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082_Bungle 「Down to Earth」

早朝の閑静な住宅街、筋肉質でしなやかなサバンナの草食動物のようなランニングウェアを着た男女二人のランナーが、下りの坂道をトムソンガゼルのごとく駆けていく。

都内は交通網が発達している。私は車を持っていないので、通勤含めて主な足は電車だった。電車に乗っていると、そこまでは気づかないのだが、東京、特に都心の23区内は高低差のある場所が多く、それにあわせ必然的に坂道も多くなる。

史跡として、○○坂など、名前の付いた坂道などは都内だけでも700ほどあるそうだ。そういった坂だけでもなく、○谷とか、○台など、都内の特に高台にある地域などにもそういった名称が残っている。そんな名前しか付いていないのは、おそらく地名の由来としてそれくらいしか特徴がなかったのだろう。京の奥ゆかしい平安の歌人が残した物語などは少ない。私が今働いている霞ヶ関の名の由来も、低地で湿気が溜まりやすく、年中あたりに霞がかかっていたからではないかといわれている。

私が生まれ育った地元は、真っ平らな平野部でどこまでも田舎の田園風景の広がるところだ。こんな坂道がゴロゴロとある、東京の地形に最初は面食らった。こんなに多くの建物が屹立している大都会なのに、斜めになっている傾斜の地形に爪痕でも立てるように、無理やりビルが乱立している場所も多い。こんな地形に慣れていない私はそれがとても興味深く、坂道を歩くのは楽しいとさえ思う。しかし、もちろんそれが不利に働く場合もある。パワフルに勾配を上がっていける公共交通機関の移動ではなく、特にこうやって自分の足で走らなければいけない場合においては。

このままのペースで、流すようにこの坂道を下りきったら、少しペースをあげて、河川敷の直線で彼を置き去りに走り去ってやろう。よし、いける。はっはっ、と坂道の終わりに向けて、段々と呼吸の感覚が早くなる。私たちの体は、しなやかなひとつの機械的な回転を繰り返す運動機関のようになっている。繰り出す両足の連続運動によってピストン発電されたように、私の中にふつふつと静かな闘志がみなぎってくるを感じる。

彼に勝ちたい。走って引き離して、彼を打ち負かしたい。私は走りながら、ランニングキャップの角度を少し深めに被り直す。風を切ると、並木通り沿いの梅雨時のあの独特の草木の匂いなどが体にまとわりつくようだ。それを振り払って、細く筋肉質の足で走っているという、自分の動物的な感覚。実家で飼っていたおとなしい室内犬を近くの大きな河川敷の草むらに連れていくと、室内にいた時とは見違えるように走り回って、野生の獣の本性を全身で表現している時と似ている。それはただ「生きている」、という感覚に近い。私は今、生の実感を得ている、こうやって走ることによって。

段々とスピードが上がることによって、雨後に葉っぱにきらめく水滴のように、私の汗が風で飛び散っていく。並走している彼に私の汗がかかっているかもしれないが、今は気にしない。彼の汗が私にかかろうと、もちろん私もまったく意に介すことはないだろう。むしろ彼の飛び散った体液を浴びることを好ましいとさえ感じている。不思議だ。私って、こんなに人と切磋琢磨して競い合うことが好きなんだったっけ。私は中学高校は茶道部だったから、競技で相手に勝ってやろうという感覚はあまりないはず。

いや、違うな、これはあれだ、部活ではなくて、もっと原初的な小学校の時のかけっこの時と同じ感覚だ。あの運動場のトラックのコーナーを曲がり切ったら、前を走っているあの女の子を絶対抜かしてやる。なんか、自慢話が鼻について気に入らなかった女の子を、かけっこで抜いたやりたい。なんて子供じみた感情だろう。大人になってしまってから、子供の時の「絶対、○○してやる」っていうような気持ちなんて久しく忘れていた。

所詮、大人のやっていることなんて、妥協とネマワシの産物でしかないから。でも最近も、ある大人から「絶対、○○してやる」という力強いフレーズを聞いた。あいにくと、それは「絶対、訴えてやる」といったものだったけど(いつまでたっても、同年次の同期と比べて昇進しないことに不満を持った40代の技術職の男性職員Kが、面談の時に私と上司に言い放った言葉だ。)こんな風に走っている間にも、取り止めのない断片的な思考が浮かんでは消えていく。脳のメモリをこんな風に無駄遣いしている場合じゃない。今は勝負に集中しなきゃ。

勢い坂道を下り切った。交差点の隣を左に曲がると、川沿いの直線。ここだ。ペースを上げて、私は彼を引き離しにかかる。彼とは私は直接的な知り合いではない。名前も何だっけ、確か前に聞いたような気がしたけど、秋山さんだったか。今、全エネルギーはこの脚と腕の振り、心肺機能にすべて注がれているから、脳に酸素がうまく行き渡っていなので、思考と記憶が曖昧だ。年はおそらく30代前後だと思う。

昨年の9月から部署替えになり、時間のできた私は毎朝こうやってランニングをはじめてもう半年になるが、私が走り始めたそのずっと前から、この高低差の多い住宅地を抜けて最後は川沿いの直線のコースを走っているのが、この男性だ。いつも黒いランニングキャップとスポーツ用サングラスであまり顔の判別はつかないが、たぶん相当にハンサムな面構えなのだろう。大柄の体をノースリーブのシャツとスパッツなどスポーツウェアも上下を黒系でまとめていて、シューズの白が眩しくて、どことなく都会的でなにより空気感がこなれている。しかし、どことなく肉食動物の香りがする。そしてその肉を喰らっていくような彼の肉感的なランニングフォームに無性に惹きつけられる時がある。

このまま、走りされば。いける、今度こそ。過剰に分泌されるアドレナリンによって、今はあまり使い所のない思考力と判断力を置いてけぼりに、私の脳はすでに勝利の余韻に浸りそうだった。そう、彼を引き離した、と思っていたのに、しかし、彼はいつの間にか、私と再び肩を並べる場所までスピードを上げている。ああ、まただ、この展開、前もあった。結局、彼は私を大幅に引き離して、そのまま河川敷に設置されている水位観測所の向こうへと走り去っていく。

ちくしょう!私は帽子とサングラスの下は、走りながら憤怒の表情でそう叫び出したかった。そこから、200mほど走ったきり、力尽きたように足を止めて、河川敷に目を向けた私の心臓はもうはち切れんばかりに暴れ出して、そして全身に帯びた熱は朝の冷涼な空気によって、急激に冷やされていく。だが、今の私の全身から立ち上る湯気も相まって、まるで格闘漫画のようなオーラが周囲から出ているだろう。

そうだ、絶対、いつか彼はぶっちぎってやる。そして、彼を散々に打ち負かしたあと、得意満面の表情で思いっきり彼と存分に交わりたい。シャワーも浴びず、獣のように、流した汗も体液もそのままで。その瞬間を脳内に思い浮かべると、私の魂と体は疼き続ける。


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