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『家族ダンジョン』第8話 第七階層 白く煙る先に

「ここは!」
 先頭で階段を駆け下りたハムが警戒を強めた。前方の広々とした空間に鼻を向けてしきりに動かす。
「この腐臭は間違いない! 不死者共の領域に入った証だ! 全員、気を引き締めて事に当たるのだぞ!」
 前脚で何度も石畳を蹴った。
「戦いを目前にして俺様の魂が荒ぶるぜ!」
「ちょっとうるさい!」
 茜は足を踏み鳴らして一喝した。その近くでは冨子が臭いを嗅いでいる。
「温泉卵が食べたくなる感じだねー」
「硫黄の臭いか」
 直道は前方に目を凝らす。暗がりが有毒なガスのように漂っている。
 落ち着きを取り戻したハムは自ら先頭に立つ。
「不死者共の吐き出す毒は正気を失わせて自らの仲間に引き込む。だが、俺様には通用しない。その強みを活かして全員の鉄壁の盾となって先行する」
「豚の貯金箱の利点か」
「なんだ、それは?」
 ハムの疑問に直道は、行こうか、と微笑んで言った。
「全員、微速前進!」
 カツカツと足を鳴らしてハムが勇ましく前進する。三人は周囲に目を向けながら付いていった。
 前方の薄闇が後退した。それとは別にどこからともなく白煙が流れ込む。
 ハムは全員に聞こえるように声を上げた。
「死霊共が現れる兆候だ! 油断をするな! 気を引き締めていないと魂を持って行かれるぞ!」
 茜は周辺に向けて目を小刻みに動かす。
「こっちには武器や防具もないのに、どうすればいいのよ」
「街にお店はあったんだけど、金貨がなくて買えなかったのよねぇ」
 不安を滲ませる二人に直道が強い一言を発した。
「広さを利用して逃げる手もある」
「それしか、ないかな」
「あとはハムちゃんの活躍に期待しようー」
 冨子の言葉には反応が鈍く、各々が適当な相槌を打った。
 進む程に白煙の濃度が上がる。咳き込むような強い臭いとなった。
 ハムは威嚇するような目を全方位に向けた。
 冨子は、温泉卵―、と歌うように言った。
 茜は苛立ち、何度も舌打ちをする。
 直道は眼鏡の曇りをハンカチで解消した。
 一行の足が止まった。石畳の一部が変質して白濁とした湯を湛え、もうもうと白い煙を上げていた。
「やっぱり、温泉よねー」
「見たままだね」
「温泉だ」
 口々に言ったあと、三人は一斉にハムへ目を向けた。するとコロンと横になる。その姿でゆらゆらと揺れ始めた。
「誰にでも間違いはあるしぃ。初めてきたところだしぃ。そんな目で見られても困るしぃ」
「それはおかしいでしょ。あんた、この先は熾烈を極めるとか、まるで知っている風なことを言ってたじゃない」
 茜が鋭く切り込んだ。
「先に進んだら、そうなると思っただけだしぃ。勝手に勘違いして俺様を非難するのはおかしいしぃ」
「あんたねぇぇ」
 湯気は茜の栗色の頭からも出ているように見えた。怒りの猫又となって飛び掛かる寸前、冨子が声を挟んだ。
「宿屋にお風呂がなかったから、ちょうどいいよねー。みんなでゆっくりと温泉に浸かったら、きっと疲れが取れるよ」
「……成分が気になる。この世界で私達の常識が通用するとは限らない」
 直道は眼鏡を掛け直し、煙る湯面に用心深い目を向けた。
 直後にハムが素早く起き上がる。
「俺様の出番だ! 一切の毒が通用しない俺様が身をもって証明してやろう!」
 間を置かず、ハムは湯面に向かって跳んだ。派手な飛沫を上げて瞬く間に沈む。
 三人は波紋の中心を黙って見つめる。揺らめきがなくなった。穏やかな湯面を眺めたまま、茜が言った。
「豚ってどれくらい潜っていられるんだろう」
「引っ張り上げた方がいいのかしら」
「湯が人体に無害と証明されていない」
 厳しい表情で直道は一点を見据えた。浮上する物体はハムであった。横向きの姿で足を緩慢に動かし、鼻と口から湯を噴き出した。
「温泉、最高だしぃ」
 ピンクの身体がほんのりと赤みを帯びる。とろんとした目で湯に身を委ねた。
「みんなで温泉に入るよー」
「お父さんは向こうの端ね」
「それは構わないがハムはどうする?」
 湯面に浮かんでいたハムは三人に向き直る。
「俺様は自由だ。人間の性別でいうと女性だからな」
「俺様っ娘!?」
「そうなんだー」
「お母さん、それでいいの? とんでもなく怪しいんだけど」
 話を振られる前に直道はさっさと離れた。

 それぞれが温泉を楽しんだ。縁に近いところは浅く、腰掛けることができた。
 茜と冨子は横に並んで座って入る。ハムがのんびりと目の前を横切った。
「家族で温泉に入るなんて、思わなかったよ。しかも異世界っぽいところでさ」
 茜の言葉に冨子は俯いた。両手で湯を掬うと勢いよく顔を洗った。乾いていない状態で天井を見上げる。
「……一人、欠けているけどね」
「ごめん。そんなつもりは」
「わかっているよ。こっちも少し湿っぽくなって、ごめんなさいね」
 冨子は茜を見てにっこりと笑った。
「なんの話をしているのだ? 同じ女同士、俺様も話に加わってやろう」
「あんたのどこに女性の要素があるのよ。口調は男性で胸や股間もツルツルだし」
「胸がツルツルなのはそちらも同じだろう」
「ツルツルじゃない! Bカップなんだから」
 両腕で胸を挟むと、くっきりした谷間が現れた。ハムはちらりと見たあと、冨子の胸に目を移す。白い湯面に隆起した丸い物が二つ、ぷかぷかと浮かんでいた。
「あれが胸ではないのか」
「規格外と比べるな!」
「私の胸はふくよかと思うけれど、茜の栗色の髪も素敵だよねー。天然に見えないくらいにきれいでサラサラー」
 冨子は茜のショートの髪を指先で摘まんだ。軽く擦り合わせて、いいよねー、と羨望の眼差しを向ける。
「私も気に入ってはいるんだけどさ。染めてるとかで校則違反を疑われるのが、どうもね」
「あ、そうだ。ちょっと顔を湯に沈めてみてー。頭の先は見えるくらいで」
「どうして?」
「んー、お母さんが個人的に見たいかなーって」
 明るく返されて、いいけど、と茜は不審に思いながらも従う。白い湯面に栗色の頭が浮いているような状態となった。
「豆乳鍋に入っているシイタケー」
 明るい声にハムが過剰な反応を見せた。鼻から白濁とした湯を豪快に噴き出し、後ろにひっくり返る。腹を見せた状態で咳き込むようにして大笑いした。
「な、なに、どうしたの!?」
 ガバッと頭を上げた茜が急いで顔を拭う。ハムの姿を見て、ええ、と身体が引き気味となった。
「家族と一緒の温泉は楽しいねー」
 言いながら冨子は横を向いた。白く煙る中に薄っすらと見える。そのたくましい背中に微笑み掛けた。
 直道は遠くの笑い声に、悪くない、と表情を和らげて言った。

 身も心も温まった一行は軽やかな足取りで階段を降りてゆく。


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