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訪問記「玉藻稲荷神社」と那須庄

 栃木県は大田原市蜂巣。周囲を田畑や野山に囲まれた鄙びた風景の一角に、ひっそりと佇むお社。
 今回私が訪れたのは「玉藻稲荷神社」。社名から察せられる通り、この神社では平安時代末期に宮中を騒がせた妖狐「玉藻前」を祀っているという。

周辺地図
看板
入り口近くの案内板
近くには陶器製の狐の置物が…
創建800年記念

 栃木県北には那須岳の裾野から那須野が原と呼ばれる平地が広がっていて、鎌倉時代には源頼朝が巻狩を行った場所としても知られています。自然豊かで風光明媚な当地ですが、「玉藻前」にとっても縁深い土地となっています。
 那須岳の麓にある「殺生石」。これは討伐された「玉藻前」が石化したものと伝わりますが、何を隠そう、「玉藻前」が討伐されたとされる場所こそこの「玉藻稲荷神社」なのです。

いざ境内へ
参道を進む(ブレが酷い)
源実朝が詠んだ歌が紹介されている
源実朝の歌碑
松尾芭蕉の歌碑
境内の案内板
「鏡が池」
令和5年3月現在、池の水は枯れてしまっている
ミズバショウの群生(3月撮影)

 実は筆者は十年前にも同地を訪れたことがあります、その時はまだ池の水はあった気がします(雨上がりで水が溜まっていただけかも?)。

 それはさておき、ここ「玉藻稲荷神社」の鳥居にはとある銘文が刻まれています。

石の鳥居
寛政12年4月建立
石の鳥居正面部分

 銘文は鳥居の柱を囲むように刻まれているものの、ところどころ風化が進み読みづらくなっていますね。
 そこで、境内に置かれていた資料(令和4年作成!)を参照しながら碑文を抜粋しましょう。

本殿から鳥居方面へ。
左手の三角屋根の台に資料が置かれている

黒羽蜂巣篠原稲荷神社鳥居刻文

夫當舎玉藻大明神者三國傳来之野干也
往昔人皇七十六代近衛院之御宇化而成美女
名謂玉藻前也以艶媚仕帝寵彌深矣帝會豫
醫藥無驗召阿部泰成於殿内祷之
於是玉藻前化而爲白狐走入于那須篠原
時久壽二年三浦介平義繼上総介平廣常
勅命而驅之終埋于此地
其後建久四年源頼朝公爲遊獵至于那須野
尋故以建祀崇靈號謂玉藻稲荷大明神云
(中略)
玉藻狐身從天竺臻靈魂止此爲稲荷神

別當即成山即成就院光明驗寺十一世
權律師法橋源珍謹誌
(後略)

玉藻稲荷神社境内所在資料

 資料を作成されたのは地元の有志の方らしく、資料末尾にもお名前が記されていたものの、こういう資料の著作権とかプライバシーとかってどういう関係なのか分からないのでとりあえずここでは触れずにおきます……(資料の内容が気になる方は是非当地に足を運んでみてください)。
 さて、まず私が気になるのはここ。

ちょっと見づらいかも

 久寿2年、三浦介平義継と上総介平広常が勅命を受けて白狐に化けた玉藻前を狩り、この地(玉藻稲荷神社)に埋めた、というもの。
 三浦義継は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で山本耕史氏が怪演されていた三浦平六義村の曽祖父にあたる人物で、三浦庄を成立させた人物でもあります。
 また、上総介平広常も、同じく「鎌倉殿の13人」において佐藤浩市氏が演じられたことで知られていて、その最期には私も大変ショックを受けた身でもありまして……。

 もちろん、このお二方をピックしたのは何も個人的な趣向だけではなく、タイトルにもある通り「那須庄」との関連を見ていく上で、この2つの豪族が碑文に登場する意味を探っていこう、と思った次第なのであります。

 伝承とは、往々にして語り継ぐ側の物語にある程度の指向性が含まれているものです。この場合は、玉藻前の実在性に疑問を挟みながら、もし現実に玉藻前に比定する者がいるとするならば、それは果たして誰なのか、玉藻前を討伐したとされる三浦氏、上総氏はその場合どのような政治的立場を有していたのかを複合的に考察していきたい、と思ったのでありました。

 また、平然と玉藻稲荷神社だの玉藻前が祀られてるだの言っておりますが、ちょっと待った。

──狐ってお稲荷様の御使いですよね?

