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小説「ある日の“未来”」第5話

「デザイナーベビー」

リビングでは、ママがパソコンを操作しながら、ひとりで未来を待っていた。ママは今日も、リモートワークの日だった。

テーブルの上の料理は、半分冷めている。どうやら、ばあにゃはとっくに食べ終わって、また裏の畑に行ったようだ。

「全然下りてこないんだから。ばあにゃといっしょに先に食べちゃったわよ。それ温める?」

ママはパソコンから目を離さない。

「ううん、いいや」

「偉いわね、エネルギーの節約ね」

未来にはそんなつもりはなかったが、たしかに節電にはなると思った。

未来の家は、太陽光発電でエネルギー収支がゼロになるように設計されてはいたが、電気を節約すればするほど売電量が増えるので、日ごろから家族全員で節電を心掛けているのだった。

近年の政府の政策も、こうした各家庭でのエネルギーの節約を後押ししていた。一時期、太陽光発電の売電価格は低く抑えられていたが、気候変動が世界のエネルギー需給を一変させてからは、政府は買い取り価格を一気に10倍に引き上げたのだった。

その効果もあって、日本の再生可能エネルギーの割合は、去年、ようやく50パーセントを超えたが、それでも90パーセント近いヨーロッパの国々には遥かに及ばなかった。

地球温暖化が限界点を超えてしまい、異常気象が恒常化している今、未だに火力発電に依存している日本には、世界中から非難が集中していた。

政府は火力発電を減らすために、原子力発電を増やす計画だった。
しかし、ヨーロッパの戦争が長引くにつれて、各国はミサイル攻撃の対象となる原発に危機感を抱き、相次いで原発を廃止するようになった。日本もその動きには、同調せざるを得なかった。

こうして、再生可能エネルギーと原子力発電の二本立てで、二酸化炭素の排出量を減らそうと考えた政府のエネルギー政策は、完全に破綻してしまった。
そのため、再生可能エネルギーで廃止原発の発電量を補えるようになるまで、日本は火力発電に頼るしかなかったのだ。

