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046_Tommy Guerrero 「Soul Food Taqueria」

「なるほど、なるほどね」
僕が1人で本を読みながら頷いていると妻が反応した。
「また、なんか本読んでいるの?」
「いや、この本すごい良いこと書いてあるんだよね。ほら、これ」
スマホをいじっている妻のほうに、僕が向き直る。妻が、はあ、またはじまったという顔をする。

「この本にはこう書いてあるんだ。自分が人生で一番大事にしてそうなことを、一番自分に親しい人に聞いてみるといいって。それが自分では決して気付かなかった、その人の本当の価値観を見つけ出す鍵になるんだって。そっかー、なるほどね」
「ほーん」
あ、僕は「あ、全然興味ないなコイツ」という向きを妻に投げかけた。まあいい、じゃあとりあえず僕の場合がどうかを、早速妻に聞いてみよう。一番、親しい人であることは間違いない。

「うーんそうね、あなたはなんでもいつも難しく考えがちなのよね。でもそういうのが、自分で好きなんだと思う」
「わざわざ自分で難しく考えるのが好きだってこと?へー、そうかなあ」
「そうよお、それがあなたが自分で気づいていない人生の本当の価値観ってことね。そんな難しく考える必要あるの?ってこと、あなた、よくあるから」
そうなんだろうか。全然そうは思わないのだが。僕はいつもそんな風に、なんでも難しくなんて考えているのだろうか。僕は自分のことを合理主義者だと思っているのだが、まわり道が好きだということか。うむ、こういってまたこうやって考えはじめる自分を客観的に眺めれば、なるほど。皆目心当たりがない、とも言えない。

「JOYみたいに、食べて寝て、たまにぼーっとして遊んで、また食べて寝てで、ちょうどいいのよ。大体ね、犬も人間も似たようなもんなんだし。はい、行ってきて」愛犬であるジャックラッセルテリアのJOYのリードとお散歩セットを渡されて、僕は有無を言わさぬ雰囲気を感じとる。

犬は散歩が大変だという人も多いだろうが、それは妻のような出不精の人間にだけ当てはまること。犬の散歩は僕にとって必ずしも苦痛な作業ではない。僕は考えながら歩くのが、好きだからだ。しかし、JOYを連れながらいつもの川沿いの散歩道を歩くに連れて、妻の言わんとすることも段々と自分の腑に落ちてきている。

妻が僕のことをなんもわかっちゃいない、だなんてことは口が裂けても言えない。妻はメーカーに勤務しているが、同期トップで管理職に上り詰めていて、自営業の自分より稼ぎもいい。妻からの自分への評価が世間からの評価とも合致しないとも言えないのはわかっていた。思春期で親に反抗する高校生じゃないんだから、一番身近な他人の言うことに従うのはもっともだ。ご助言痛み入るということは、こういうことなんだろう。

そういえば、反抗期で思い出したが、妻が以前こんなことも言っていた。
「あなたの実家の自分の部屋に、英語で、Don't worry about me 俺に構うなって書いてあってさ、私笑っちゃったわ。おかしくて、まったくあなたらしいって思って。ホント昔からそんな子供だったんだろうなって思った」
僕は自分の部屋にそんな落書きをしたことさえ忘れていたというのに、一体それのどこが、僕らしいっていうのか。

自分というパズルを構成するピースは、自分の手の中にすべてあると思っていたのに、実は台所横のテーブルをどかしたら、下に落ちていたのを見つけた、そんな感覚だ。もうすでに、35年生きてきたが、未だに自分というものがわからないもんだ。ふとそんな気持ちに、襲われるときがよくある。昔の書物には、やはり男子たるもの40歳には一角の視点を確立しなければいけないと書いてあったが、果たして自分はどうか。

新卒で入った市役所の仕事はあまりにも退屈で自分がそこにいる意義を見出せなかった。公務員の安定した身分を捨てて、書き物の仕事がしたいと、今では斜陽と呼ばれる出版業界に飛び込んだのが、25歳のとき。そこから、またフリーランスのライターとして独立して3年、なんとかいろんなコネをフル活用して、これまでなんとか食ってきた。

妻とは小学校のときに一緒だったので、かれこれ25年来の付き合いか、まあなかなか含蓄がある評価なんだということだろうか。(妻とは社会人になったあと、なん10年かぶりの小学校の同窓会で再会して、その時も小学校の時から、全然変わっていないと言われた。)これまで自分を客観視しなければいけないだとか、物事を俯瞰して見る視点が必要だなどと、自分なりの方法で努力してみたこともあるけれど、そんなことは土台不可能なんだということも、この年でようやくわかってきた。

自分はなにを難しく考えようとしているのだろうか?そうだ、シンプルに単純に、ありのままに物事を見つめてはどうか。犬は犬だ、アンパンはアンパンだ、妻は妻。それ以上でもそれ以下でもない。そこに、犬を犬たらしめている、何かしらの意味や背景を僕が求めていると?そうだ、それならば、そんなこと考えても意味はないのだと、自分に言って聞かせるべきか?

いろんなものを書いてきて、大衆とは違う視点で世の中を切り取ってきたと思ってきた。自分がこれだと思って自負してきた独自の視点というものは、ただ、犬は犬であること、アンパンはアンパンでしかないというのに。僕はわざわざそこに、なぜ犬は犬なのか、そもそも犬は生来の生物の性として進むべき犬の道というものについてああだこうだと、どうでもいい講釈を垂れているだけなのではないか。それらすべて、妻が言うところによる、「男ってめんどくさい生き物よね」で済んでしまいそうなことだ。

結局、答えなどは出ないまま、いつの間にか、散歩コースを終えて、JOYを連れて家の前まで帰ってきてしまっていた。自分としてはまだまだ歩きながら、思索にふけっていたかったが、JOYはチョコンと座り切り、明らかに散歩はもういい、という顔をしている。

やれやれ、今晩のご飯はなんだろうな、JOY。カレーかな。僕は妻から「ご飯なにがいい?」と聞かれた時には、いつも「カレーがいい」と答えることにしている。「なんでもいい」は絶対に妻の前では禁句だ。妻を含む世の奥さま一般にとっては、晩飯の献立ほどシビアな問題はないらしく、「なんでもいい」はそういった問題に対して至極無頓着な男への嫌悪感を一気に増長させるものとなるらしい。僕にはそれが理解できない。

なぜならば、晩飯の献立ほど、僕にとって考えることがめんどくさい、考えても意味のないものはこの世にはないからだ。腹が減ってりゃなんでもうまい、それ以上でもそれ以下でもない。


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