多文化共生と日系ブラジル人
多文化社会というテーマで話をしていたことをまとめています。
多文化社会ということばは辞書で見かけないことばです。そこで、語源を調べていくと、「多文化主義」や「多文化共生」ということばに出会います。
それらはいずれも、先住民や外国人(移民)に関わる政策や理念を指しています。
日本の場合、先住民や外国人に関わる政策が広まったのはそれほど古いことではありません。とくに、外国人に関わる政策については、「多文化共生」ということばを用いて、日本各地の自治体で進められています。
「多文化共生」は、外国人(日本では移民ということばを使いません)が地域で生活するのに困らないよう政策を展開しています。
では、なぜ「多文化共生」が必要とされるのでしょう。当然ですが、日本で暮らす外国人が増加したからです。ちなみに、日本に暮らす外国人は、「在留外国人」といいます。
1.在留外国人の増加
2021年6月現在で、在留外国人数は、282万人となっています。この数は、前年末とくらべると、やや減少していますが、新型コロナウイルス感染症の流行以前と同程度となっています。
さて、1950年くらいから見ていくと、在留外国人数はかなり増加しているといえます。
在留外国人は、1950年の時点で、約52万人程度でした。その後、在留外国人数は微増していき、1985年には72万人を越えました。35年間で20万人程度の増加です。
それが、1990年急激に増加し始めるのは1990年以後でした。1990年になると、88万人と約16万人増加、そして1995年には100万人を超え、2005年には200万人を突破したのです。
在留外国人は、1995年から2005年のたった10年間に、100万人近くも増加したわけです。
この十年は日本社会に大きなインパクトを与えました。在留外国人、とくに南米出身の外国人が多くなったことで、地方自治体はさまざまな対応を迫られたのです。
南米出身の外国人は、1970年に891人、1985年に2435人とあまり、1990年に6万7308人、そして1995年には17万6440人と10年かで倍に増加し、さらに、2000年に254,394人、2008年には30万人を超えました。
私は、その結果が、2006年の「多文化共生」に関する報告書が出されることになったと思っています。そして、2006年以降、「多文化共生」は全国的課題として認知されるようになったのです。
そこで、今回はどんな形で「多文化共生」なる考えが広まることになったのか、在日ブラジル人を中心にみていきたいと思います。
2.バブル時代と労働者不足
少し確認したように、「多文化共生」につながる外国人の増加は1990年以降となりますが、その淵源は1980年だ以降の状況にあります。
1980年代後半、日本はバブルと呼ばれる好景気に沸いていました。私の上司だった女性は、当時大手商社に勤めていて、ボーナスごとに新車を乗り換えたと思い出話をしていました(なんてうらやましいことでしょう。この話を聞いた時の私は、母のおさがりの古いEKワゴンに乗っていました)。
また、大学生が高級外車を乗り回したり、高級レストランを楽しんだりしていたこともテレビドラマでよくみかけました。たとえば、アッシー君、メッシー君などのことばが流行していて、小学校高学年か中学生だった私もこの単語を当たり前に知っていました。
ほかにも、ある作家が、当時同級生から投資をしない者はばかだといわれたとエピソードを書いていたように思います。
随分ともうかっていた時代です。
そんなバブル時代の豊かさの中で、日本の労働環境は大きく変わろうとしていました。
バブル時代に突入した1980年代、日本国内では工業化が進展しました。それにともない、地方から都市へ人が流れてきました。
ところが、工業化と都市の発展の中のなかで、地方では労働者不足が深刻化していました。働き手がいないので、もうかっているけれど倒産する。いわゆる黒字倒産も相次いだといわれています。
1989年の流行語として「3K」がノミネートされたように、とくに工場や建設現場など、いわゆる単純労働における労働者不足はかなり深刻だったようです。
そんななか、外国人を労働者として雇いたいというながれが生じてきます。
3.入管法の改正と南米系日系人の増加
外国人、とくにブラジル人が労働者として大勢やってくることになったのは、バブルが終わる寸前でした。1989年に出入国管理および難民認定法が改正されたからです(施行は1990年からです)。
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