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先史時代のポルトガル(上)狩猟採集時代から新石器時代まで

00.はしがき

ここでは、ポルトガルの歴史についてお話しした際のメモ書きを公開しています。おおむね石器時代から青銅器時代を扱った部分です。なお、メモ書きは、アンソニー・ディズニー著『ポルトガルとポルトガル帝国の歴史』に基づいて作ってあります。関心のある方は、Anthony Disney, A History of Portugal and the Portuguese Empire(2009)をご覧ください。

 同じシリーズですので、以下も参照にしてください。

01.狩猟採集時代

現在ポルトガルと呼ばれている場所には、約50万年前から人類が存在したといわれています。 

 ポルトガルの最初の住民は、後期石器時代の狩猟採集民だったと考えられています。後期石器時代に類する石器がいくつもの場所で見つかっているからです。石器が見つかったのは、とくに中部の海岸地域でした。ちなみに、石器は当時西ヨーロッパで使用されていたものに共通する様式だったといわれます。

 数千年後、おおよそ10万年前、ポルトガルにもネアンデルタールが現われました。ネアンデルタール人は小集団で狩りを行ったとされます。ネアンデルタール人の遺物は、今もポルトガルのさまざまな場所で発見されています。たとえば、ノヴァ・ダ・コルンベイラ洞穴(ボンバラル)で見つかったネアンデルタール人の歯は、ポルトガルで発見された最も古いヒトの化石です。

博物館での展示
Neanderthal-Museum, Mettmann - Pressebilder Neanderthal Museum, Mettmann, https://www.neanderthal.de/de/urmenschen.html Lebend-Rekonstruktion im Neanderthal-Museum (Erkrath, Mettmann) eines Homo sapiens neanderthalensis „Mr. N“ (Ausschnitt des Originalfotos)

 そして、約3万5000年前になってようやくホモ・サピエンス・サピエンスがイベリア半島西部にやってきて、すぐに現在のポルトガルの国土すべてに広がっていきました。その過程で、ホモサピエンスは、完全にネアンデルタール人を圧倒しました。 

 しかしながら、ネアンデルタール人が絶滅した経緯や原因はまだ十分にわかっていませんようです。ホモサピエンスによって絶滅に追いやられた可能性すらあると考えられています。
 
 そんなかで、ポルトガルで発見された一つの骨がある仮説を生み出しました。1998年にレイリアの近くで発見された幼児の骸骨を分析した学者が、ネアンデルタール人と現生人類の混血である可能性を指摘したからです。その分析が正しいとすれば、ネアンデルタール人が全滅するまでの間、二つの種はおそらく数千年の間は共存していたということになります。

レイリア(GoogleMap)

 いずれにしても、その後ネアンデルタール人は絶滅します。そしてホモサピエンスの時代が訪れるのが1万8000年前です。当時、ヨーロッパ大陸の北部は巨大な氷河に覆われていました。フランスとスペインですら、ツンドラ地帯となっていました。
 
 一方、その当時のポルトガルはすべてがツンドラにならず、テージョ川流域や海岸地域は、気候的に温暖であって、なおも混交林が残っていました。そのため、このときポルトガルにいた狩猟採集民の集団は、寒い場所ではシャモワ(スイスれいよう)や山羊を狩り、温暖な場所ではシカや馬、オーロックス(牛の一種。家畜牛の先祖)、イノシシ、ウサギを狩っていました。

 もっともポルトガルにいた人類はわずかで、現在の中心地に当たるエストレマドゥーラでも500人程度が生活していた程度だったと考えらえています。

02.中石器時代

最終氷期最盛期ののち、ポルトガルの気候はすみやかに温暖化し、1万1000年前にはすでにほとんど今日のようになりました。この頃から旧石器は次第に使用されなくなり、中石器と呼ばれる道具が使用されるようになっていきました。中世期時代の到来です。

 中石器時代の人類もまた狩猟採集民でした。しかし、氷河期後の温暖な気候のなかで、人類はさまざまな食糧をえることができるようになりました。中石器時代の人々はフルーツやナッツ、種子などに加えて、魚介類を食するようになりました。ただし、狩猟採集といっても、中石器時代には大規模な狩り等は行われていませんでした。

 こうした生活の変化の中で、やがて複雑な石器を製作する技術が必要とされるようになりました。打製石器のような原始的な道具のなかに、様々な種類の細石器が加わってきたのです。細石器は、(ナイフなど)の柄に取り付けられたり、釣りや投げ槍、罠などで返しに使われたりしました。

細石器
Kakidai - 投稿者自身による著作物 細石刃。前16000年。新潟発掘。東京国立博物館。 CC 表示-継承 3.0 File:Microlith -16,000 Japan.JPG 作成: 2012年6月10日

 また、中石器時代になると、ポルトガルでも定住する者が生まれてきました。定住地は、浜辺や入り江、川岸など、水辺に近い場所が選ばれたようです。その痕跡として、貝塚の存在があります。人々はたんにひとところに住むだけでなく、まとまって生活するようになりました。当時、定住地は季節ごとに移動したのですが、移動先は同じ場所を選んでいました。つまり、移動の範囲が限られるようになったわけです。

