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039_Serph「vent」

南へ向かう列車の窓から、ふわっと数羽の白い鳩が、大空に舞い上がっていくのを見た。空は鮮やかな真っ青、どこまでも晴れて、雄大な岩手山をバックに白と青のコントラストが僕の目にもくっきり鮮やかだ。今の僕の心と同様、曇りのない。

楽しかったり、楽しくなかったり、不安だったり、安心していたり。その時の自分の気持ちと言うものには常に正直でいるべきなんだろう。自分があの場所であれ以上できることはなかった。どうしても、このままあの居心地の良い店にとどまるべきではなかった。

店長の出す美味しいコーヒー、美しい古木から切り出したテーブル、そして耳触りの良いレコードの古い音の質感。全てが自分に馴染んでいた。全てが自分に優しくて、これから移ろいゆく時の流れなど、どうでもいいのではないかと思わせるものがあった。

いつまでもあの場所にとどまっておけば、常に僕の心に安寧があって、そして何より、僕の心に潜むこの「獣」もずっと飼い慣らしておくことができたはずだろう。この激しいマグマのようなものが果たして自分の人生の中でどのような影響を及ぼすのか、はかりかねていた部分があった。

別に、このままずっと眠らせておいてもいいんじゃないか。この岩手の山々の降る雪は全てを真っ白にする。山だろうが、川だろうが、畑だろうが、街だろうが全て真っ白になってしまう。雪下野菜のように、どんな色をしてようが、雪の下ではどうせわかりはしない。いいんだ、ずっと雪の下にあればいい。

この岩手の田舎は、純朴な僕にとってかけがえのない故郷だ。穏やかな緑と僕を取り囲む家族や友人など優しい人たち。そして、店長のいるあの喫茶店。僕をふわりと包み込んで、いつまでもここにいなさいと僕の耳に囁きかける。森の中のお菓子の家の住民が迷い込んだ幼子に言うように。そうだ、外の森は危ないよ。

高校卒業後、僕は通い詰めていたあの喫茶店で働くことができたことにすっかり満足していた。あの場所は、ずっとずっと僕のお気に入りなんだ。顧問の先生とソリが合わず吹奏楽の部活をサボった時も、初めてできた彼女から突然別れを切り出されてカウンターで一人泣いてた時も、この店はそんな僕をそっと包み込むように、待っていてくれた。そう、何もかもが特別な場所。全てを許してくれる。ずっとここで生きていけば良い、ずっとここにいればいいんだ。そう単純化された思考でいてよかった。

ただし、世間から隔絶された離れ小島のようだったこの店と自分を取り巻く状況は、いつの間にか刻一刻と変わっていく。不況の煽りを受けて、同級生の一馬の家の工場も家業を畳まざるを得ないことになったが、彼はまた違う商売を考えなければいけないとこぼした。飯坂は、高校卒業して2年、20歳の誕生日に高校から付き合っていた彼女と籍を入れた。「責任取るちゅーか、区切りみたいなもんだで」彼の顔は少し誇らしげだ。商店街のシャッターを閉じた店は数年前よりも明らかに増えた。

変わらないものは、ずっとそのまま変わらないままでいてくれないのか。今、一番自分が無くしたくないもの、変わってほしくないものは家族だ。幸い両親はいつまでも元気で、そして優しい。執筆を続ける父はこう言う。

「あなたは自分の思うままに生きなさい。あなたがどんな生き方でも許容するし、それができるようになるために、私たちがいるんだから。本当にこれだって思えるものが見つかるまで、いろんなことを試したり、それで失敗することはあっても、それはとてもいいことなんだよ。それじゃなかったんだ、ってひとつずつわかっていきなさい。死なない限りだったら、いくらでも取り返しはつく。私も若い頃は東京にずっといて、そこでいろんな失敗をしたけど、こうしてお母さんと巡り合って、岩手に移り住んで、お前が生まれてきてくれた。でもそれはいろんなことを経験して、成功したり失敗したからこそ、得られたものなんだよ」

「あの向かいの洋食店、すごい流行っていたのに、潰れちゃいましたね」
ある時、お客さんのいない店内で、僕がさもなんでもないことのように、店長に話しかけると、彼は皿を拭きながら、独り言のようにこうつぶやく。
「いつまでも変わらないものはない。変化してこなかった生き物はもう今はいない。結局、強い生き物だけが生き延びるんじゃないんだ。状況に応じて、変わっていくのことのできた者だけが生き延びることができるんだよ」

僕はどっちなんだ。強い者か、状況の変化を受け入れて変わっていく者か、どちらなんだ。そうだな、どちらでもない気がする。今日も明日もずっと、この店で出るまかないのパスタと店長の入れるコーヒーを飲んで、この古く木の肌触りの良いテーブルを指でなぞりながら、窓から映るこの岩手の雪景色を眺めてさえいればいいとだけ思っている。

家のお風呂に浸かりながら、ふあっと息を吐いて考え込む。昼間、高校の時の元カノから来たメールの内容が、今になってどうしても気になって仕方ない。

「やっと自分のしたいこと見つけた。私、こういう服をずっと作りたかった」添付されていた写真をみると、鮮やかな水色と緑が映えるワンピースを抱き抱えている彼女が映っていた。彼女はいつも本当にオシャレだった。自分で家で作ったという、ハギレをつなぎ合わせたブラウスをデートに着てきた時はびっくりする反面、納得するものがあった。この娘の作る服は、この岩手の純朴な自然の風景とはどう見ても調和しない。「私、東京に行って、服を作りたいの」それが彼女の口癖だった。

何がしたいんだろう、何ができるんだろう。この僕に。

ずっとあの喫茶店の安寧さにしがみついてきた僕は、あの店で過ごすこと以外の生き方をあえて見ないようにしてきたんじゃないか、と気づいた。ここにいればずっと安心だから、と。小鳥はずっと巣の中に生きていくことはできない。いつかは巣立ちをして、大空に羽ばたいていかなきゃいけない。小さい巣の中に、大きくなっていく自分の体を留めておくことができないからだ。巣から出なければいけない。

両親も、そして店長も、そう自分の思いを伝えた時に、愛おしい者を慈しむ目で僕を見ながら、同じことを僕に言った。「君がそう言うのをずっと待っていたんだよ。ただ、辛くなったらいつでも帰ってきなさい。ここが君の帰る場所なんだから。どこかに旅立たなければいけない人であっても、帰りを待つ家族や家とか、いつか戻ってくる場所がない人というのは寂しい。帰ってくる場所があるからこそ、人は自由に旅立てる」

僕は旅立つ。そして必ず戻ってくるだろう、この場所に。あの喫茶店に。そこで飲むコーヒーの味を今から噛みしめている。

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