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人らしく生きる



第1話 薄汚れた少女

 雲一つない晴天であった。瑞々しい青が空一面に広がる。降り注ぐ陽光を浴びた街はクリスタルの輝きに包まれた。目抜き通りを行き交う人々は街並みに相応しい小綺麗な衣装を身に纏う。容色にも恵まれ、ゆったりとした流れを作り出した。
 その暗黙の秩序が唐突に崩れた。柳眉りゅうびを逆立てた女性が道の端に寄る。押された男性は一方を見て目を怒らせた。連鎖するように多くの人々が道の両端へと分かれた。
 薄汚れたワンピースを着た少女が流れに逆行して進む。無造作に伸びた髪は腰の辺りまであった。前髪が両目に掛かり、歩きながら何度も顔を振った。その度に抱えていた麻の袋がカチャカチャと音を立てる。
「……道が汚れるじゃない」
 棘のある囁きに周囲がざわつく。少女の歩いたところに血と泥を混ぜ合わせたような足跡が付いていた。素足のせいで傷つき、傷が完治することはなかった。
 人々が少女に向ける視線は冷たくて鋭い。痩せ細った身体を存分に突き刺した。
 全身に見えない傷を負った少女は脇道に入る。人目がなくなったところで足と足を擦り合わせた。
「……靴、買いたいな」
 ささやかな願望を口にして再び歩き出す。
 高い壁の間の道を進み、壁に向き合う格好で足を止めた。黒くて四角い出っ張りは廃品回収の機械だった。センサーが働き、投入口が自動で開いた。ぎこちない動作で袋の中身を上から流し込む。数秒で投入口が閉じた。
 少女の目は正面の紙幣の取り出し口に注がれる。乾いた音が重なった。その下の窪みに五枚の硬貨が吐き出された。僅かに口が尖らせて一握りにした。
「高価なICチップもあったのに……」
 少女は恨みがましい目で紙幣の取り出し口を見つめる。最後に窪みに目を落とし、力ない溜息をいてとぼとぼと歩き出す。
 脇道を抜けた。飲食店が建ち並ぶ通りを足早に歩く。テラス席にいた男性客は鼻にナプキンを当てた。少女の歩く速度が少し上がった。
 香ばしい匂いが漂う。少女は胸いっぱいに吸い込む。自然と笑みが零れた。
「あれは」
 目にした瞬間、表情が陰る。
 パン屋の店先に白いコックコートを着た男性が立っていた。店のロゴが入った紙袋を左手に持っている。少女の姿を見ると大股で歩いてきた。
「いつものパンだ」
「あの、どうして?」
「客からクレームを受けた。理由は言うまでもないだろう」
「……そうですね」
 男性は右手を突き出す。少女は黙って三枚の硬貨を掌に置いた。代わりに紙袋を押し付けるように渡し、店へと戻っていった。
 少女は軽く頭を下げた。ほんのりと温かい紙袋を胸に当てる。僅かな笑みで、その場を離れた。

 噴水広場は多くの人で賑わう。数十本の水柱が作り出す美しい演出が人々の目を楽しませた。囲むように置かれたベンチでは各々の時間を過ごす。中にはワイングラスを揺らし、各種チーズを嗜む者もいた。
 少女は柵越しに眺めて通り過ぎた。追い掛けてくる笑い声を振り払うように足を速めた。
 街並みが一変した。少女は居住区画に入った。和洋が混ざった家々を見ながら小さな公園に立ち入る。
 公園に人影は見えない。くつろげるベンチはなく、少女は唯一の遊具、ブランコの一つに座った。紙袋を太腿に置いて封を開ける。部分的に焦げたパンが三個、無造作に転がっていた。
「これって……」
 不満よりも食欲が勝るのか。一個のパンを取り出し、大きな口で齧った。目に涙が溜まる。飲み下すと、美味しい、と震える声で口にした。