なんでもっと早くから、太陽光発電にしなかったんだろう……。

未来は不思議でならなかった。

未来はぬるくなったポタージュスープをすすりながら、さっきから隣でパソコンのキーボードを忙しそうに叩いているママに、遠慮がちに話しかけた。

「ねえ、ママ。ぼく、もっと足が速くなりたいな」

「え、どうしたの? いきなり」

ママは手を止めて、未来の顔を見た。

「うーん、今度の登校日、みんなでサッカーやるんだけど、ぼく足が遅いでしょう。だから、いつも除け者にされるんだ」

「そうなんだ。それは悔しいわね」

事情を飲み込むと、ママはいかにも気の毒そうな顔をした。

「うん、だから、ママの得意なゲノム編集で、ぼくの足をもっと速くして欲しいんだ」

「いいわよ。どのくらい速く走りたい?」

「そうだな、中学生くらいにはなりたいな」

「そうなの?意外と控えめね」

「だって、急に足がものすごく速くなったら、みんな変だと思うでしょ」

「なるほどね。でも、残念ながら、そんな微妙な調節はできないのよ。今のゲノム編集のレベルでは、ひょっとしたら、オリンピック選手並みの速さになっちゃうかも」

「え、そうなの? なんで?」

「そうねえ、ちょっと難しいけど、ゲノム編集というのは、狙った遺伝子の一部を切り取って、そこに突然変異を起こすことで遺伝子を改良するの。そこまでは、わかるかな?」

「うーん、なんとなく」

「例えば、筋肉の発達を抑える遺伝子があると、その部分を切り取ってしまえば、筋肉がもっとついてくるだろうと考えるの」

「それならわかるよ」

「偉い!  それで、もしかしたらもっと足が速くなるかもしれないけど、どこまで速くなるかは、やってみないとわからないのよ」

「そうなんだ。でも、それでも、ぼくやってみたいな」

「じゃあ、やってみる?」

「うん!」

未来は目を輝かせた。

「冗談よ。そんなことできないわ」

「え、なんで。今、ママはできると言ったじゃない!」

いつも穏やかな未来にしては珍しく、あからさまに膨れっ面をしてみせた。

「ごめんね。ママも未来の足がもっと速くなって、サッカーの仲間に入れるといいとは思うわよ。でもね、もしも、未来の足が突然速くなったら、みんなはどう思うかしら」

「きっと驚くよ」

「そうよね。みんな驚いて、どうしたのって訊くわよね。そしたら、未来はなんて答えるの?」

「そうだな、正直に、ママに治してもらったって言うよ」

「あなたはほんとうに素直で、いい子ね。ママ、大好きよ」

そう言いながら、ママは未来をそっと抱き締めた。

未来はママから抱擁されるのが、うれしくてたまらない。

「でも、そしたらどうなると思う?」

「うーん?」

未来はしばらく考えてから、

「きっと、友だちも、もっと足が速くなりたいって言うだろうね」

「そうね、きっとそう言うでしょうね。そしたら、みんなも足を速くするために、ゲノム編集を受けるようになるわね」

「うん」

「そしたら、どうなると思う?」

「そうだな……?」

未来は懸命に考えていた。

「そうだなあ、みんながオリンピック選手みたいに足が速くなったら、ぼくがゲノム編集した意味がなくなっちゃうね」

「そのとおり!」

ママは未来の頭を撫でながら、未来にもわかるようにゆっくりと話した。

「もし、みんながゲノム編集を受けるようになったら、オリンピック選手どころか、もっと速く、馬やチーターのように走りたいと思う子も出てくるでしょうね。それに足だけ速くしても、心臓が追いつかなければ、途中で心臓が止まってしまうかもしれないわ。そしたら、今度は心臓を強くするように改良するでしょう。そうやってどんどん改良していったら、その子は、はたして人間と言えるのかしら」

未来の表情が変わった。

「なんだか、怖いね……」

2032年までに、生命科学は長足の進歩を遂げていた。

ママは去年から、政府の生命科学倫理委員会の委員長を務めている。そこでは、ゲノム編集技術をどこまで人間に応用すべきかについて、真剣な議論がなされていた。

人類は気候変動で激減した食料生産を回復させようと、ゲノム編集技術を使って様々な植物を改良し、従来の穀物や野菜や果物や、それ以外の植物からも、もっと多くの食料を生産しようと躍起になっていた。

家畜にいたっては、より少ない飼料でより多くの肉を作ろうとゲノム編集で品種改良を重ねた結果、今では、筋肉隆々としたマンモスのような体つきの牛や豚まで誕生させている。

家畜でできることは、人間にもできるはずだ。

数年前から、日本でも、一部の深刻な遺伝病については、ゲノム編集による遺伝子治療が認められていた。

こうした病気の治療に関しては大方の国民も納得していたが、さらに、エンハンスメントと言われる、人間の能力を飛躍的に向上させることまで認めるのかどうかについては、世論は真っ二つに分かれている。

ところが、現実には、いわゆるデザイナーベビーでさえも公然の事実になっていた。

病気にかかりにくく、健康で、しかも自分にはない優れた能力を子どもには持たせたいという親の願望は抑えがたいのだろう。非合法と知りながら、自分たちが望むようなデザイナーベビーを産みたいという親が跡を断たなかったのだ。

未来は何かを汲み取ろうとするかのように、ママの顔をじっと見つめていた。

「ぼく、やっぱり今のままでいい」

未来はそう言うと、スープを飲み干してから、裏庭に駆け出していった。

ママのプランターと違って、ばあにゃの畑には、遺伝子改良した野菜は一つもなかった。あちこち虫に食われてはいるが、どれものびのびと自然のままに育っている。

未来は、ばあにゃに駆け寄ると、

「ねえ、ばあにゃ。ばあにゃはもっと足が速くなりたい?」

と訊いた。

「いきなり、なんだい?」

ばあにゃは目を丸くして、未来の顔を見た。ばあにゃは畑仕事の手を休めて立ち上がると、大きく背伸びをした。

「あイタタタタ……。そうだね、足より、この腰をなんとかして欲しいね」

「ふーん。それじゃあ、ママに頼んでゲノム編集してもらう?」

「なんだい、それ?  そんな訳のわからないものはごめんだね。やっぱり、ばあにゃは今のままでいいよ」

「よかった。未来も今のままでいいよ」

「そうかい、そうかい、未来はいい子だね」

ばあにゃは未来の頭を、やさしく撫でるのだった。


(続く)

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