佐藤優×山崎行太郎 日本を亡ぼす「反知性主義」

今や論壇で「反知性主義」という言葉を目にしない日はない。この言葉は現在の日本を読み解く上で重要なキーワードとなっている。それでは反知性主義とは何を意味し、何が問題なのか。反知性主義という言葉を広めた作家の佐藤優氏と、哲学者の山崎行太郎氏に、反知性主義をめぐる問題について縦横無尽に語っていただいた。

反知性主義とは何か

佐藤 まず私の問題意識からお話ししたいと思います。反知性主義には二重の構造があります。一つは、無知蒙昧を恥じないという側面です。例えば、内閣官房副長官補の兼原信克さんが『戦略外交原論』という本を出しています。彼はその中で、名誉革命の結果マグナ=カルタができたと書いています。しかし、名誉革命が起こったのは1688~89年、マグナ=カルタが作成されたのは1215年です。その他にも、宗教改革はイタリアから始まったとか、「スフ」が火炙りにされたなどと書いています。これは「フス」の間違いですね。

 他方で、反知性主義には無知蒙昧とは異なるもう一つの側面があります。それは知性の限界を知り、それを超克するというものです。近代になるまでは、合理性によって世界全体を説明できないということは、自明でした。ところが近代以降、理性によって全てを説明できるという考え方が出てきた。これが主知主義(知性主義)であり合理主義です。しかし、これらは結果的に第一次世界大戦をもたらしました。

 当時の優れた思想家たちは、それ以前からこうした知性主義の危険性を見抜いていました。例えば、1905年のロシア第一次革命の頃に現れた「道標派」と呼ばれる人たちです。彼らはもともとロシアにマルクス主義を導入した人たちでしたが、ロシア革命が起こる中で、合理性では割り切れない要素が捨象されていることに危機感を抱くようになりました。これが知性の限界を知っているという意味での反知性主義です。

 しかし、こういう反知性主義がレーニンやトロツキー、スターリンによって実践運動に利用されるようになると、知性を馬鹿にし、無知蒙昧でも構わないというように変化してしまいました。スターリン自身はインテリでしたが、スターリン主義者たちは本当に粗野で、「この野郎、言うことを聞かないならもう少し殴ってみるか」と、このような感じでした。

 このように、知性の限界を知っているという意味での反知性主義は、すぐに無知蒙昧型の反知性主義に転化してしまいます。しかし、表面的な言説だけを見ると、両者は非常に似ていて見分けがつきにくいんです。

山崎 知性の限界を知り、それを超克するとは、例えば神を信じたり直観を重視するということだと思います。しかし、これらは上っ面だけを見れば、単に知性が足りないだけのようにも見える。実際、知性に反しているという点では、両者には似たようなところがある。しかし、これらは本質的に異なるので一緒にしてはならないということですね。

佐藤 私は反知性主義について議論する際、必ず「反知性主義とは、実証性と客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度である」という暫定的な定義から始めるようにしています。それは、無知蒙昧型の反知性主義と、知性の限界を知り、それを超克するという意味での反知性主義を区別するためです。私が批判しているのは前者の方です。

山崎 今、佐藤さんが知性主義と反知性主義、そして反知性主義の二重構造について整理してくれました。僕は少し違う角度からお話ししたいと思います。

 僕は小林秀雄を通じてデカルトに興味を持ったのですが、デカルトは当時の中世的・ラテン語的な世界観の中で、敢えてラテン語ではなくフランス語で論文を書きました。当時はフランス語は俗語とされており、フランス語で本を書く人はいませんでした。それでは当時の学問的権威やインテリ文化人たちがデカルトをどのように見たかと言えば、恐らく反知性主義(無知蒙昧)と見たんじゃないかと思うんです。また、これは佐藤さんの専門ですが、ルターが出てきて宗教改革を行った。当時の体制側がルターをどう見ていたかというと、やっぱり反知性主義(無知蒙昧)と見たんだろうと思うんです。

佐藤 反知性主義(無知蒙昧)と見たでしょうね。

山崎 とすると、デカルトやルターのように世の中を変える革命性を持った人たちも、当時のシステムの中では無知蒙昧と見られていたということです。例えば、トーマス・クーンは『科学革命の構造』の中で、科学革命が起きる局面では今まで通用していた科学的常識が通用しなくなると言っています。そこから考えると、体制を守っている側には、新しく湧き起こってくる革命的な思想運動は常に反知性主義(無知蒙昧)に見えるのではないか。

 もちろんそれが極端になれば、暴力的なものになったり、ヘイトスピーチのような形になってしまいます。これは抑え込む必要がありますが、そこには同時に新しい文化を作り出すような野蛮な力も秘められている。僕はそのように考えています。

佐藤 その通りだと思います。ただ、その時にどうしても重要になるのは、どこまで実証性と客観性を重視するかということだと思うんです。

 最初から客観性と実証性をぶん投げて、「南京事件で日本軍は中国人を一人も殺していない。どうしてかと言えば、それはそうなっているからだ」と。このような念力主義(主観的願望によって客観情勢を変化させることができるとする考え方)には問題があります。ここまでは客観性で説明できるんだけれども、ここから先は客観性では説明できない外側の話だと、このような議論ができるかどうかが重要になります。

ポストモダンが反知性主義をもたらした

山崎 僕は今の日本に無知蒙昧型の反知性主義が蔓延しているのは何故か、その原点はどこにあるのかと考えた時、浅田彰が『構造と力』を書き、日本でポストモダン思想が大ブームになったことが大きかったと考えています。それまでの文学者や哲学者は、「実存」や「実在」といった思想の根本にあるものを掘り返していたけれども、ポストモダンによってそれらが忘れ去られてしまった。「大きな物語」を語ることが「ダサい」ということになり、学問や思想の堕落が始まった。

 佐藤さんは日本でポストモダンが吹き荒れた頃、ちょうど日本にいなかったそうですね。ゴマをするわけじゃないけど、佐藤さんの本が今でも売れ続けているのは、ポストモダンに毒されていないからだと思います。

佐藤 要するに、私の発想や道具立ては古いんです。未だに存在論であるとか実存であるとか、時代遅れになった事柄に関心があるわけです。

山崎 いや、実はそれこそが大事だったんだけれども、日本の学者や文化人、知識人たちはそれらを完全に置き忘れてしまいました。

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