第2話 少女の境遇

「やっぱり、いた」
 呆れたような声を耳にした少女は後ろを振り返る。
 淡い青色のパーティードレスを着た女の子が腕を組み、見下ろすような格好で立っていた。手にしたパンに気付くと露骨に表情を歪めた。
「焦げてるじゃない」
「香ばしくて美味しいですよ」
「失敗作を押し付けられたくせに。お金を返して貰いなさいよ」
 女の子は詰め寄った。勢いで長い黒髪が片方の頬に掛かる。苛立った手が後ろに払い除けた。
 少女は恥ずかしそうに齧った部分を見せた。
「食べてしまいました」
「その紙袋の中にもパンはあるよね。見せなさいよ」
「これは大丈夫です」
 少女は笑いながら開いている部分を閉じた。
「本当は焦げているんだよね?」
「どうなのでしょう。よく見ていないのでわかりません」
 少女は儚い笑みで小首を傾げる。女の子は目を合わせて睨み付けた。
 にらめっこのような状態が続いた。先に折れたのは女の子だった。
「もう、いいわ」
「ありがとうございます」
「なんでわたしが、あんたの代わりに怒らないといけないのよ。無駄なエネルギーを使ったわ」
 女の子はスカートのポケットから平たい缶を取り出した。鉄製のストローを起こし、口を付けて吸い上げる。
 目にした少女は物言いたげに口を開き、パンに齧り付く。大きな一口のせいで喉に詰まったのか。軽く胸の辺りを叩いた。
「これ、飲む?」
「……大丈夫です。あの、白い歯が黒くなっています」
「液体燃料だからね。それを気にするわたしじゃないし」
「あと、見られています……」
 公園の外に二人の女性の姿があった。立ち話に興じているように見えて、頻繁に鋭い視線をこちらに寄越す。
「わたしは気にしないけど、あんたが困るよね」
「そんなことはないですが……」
「わかったわ。もう、行くね」
 女の子はストローを咥えた状態で帰っていく。
「……咲千香さちか、気に掛けてくれてありがとう」
 小さくなる背中に親しみを込めた声で言った。

 刺々しい視線を受けながら少女は二個のパンを食べた。一個は紙袋に残し、立ち上がる。揺れるブランコを一瞥いちべつして踵を返す。二人の女性とは真逆の方向に歩き出した。
 少女は人目の付かないところを選んで歩いた。両側から迫る壁で辺りは薄暗い。それでいて道には塵一つ落ちていなかった。自虐的な笑みが浮かび、わたしが、と思わず声に出た。最後まで言うことはなく、唇を引き結んだ。
 青い空が緋色に変わる頃、巨大な半円のゲートが見えてきた。少女は手前で立ち止まる。路上の中央にぺたんと座って痛めた素足を交互に摩った。
 表情が和らいだ。両脚を伸ばし、両手を支えにゲートと向き合う。稲光のような縦の合わせ目には僅かな隙間もなかった。ゲートの周囲の街並みは空の変化に合わせて穏やかな夜へと移行する。
 少女はゆっくりと立ち上がる。閉じられたゲートに向かうと自動で開いた。中に入ると速やかに閉じられ、二重構造の光の輪を潜った。順にゲートが開き、三つ目で街の外に出た。
 黒雲が空を覆う。月や星は見えない。舗装された道はなく、廃材に等しい物が鋭利な刃のように突き出している。
 少女は足元に注意しながら歩いた。
「あれは」
 土に埋もれていたコードの一部を見つけた。足早に近付いてしゃがむと手で周囲を掘り始める。長さを期待したものの十センチ程度でころんと転がった。
「こんなことも、あるよね」
 コードの被覆ひまくは近くにあった金属片を利用して裂いた。中の銅線を丁寧に取り出すとポケットに入れていた麻の袋に収めた。同じような行動を繰り返して我が家に戻ってきた。
 二つの瓦礫の間にベニヤ板を載せて屋根に仕立てた。青いビニールシートは扉の役割を果たす。中腰になった少女は片手で開けて中へと入る。寄せ集めた布団の綿がふんわりと足を包み込む。
「あったかい」
 安らいだ表情で仰向けになった。顔の横にはパンを収めた紙袋を置いた。間もなく疲れた身体に夜が沁み込む。
「……草原の、匂いが……する……」
 両目を閉じた少女の口元には薄っすらと笑みが浮かんでいた。