 そう、普段お稲荷様といえば狐を思い浮かべますけど、狐ってお稲荷様の御使い、眷属なだけであって、お稲荷様はまた別のお姿なんですよね。
 狐=玉藻前ということで分かりやすい構図かと思えば、ちょっとした引っ掛け(京都の伏見稲荷には白狐社という霊狐を祀る例外もあるが……)。
 さらにいえば、玉藻前を化けた狐とみなしたのっていつからになるんでしょう?

 wikiによれば玉藻前を狐とみなすのは14世紀、室町時代くらいから記述があるとのことなので、恐らくは「いたずら好きで人を化かして騙す悪狐」といったイメージが重ねられてるものだと思われます。
 ちなみに後世玉藻前と九尾の狐を同一視する伝記や物語が江戸時代を境に増えていきますが、同じように中国の妲己とも繋がりがあるとしたのも江戸時代頃の創作のようです(なので鳥居に刻まれている碑文の内容も、おおよそ同時期の伝承を加味したものと思われる)。

 以上のことから、まずもって玉藻前を資料及び史料の記述をもって妖狐と見なすのは歴史学的に無理があろうと(いきなりロマンを打ち消してしまってごめんなさい)。
 そしてまた一つ疑問。ここ玉藻稲荷神社は、元々どのような場所だったのでしょうか。玉藻前が祀られる以前は稲荷神社だったのか、それともまた別の意味合いを持つ場所だったのか等々。
 さらに、鳥居の碑文をみると、文を刻んだのはお寺の住職。文中には玉藻大明神。……これは謎が深まりましたね。

 まあお稲荷様も、昔は神仏習合の影響で荼枳尼天と混同されていたようなので、仏教勢力の介助もあながち変な話ではないのでしょうが。調べることが多そうです。

 ということで1つまとめると、玉藻前とは歴史上の実在の人物の誰かを妖狐になぞらえた姿のこと、というのが現時点での当方の見解です。

では、その人物とは誰なのか。

狐塚へ至る道、左手には鏡が池
狐塚祠。お供えの狐の置物がかわいい
(令和5年3月)

 やはり私は当時権勢を誇った美福門院のことではないかと思います(ありきたりですみません)。

 ここで去年つぶやいた私のツイートをはずかしげもなく引用(ここまでは何ら史料の裏付けがないのであくまでも感想文でしかない)

 はたして、玉藻前とは何者だったのか。そして、玉藻前を巡る政治劇は誰によって演じられ、結果どのような情勢をもたらしたのか。地元の図書館や古書店などを訪ねて、資料収集にあたった方がよさそうですね。

本殿
正面向かって左側
同じく右側
他の参拝者の方のお供え物?

 10年前に訪れた際にはこんなに整備されてなかった(失礼)気がするので、ちょっと活気を感じて嬉しい

改建記念碑(昭和29年建之)

 ということで、第1回訪問記「玉藻稲荷神社」でした。 今回は以前から記事の趣旨と関係なく個人的に少しずつ調べていた場所でもあったので、写真よりも文章の方が多くなってしまった印象ですが、今後も〝訪問記〟では写真を中心に、思ったことや周辺地勢、プチ考察などを交えてトラベルチックに書いていこうかと思っています。

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 それでは、スキマニウムでした~。

…………ん?


なに、これ……


あと


何か混ざってね?


  終  
制作・著作                                
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