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【連作短編】先輩ちゃんと後輩君 その4

第4話 先輩ちゃんは給料が出たので後輩君を飲みに誘う

 黒板を背にした講師が大きな身振りで熱弁を振るう。講義を受けていた学生達は内容に耳を傾け、重要な個所をノートに書き込んでいく。
「要するにだ。必ず、このような状態で帰結する」
 講師は大きな文字で板書きして下線を引く。関連する事柄も合わせて書き殴る。
 高田 春人たかだ はるとは前から二列目の中程に座っていた。開いたノートに手早く書き込む。講師の見解と分けて読み易く纏めた。
 低い振動音が起こる。無視してノートに集中した。
「これは私の考えによる仮説だが」
 講師は前置きして教卓の上に置かれた資料を手にする。
 春人はカーゴパンツのポケットからスマートフォンを取り出した。低い位置で起動して送られてきたメッセージに目を落とす。
『昨日が私の給料日! 午後六時半に噴水前に集合だ!』
 貼られたスタンプは三頭身の女性の絵であった。顔の大きさと等しいビアジョッキを掲げ、笑顔でビールを飲んでいた。
『わかりました』
 親指を立てた絵を添えて電源を切った。

 赤々と燃える空は燻って次第に黒く冷えてゆく。境目の時間、春人は立ち読みしていた本屋を出た。
 良い時間潰しとなり、約束の時間の十分前に噴水へ到着した。呼び出した人物の姿はなく、前方の駅の改札をぼんやり眺めて過ごす。
 二本目の下り電車がホームに滑り込む。ホームは大量の乗客で溢れた。各々が改札を目指し、方々に散ってゆく。
「待ったか!」
 スーツ姿の青山 陽葵あおやま ひなたが溌溂した顔で現れた。大股で歩き、にっと笑って見せた。
「スーツを新調したのですか」
「似合っているだろう」
 薄いベージュのジャケットに白いブラウスを合わせる。パンツの幅は広めで動作の度に柔らかく波打つ。
「堅苦しいリクルートスーツよりも親しみを感じます。女性らしさを失わず、仕事もできる印象を与えますね」
「そんなにか。いや、そこまで計算した訳ではないが。まあ、行こうか」
 やや目が泳ぐ。並んでいる間も陽葵は締まりのない顔を見せた。
 事前に示し合わせたかのように二人は、とある店舗に入っていった。地域に三店舗ある小規模なチェーン店で料理の種類の多さが売りとなっていた。
 早い時間帯もあって二人は待つことなくカウンター席に着いた。
「取り敢えずはビールだな。後輩君も同じでいいか」
「そうですね」
 陽葵は右手を垂直に上げた。小柄な体型もあって小学生の授業風景を彷彿ほうふつとさせる。近くにいた若い男性店員が見つけて即座に駆け付けた。
生中なまちゅうを二つだ」
「ご注文、うけたまわりました」
 店員は足早にビールサーバーへと向かう。
「ここは復唱がないおかげで早くていいな」
「そうですね。少し遅れましたが今日はありがとうございます」
「なんだ、改まって?」
 陽葵は椅子から降りようとして動きを止めた。中途半端な姿勢で春人へ疑問を投げ掛ける。
「今日は先輩ちゃんのおごりですよね?」
「どうしてだ? 割り勘だぞ。私は化粧室にいくから料理を注文して置いてくれ」
 陽葵はカウンター席を回り込むようにして歩いていった。
 残された春人はスマートフォンを取り出し、既読となったメッセージを読み直す。
 文面に奢るの一言がなかった。給料日を迎えたことと集合場所があるだけだった。
「やられました」
 時に年配者がするように春人は自身の額を軽く平手で叩いた。