第3話 人間の定義

 一個のパンが少女に活力を与えた。朝の早い時間帯にも関わらず、精力的に動き回る。曇天で薄暗い中、一端の目利きとなって麻の袋を満たしていった。
 昨日を上回る量に表情が明るい。はち切れんばかりに膨れ上がった袋を抱え、妊婦のようによたよたと歩く。三度の休憩を挟んでゲートを潜った。
 街は今日も瑞々しい青空を提供した。整った身なりの人々は優雅な足取りで通りを行き交う。流れに加わろうとした少女は突然の怒号に驚いた。道の端に寄ると、その場に袋を置いた。人々の目が自身から離れている間に何事かと現場に近づいていく。
 白い顎鬚あごひげを蓄えた男性が女性を指差した。
「私が人間らしくないだと! それは最大の侮辱だぞ! 口汚い女狐が!」
「本当のことを指摘されて逆上ですか? その手にした物をよく見なさい」
 黒いドレス姿の女性は蔑むような目となった。男性の左手には平たい物が握られていた。隠すように巻かれたハンカチの上部が僅かにずれている。
 遠巻きに見ていた若者が、液体燃料か、と口にした。周囲のざわつきに当事者の男性は訴えるような目になる。
「誤解しないで欲しい。いつもは自宅で補給を済ませている。今日は急ぎの用事で時間が取れなかった。人間らしい食事は排出されるだけでエネルギーに変換されない。それにハンカチで配慮もしたではないか」
「見えているので意味がありません。形状と黒い色で瞬時に商品を割り出せます」
「黙れ、女狐!」
 男性は前のめりとなった。女性は自前のハンカチで鼻を押える。
「黒い歯でオイル臭い息を吐き掛けないでください。ドレスに臭いが移ります」
「ゆ、ゆる、許さんぞおおお!」
 男性は女性の左肩に右手を伸ばす。
「止まって見えます」
 女性は笑みをたたえて滑らかに後退する。銀色の輝きが一気に距離を縮めた。それどころか、左胸を貫いて背中に抜けた。
「こ、これ、は」
「思い知ったか!」
 男性の掌から銀色の刃が飛び出した。低い音が右肩から聞こえ、内部の熱を排出して白い湯気が立ち昇る。
 女性の左胸が濃い黒色に染まる。手足が不自然に揺れて右目が裏返った。
 カチンと硬い音がした。周囲で見ていた数人が、ほぼ同時に走り出す。
「その目は――」
 全てを言えず、男性は沈黙した。眉間に丸い穴が空いていた。女性の白目に仕込まれた高出力レーザーは対角線上にある店舗の一部も貫いた。
 二人は同時に膝を突く。瞬く間に黒い血溜まりが出来た。巻き添えを嫌った人々が速やかに現場を離れる。その中には少女も含まれていた。
 青空の一部が内側に引っ込む。中から現れた丸い物体は、のっぺりとした月のようだった。気付いた女性は白目を戻して真上に叫ぶ。
「わたしは人間です! この街に相応しい人間なのです!」
 その切なる声は聞き届けられなかった。二人は同時に細かい振動に見舞われる。人工の皮膚はゲル状となって流れ落ち、人型の金属と化した。時間を巻き戻すように部品へと分解されて路上に撒き散らされた。
 その一つが転がり、避難した少女の足に当たった。女性のICチップを拾わず、静かに手を合わせた。足早に袋へと引き返す。
「……人ってなんだろう」
 膨らんだ袋を抱えた少女は人目の付かない路地へと入っていった。

