水まわりの不思議

プロの作家の方々というのは、いつ、どこで、どのように創作をなさっているのであろうか。
自分はまったくの趣味で文章を書いているだけだが、所謂二次創作を書いている時は、と言うより、そのための言葉が浮かぶ瞬間と言うのがあって、自分の場合、それはたいてい水回りで何かをしている時である。

皿洗いの最中、寝る前に洗面台の前で歯みがきをしている時。中でも一番多いのは、風呂場にいる時である。
食事の支度や後片づけ、洗濯、掃除、そもそも家事というものは、ほぼ水回りで行う作業だし、そうでなくても洗面、入浴、排泄等々、生活することは水を使うことだととつくづく感じる。結果、物理的に水回りで過ごす時間というのはかなり長いものだ。
普段の生活をしながら、全く別のことを考える時間がそれと重なるのも当然と言えば当然かもしれない。

にも関わらず、アルキメデスが風呂の中でユリイカと叫んだのには、自分の体を沈めた湯が溢れるのを見たから、だけではないと私は思っている。
自分で書いておきながらどうにもあとが続かず、お蔵入り決定、と思った文章の続きがするりと出て来るのは、たいてい湯に浸かっている時なのだ。

水といえば、滝に打たれて悟りが開けるのか、という点に関しては個人的にはどうかと思っているが、こちらはまったく非日常的な体験、肉体的な苦痛に耐えたり、生命の危険に晒すことで法悦を得る、ということがあるのであろうか。普通の人間にとっては、日常を生きることそのものがもはや苦行なのだが。

井戸端会議とはよく言ったもので、現代で言えば職場のトイレや洗面所、給湯室でのお喋りにあたるだろう。上司の悪口、うわさ話、恋の悩み、仕事の愚痴、等々。会議という場では何も進展がないのに、昼休みの立ち話から仕事のアイディアが出て各部署へつながる、という経験をしたこともある。

自分の義務というリミッターが外れて、素の自分自身、生活者へ戻るとき、水は何かを洗い流すだけでなく、その奥にあるものをさらけ出させるのだろうか。


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