 なお、ポルトガルの中石器時代の遺跡は、エストレマドゥーラ、アレンテージョ、そしてアルガルヴェの海岸、さらにはテージョ川、サド川、ミラ川などの流域にあります。遺跡は、8000年前にさかのぼるとされます。ただし、中石器時代の居住地は、これらの遺跡のあった時代より前から存在していたと考えられています。多くの遺跡が長く海面上昇によって沈んだというのがその根拠となっています。

 ポルトガルで中石器時代は6000年以上続きました。これは他の地域に比べ長かったとされます。歴史学者のディズニーは、中石器時代の生活水準が、ポルトガルにおける環境の変化に対応できるだけの水準にあったと述べています。かれは、「変化に対してのインセンティブが低かった」と指摘しています。

03.新石器時代

紀元前6000年までに農業と牧畜が西ヨーロッパの多くの場所で広がりました。森や緑地を切り開いて、適当な場所に集落が形成されました。磨製石器は、柄がついた斧と手斧などとして、普通に使われるようになりました。土器もひろくつかわれました。

磨製石器
CC 表示-継承 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=600534

  新石器時代の到来です。

 ポルトガルにおける新石器時代は、中部と南部の沿岸からはじまりました。そして、ゆっくりと内陸にひろがり、最終的に北部へ至りました。当然、移行期には中石器時代の文化をもつ集団と新石器時代の文化を持つ集団が重なって存在したわけですが、紀元前4000年までには後者に統合されましたといいます。

 そして、新石器時代は2000年ほど続くことになります。新石器時代のポルトガルでは、穀物や野菜の栽培と牛、羊、豚の畜産が主要な生産手段となりました。同時に、人口は増加し、定住が一般的になりました。新石器時代初期、定住地はしばしば開けた土地にあり、防衛が考えられていませんでしたが、時代が下ると、とくに南部では守りやすい山地が選ばれるのが普通になりました。

 また、新石器時代になると、文化的な活動が目に見るようになってきました。

 多くの集団が、「巨石(有史以前の遺跡)」として知られるような記念碑を建造するようになったのです。巨石とは、イギリスのストーンヘンジに代表されるような、巨大な岩石を重ねたり、並べたりしてつくられた、建造物です。巨石は、神殿や祝祭のための場所だったという説などもありますが、まだまだ謎が多いとされます。

アルメンドレスのクロムレック
オリジナルのアップロード者はフランス語版ウィキペディアのBruno MARCさん - fr.wikipedia からコモンズに移動されました。, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2221098による

 ポルトガルは比較的多くの巨石が残されていることで知られます。ポルトガルの巨石文化の遺跡は、百程度あるといわれます。

 巨石文化の遺跡は、ポルトガル中に散在していますが、とくにアルト・アレンテージョや、ベイラ、トラス・オズ・モンテスに残っています。散在する遺跡は、様々な形と大きさとなっています。遺跡は、土と石の積んだもの、単独のメンヒル(立石)、クロムレックをなすメンヒル群、大きく作られたドルメン、笠石とパッセージグルーヴ(羨道墓)によって上に載せられた直立する石板で覆われているものなどで、ほとんどが花崗岩や結晶片岩でできています。

 このポルトガルにおける巨石文化の起源がどこかは長い議論があります。
 
 1960年代くらいから学者たちは、巨石文化はエーゲ人植民者によってイベリア半島にもたらされたと主張していました。しかし、現在ではこの説は受け入れられていません。年代測定によれば、ポルトガルとスペインの巨石の箱型墓が、エーゲ海のそれに先行していることがわかってきたからです。
 ただし、そうした主張は、巨石文化がイベリア半島から各地に広がったというような中心主義的な言説ではなく、ヨーロッパや地中海の複数の異なった地点で発展したという説が主流をなしています。

 ところで、巨石文化の存在は何を意味するのでしょうか。
 ディズニーは、三つの可能性を指摘します。
 
 ひとつは、土地の所有意識が高まりです。ディズニーは、新石器時代には、農業が広がって、人口も増加したことから、巨石を置いて境界を区切ったと考えているようです。また、彼は、ある土地が自分の先祖のものであるということを示すために、巨石を建てた可能性があるとも推測しています。

 もうひとつは、巨石文化の存在がエリート層の存在を示唆しているという見方です。巨石はかなり大きなものなので、その建造にはたいへんな数の労働者を必要としたと想像できます。しかも、たいへんな数の人々を組織的に仕事させるには、当然ある程度、権力が必要だったと考えられます。このことから、巨石群が残っているということはエリートによる支配と組織があったことを示すというのです。

 そして、最後に、巨石文化の存在が信仰の伝播を示すのだというもの。モンテモール・オ・ノヴォの聖地にある岩石には、雄牛の首が刻まれているといいます。それがまずは巨石文化と雄牛信仰が結びつきを示しており、さらには雄牛信仰の地中海世界で広がりに関連しているというのです。

読書案内

グレイアム・クラーク、1989年、『中石器時代 新石器文化の揺籃期』、雄山閣出版株式会社
カトリーヌ・ルブタン、1994年、『ヨーロッパの始まり 新石器時代と巨石文化』、創元社

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