第4話 赤い血

 小さな公園に少女はいた。右側のブランコに座って太腿には紙袋を置いている。顔は綻んで今一度、ポケットから今日の成果を取り出した。綺麗に折り畳まれた紙幣を開き、青い空に掲げる。
「初めてだよ」
 感慨深い声を出して手を下ろす。紙幣を前の状態に戻してポケットに収めた。気分は上向き、両足が地面を軽く蹴った。
 ブランコが前後に揺れる。タイミングを合わせて両足を使う。曲げたり伸ばしたりしていると揺れ幅が大きくなった。べたついた長い髪が生まれた風に洗い流された。
 目を細めた瞬間、少女は前方に飛ばされた。俯せに倒れた状態から四つん這いの姿となり、衝撃を受けた背中を手の甲で摩る。紙袋のパンは飛び出し、少女と同じように砂に塗れた。
「ここは僕たちの公園だぞ!」
「そうだ、出ていけ!」
「汚いから消えて!」
 辛辣な声を少女に浴びせる。顔を向けると三人の子供だった。きちんとした身なりの男の子が二人。女の子はふわふわとした白いドレスを着ていた。
「ここは皆の公園だよ」
 言いながら少女は立ち上がる。紙袋を拾うと周囲に落ちていたパンを回収した。
 見ていた女の子は愛らしい顔を歪めた。
「まだ食べるつもりだよ。信じられない!」
「おまえなんか、砂でも食べてろ!」
 青いシャツの男の子が地面の砂を握って少女に投げ付ける。他の二人も同じ行動に出た。
 速い腕の振りから放たれる砂は少女の肌を痛め付ける。目を開けることもできない。突然の砂嵐に巻き込まれた旅人のように翻弄ほんろうされた。
「あんた達、何してるのよ!」
 その怒鳴り声で三人はぴたりと手を止めた。一斉に顔を真横に向ける。
 艶やかな黒髪を乱し、咲千香が紫色のスカートを翻して走ってきた。咳き込む少女の側に立つと子供達を睨み付けた。
「なんだよ、おまえは!」
「あんた達が何なのよ。千紗ちさが何をしたって言うのよ」
「あたし達の公園にいるから、追い出そうとしただけだもん」
 女の子は口を尖らせて言った。
「あんた達の為に作られた公園じゃない。皆が楽しく使うところでしょ」
「こんなのがいたら楽しくない」
 丸顔の男の子が少女を指差した。無理に笑って、ごめんね、と口にした。横にいた咲千香が横目で睨む。
「あんたが謝る必要はないよ。悪いのはこいつらなんだし」
「でも、わたしがいたら楽しく遊べないかもしれない」
 少女は自分の衣服を見て儚げに笑う。薄汚れたワンピースに付いた砂を力なく手で払った。
「こんなヤツ、僕ひとりで十分だ!」
 男の子は一方を見て走り出す。花壇の囲いに使われたレンガを踏み砕く。手頃な物を掴み、少女を睨む。
「あんた、やめなさい!」
 意図に気付いた咲千香は少女を庇うように立った。
「どけよ! 邪魔するな!」
 男の子は制止に構わず、大きく振り被る。
「やめて!」
 少女が声を上げた。咲千香の前に強引に割り込む。飛来したレンガの破片を側頭部に受けて俯せに倒れ込んだ。間もなく乾いた地面に赤い血が流れる。
 目にした三人は異常な程に震えた。
「血があんなに。赤いよ。なんで!?」
「怖い。わたし、なんか怖い」
「僕は、悪くない。僕のせいじゃないんだ!」
 青いシャツの男の子は真っ先に逃げ出した。二人は、待って、と叫びながら同じ方向に走っていった。
「千紗、しっかりして! ねえ、目を開けてよ!」
 咲千香の声に少女は言葉にならない唸り声を漏らした。