 陽葵は化粧室の洗面台と向き合った。鏡に映った姿を見つめる。
 最初にボブカットに手を入れる。優しく撫でるようにして整えた。顔の汗ばんだ部分には専用のあぶらとり紙を押し付けた。唇が少し気になるのか。映す角度を変えて何度も前に突き出した。リップクリームを塗って艶を加える。
「今日の私は可愛い」
 鏡の中の自分に控え目な声を掛けた。最後にスーツを眺める。春人に褒められたことを思い出しているのか。にんまりと笑ってくるりと回る。そこに女性が入ってきた。浮かれた状態を抑え、陽葵は真顔で化粧室を後にした。
 すでに春人はビールを飲んでいた。肴はカンパチで小皿の醤油に刻みネギを入れて食べている。
「乾杯も無しか」
 文句を言いながら席に着く。艶々した唇を春人にそれとなく見せ付ける。
「先輩ちゃんはいませんでしたが、先に乾杯は済ませました。あとその唇ですが」
「どうかしたのか?」
 素知らぬ振りでビアジョッキを掴んで飲み始める。
「トイレでポテトチップスを食べましたか?」
「子供か! 私は立派な社会人だぞ!」
「よく心得ています。学生の僕と割り勘にしようと提案する、とても立派な大人の女性です」
 春人はにこやかに言うと新たな注文の品が運ばれてきた。目にした陽葵は目を剥いた。大きめの角皿には鯛やヒラメ、大トロと思われる白い筋の入った刺身がぎっしりと詰め込まれていた。
「これは、幾らだ?」
「1200円になります」
「出だしにしては、なかなかのチャレンジャーではないか」
 陽葵は声を落として言った。
「割り勘ですから」
 春人はビアジョッキを空けた。そこに升に入ったコップが届く。陽葵の興味はコップに移る。
「その升に入ったコップは日本酒だな」
「そうです。わざとコップの中身を溢れさせた、通称もっきりです」
「まさかとは思うが大吟醸なのか?」
「一杯で1500円になります」
 その値段の高さが物語る。意図を悟った陽葵は置かれた割り箸を使って大トロを掬い上げる。二枚を同時なので春人は急いで大トロに手を伸ばした。
 二人は競い合うように食べる。会話を楽しむという雰囲気は消し飛び、食べることに専念した。口直しとばかりに陽葵が大吟醸を注文。声を重ねるように春人が伊勢海老の姿盛りを叫んだ。
 食べては呑む。各々が淡白な刺身で口の中を整え、特上カルビを口の中に押し込んだ。陽葵は食べながら春人を言葉で牽制する。
「言っておくが割り勘だぞ。半分は後輩君が支払うことになる」
「安心してください。塾のバイトと掛け持ちで個人の家庭教師もしています」
「なんだと!? 卒業に必要な単位はどうなっているんだ」
「三年生ですが124単位取得済みです」
 春人はおしぼりで軽く口元を拭い、大吟醸のおかわりを高らかに店員に伝えた。慌てた陽葵が三年物の赤ワインを注文した。
「先輩ちゃん、いいのですか?」
「もちろんだ。一杯で1800円だな。味を考えれば安いくらいだ」
「そうですか」
 春人は静かな闘志を燃やし、大いに食べて呑んだ。張り合う陽葵も相当で頭が揺れ始める。
 三時間が経過した。二人は共に顔を赤らめた状態で手を止めた。限界を超えた死闘はここに終わりを告げた。
 最初に陽葵がふらりと席を立つ。会計伝票を持って支払いへと赴く。従うように項垂れた春人が後ろに付けた。
 笑顔の女性店員が差し出された会計伝票を明るい声で受け取る。慣れた手つきで計算を済ませた。表示された金額に二人は目を丸くして顔を近づける。
「これは、とんでもないな」
「ギリギリです」
 春人は折り畳まれた財布を広げた。万札を取り出し、複数の千円札と重ねて陽葵に手渡す。

 その日、過去最高記録を更新した。
 二人は居酒屋で26000円と少しの金額を支払った。

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