朝チュン

僕にはとっても憧れているものがある。
ちょっとえっちな恋愛漫画などによくあるあのシーン。

朝チュンを体験してみたいのだ。


「チュン…チュンチュン」

葉の揺れる音が、雀の鳴き声が聞こえる。

朝の日差しで目を覚ますと、自分の真横で「違和感」を感じる。
とりあえず、頭を醒まさなくては。

辺りを見回すと、自分の隣にはだれかがいるようだ。
そこであることに気づく。
そういえば服を着ていない。裸だ。(腹筋があるのが理想)
いつもは寝るときシャツやパジャマを着ているのだが。
何故だろうか。

昨日は友人と合わせて複数人でお酒を飲んで、色んな話をして…それからどうしたんだっけ。
そこからの記憶がまったく無い。

頭を悩ませていると、真横の「違和感」が動き出した。

「ん…おはよ」
「もう朝なんだね…」

真横にいた「違和感」は女だ。
それも、昨日一緒に酒を飲んだ女。
なぜ僕の布団でこいつも寝ているんだ?

というか…
この女も裸じゃないか…。

まさかとは思うが、昨日の夜…
俺はこの女と…!?


みたいな感じから想起させる、朝チュン。

この朝チュンを僕は体験してみたい。

実際にこれが起こったら、僕はどんな反応をするのだろう。

まぁたぶん、なんで隣に女がいるのかも理解できないで、
本当にヤってしまったのか~とかお金とか盗まれてないか~とか自分の心配ばっかりなんだろうな。

自分のチェリーを、記憶のないうちに失ってしまったっていうのも少しショックかもしれない。

思ったのだが、別に朝チュンだからって、昨日の夜の記憶が抜けていて、ど~しよ?ど~する?があるわけじゃないよな。

普通に異性と夜にヤった後でも朝チュンってあるよな?

ってことは僕にもまだまだ可能性はあるわけだ。

それで…


「チュンチュン…」

鳥の鳴き声が聞こえる。
心地のいい朝の陽ざしだ。

目にはまだ昨日のあの光景が思いっきり焼き付いている。

薄明りの中でまるで水の中にいるように二人で重なり合ったあの時間が。

少し窓の向こうをみて、あくびをした。

隣はまだ寝ているみたいだ。
布団でこんなに丸くなって、まるで猫みたいだな。
…かわいい。

心の中でそうつぶやいた。

すると隣から
「朝からそんなこと言っちゃうなんて、意外とキザ?」
「そんなにカッコつけちゃってw」
と、すこしふざけるように声をかけてきた。

気付かなかったが声に出ていたらしい。
恥ずかしいな。

するとそんな感情に気づいたのか、
「何赤くなってるの?」
「どんなところがかわいいって思ったの?」
と攻めてくる。

正直に言うと、そんなところもかわいい。
が、ここでそう言ってしまうとどこか負けた気がするので、ここはひとつ反撃してやろうか。

「昨日の夜…一緒にいたとき、一緒にシたとき、今だって、全部。全部だよ。」
なんてキザなことを言っているんだよと自嘲しながら彼女の顔を眺めてみると彼女の顔も案の定、赤く染まっていた。

謎の空気感にお互い笑いがこぼれる。
そうして時間は過ぎていった。


みたいなね。

いつかどこかで話した気がするが、セkkスは愛の最大表現だから、やっぱり純愛が一番だと思うの。

記憶のないセkkスは愛があったかといえば、そうじゃないと思うし、大切にだって出来ていなかったことだろう。

まぁ、そこから発展する恋や愛だってあるとは思うが。

そうだな。
じゃあ僕は、純愛の方向の朝チュンを目指すことにしよう。

そっちの方が可能性としては簡単…簡単…簡単なのか?
彼女すらいない自分にそんな芸当が出来るのか?

でも理想だよなぁ。
そうやって愛せる人がいるっていうのは。

ちなみに、演技としてやって楽しそうなのは、初めに挙げた酒での朝チュンなんだよなぁ。
朝起きて、隣に知らない女が寝てるときに驚くとか絶対経験しないだろうし、演技でやってみたい。

朝チュン。

そんな理想に想いを馳せて僕は今日も満員電車に乗る。
なんなら、今その中でこの話を書いている。

恥ずかしくないのか。

生活って難しいなぁ。



まとめ:愛って結局何だろう

int hreat;で話した通り、今月のテーマは「愛」である。

愛って何なんだろうって改めて考えてみると、意外に奥深くて底が見えない。
底が知れない。

愛が育まれる場所はどこだろうか。
やっぱりそこは生活の中なのだろうか。。

そう思って、今回は生活の中にあるような妄想シーンを描いた話を作った。多かったでしょ?

朝チュンに至ってはだんだんと性癖発表会になってたのが個人的に辛かったw

愛情の抱く幅っていうのか、どこまでの広さまで愛情は抱けるのかというのか表現が難しいがそんな疑問が僕の中にはある。

出来るなら、全員に平等の愛情を送りたいと思っている。
でも、実際はそんなことできやしないし、愛情の格差が生まれるのも当たり前だ。

だからこそ、結果的に人間は一個人に愛を注ぐことに注力するわけだけど。
昔も昔、重婚が認められていた時代はみんなに注げていたのかしら。

難しいね、気持ちってやつは。

星野源の曲にFamily Songという曲がある。

この曲にもある通り、

出会いに意味などないけれど
血の色 形も違うけれど
いつまでもそばにいることが
出来たらいいだろうな

Family Song 作詞作曲:星野源

という歌詞には、
血がつながっていなくても、相手が人間でいなくても
いつまでもそばにいたいという思いや元気であってほしいという願いがあればそれはもう「家族」と言えるんじゃないのか

という思いがこもっているとかいないとか。

これも一つの愛のカタチだよなぁ。

思えば夫婦って血がつながっている関係じゃないし。
ペットなんて形だって違うのに自分の大切な家族なんだって胸を張っていうことが出来る。

そうさせるのは愛ゆえに、なんだよな。

愛の定義の広さや可能性を垣間見た気がする。


これで11月も終わり。
明日からは12月になる。

また1か月かかって書いているわけだけど今後はどうなることやら。

来月は、12月号と総集編で2本出る予定なのでぜひ。

統制の神にそそのかされないようにしっかりと前をみて生きなくちゃあな。

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