第5話 秘密

 薄暗い空間で少女は目を覚ました。虚ろな瞳で天井を眺める。右手をゆっくり上げて触れようとした。
 半顔が歪み、右手を右の側頭部に当てた。貼り付けられたガーゼに気付いて、これは、と呟いた。
「痛みはある?」
 左手の声に目だけを向ける。咲千香が仰向けの姿で天井を眺めていた。
「……ほんの少し。ここまで運んでくれて、ありがとうございます」
「それはいいから。吐き気や眩暈めまいは、どう?」
「ありません」
「ひとまず安心ね。ここには機材がないから。応急処置はしたけど」
 咲千香は上体を起こした。手元にあったケースを開いて見せる。麻酔の道具や縫合に使う三日月状の針、それに糸などが収められていた。
 パタンとケースの蓋を閉める。その音は少し大きく、咲千香は少女に顔を近づけた。
「どうして、わたしを庇うような真似をしたのよ」
「……危ないと思ったら、身体が勝手に動いていました」
 やや目を伏せて言った。
 咲千香は鼻で笑う。手を左右に振ってやんわりと否定した。
「あのね。わたしもあの街の住人なのよ。流れ着いた生身のあんたとは身体の作りが違うの。わかる?」
 少女はしっかりと目を開けた。
「咲千香さんはわたしと同じ、生身の人間ですよね」
 視線を合わせて言い切る。咲千香は口籠り、目を逸らした。両膝を立てて抱えるような格好で前後に揺れ始めた。
「どうして、そう思うのよ」
「今日、二人のサイボーグの言い争いを見ました。一人の若い女性に人間らしくない行動を咎められた顎鬚の男性は、最大の侮辱と言っていました」
「それとわたしが生身と、どう関係があるのよ」
 揺れを止めてちらりと少女を見た。促されてゆっくりと口を開く。
「サイボーグの人達は人間らしく見られたいと思っています。人間と同じ飲食をするのも、その為です。咲千香さんは液体燃料をわたしの目の前で飲んで見せました」
「サイボーグに見られたいからと、言いたいのね。それはどうかな。純粋にエネルギー切れを起こして、予備の燃料で補給したのかもしれないじゃない」
 咲千香は少女の目を見て言った。
「どうして生身の人間を治療するキットを持ち歩いているのですか」
「あー、そうだわ。あんたを運んだせいで、エネルギーが不足しているみたい」
 スカートのポケットから平たい缶を取り出した。立てたストローに口を付けて飲んだ。目にした少女は藻掻くようにして上体を起こす。
「あんまり無理しないで。外傷はあるんだから」
「わたしにも飲ませてください」
「……黒いよ?」
「大丈夫です」
「わかったわ」
 苦笑いで缶を差し出す。手にすると少女はストローに口を付けて一気に吸い込んだ。二口程で飲むのをやめた。黒い舌を出して渋い表情を作った。
「とても酸っぱいです」
「野菜と果実を発酵させて作った物だからね」
 咲千香は朗らかに笑った。
「まあ、隠していたことは謝るよ。実はわたしもあんたと同じで、この街に流れて来たんだよね」
「そうなのですか。でも、今は街の方々と同じ生活をしているのですね」
「最初はわたしも、あんたと同じような扱いだったよ」
 苦しい過去を思い出しているのか。躊躇ためらうような間が空いた。
「ある日、二人の夫婦に声を掛けられた。生前の娘とよく似ていたらしい。それから身なりを綺麗にして貰い、サイボーグとしての生活を仕込まれたわ」
「そのような事情があったのですか……ごめんなさい。過去の辛い記憶を掘り起こすようなことをして」
 少女は頭を下げた。頭部の傷に響いて上体が傾く。咲千香は素早く肩を抱いて静かに寝かせた。
「無理はしないで。当分の間、食料はわたしが持ってくるから安静にしてなさいよ。わかった?」
「お言葉に甘えて、そうします」
「今後のことは身体が治ってから考えればいいよ」
 言い終わると咲千香は中腰になる。その姿勢でブルーシートに突っ込み、外へと出ていった。
 少女は静けさに包まれた。瞼を閉じて深い眠りに落ちてゆく。

第6話 人らしく

 居住区画の道をパンツルックの咲千香が走る。長い黒髪はばっさりと切った。燃える心を反映したかのように赤く染め上げた。
 小さな公園に差し掛かる。ブランコで遊んでいた三人組の一人が横目をやった。
「咲千香、どこ行くんだ?」
「こっちが年上なんだから、ちゃんと『さん』を付けなさいよ。今から千紗と一緒に街の外に行くのよ」
「そうなんだ。あの、千紗さんは元気なのか?」
 男の子はもじもじしながら訊いた。
「千紗さんって。そうそう、あんたにぶつけられたレンガのせいで今も頭が痛くて苦しんでいるわ」
「本当かよ!?」
「冗談よ」
「やめろよ! 一瞬、信じたじゃないか!」
 怒鳴ると小さな身体を震わせた。
「あんた、千紗に好意を寄せるのはいいけど、いつまで子供の姿なのよ」
「もう少しあとになるけど、新しいパーツに取り換えるんだよ。そしたら大人になれる。千紗さんだって、その僕なら」
「ま、頑張りなよ」
 咲千香は走る速度を急激に上げた。
「最後まで話を聞けよ!」
「また今度ね!」
 笑顔で怒鳴り返した。

 木造の平屋建てが右手に見えてきた。門柱や壁がない状態で道に面していた。
「レトロよねぇ」
 足を止めた咲千香は木製の引き戸に手を伸ばす。触れる前に自動で開いた。感心した顔は千紗の姿を見て苦笑に変わる。
「千紗の手動ね。その顔に取り付けた装備、初めて見るんだけど」
「なかなかの優れ物です」
 千紗は特殊な眼鏡を装着していた。フレームに当たる部分を指で押す。
「簡単な操作で物質を透過できます。地面に埋もれている資源の発見が容易になり、生活の向上が……そのポケットに入っている物はもしかして」
 終了の操作をした。フレームの部分が折れ曲がり、眼鏡は頭の上に収まった。千紗は暗い目付きで咲千香の上着のポケットを見つめる。
「見えたのね。これは千紗の貴重なエネルギーよ」
 ポケットから取り出した平たい缶を強引に手渡す。
「これ、身体には良いのかもしれませんが、酸っぱ過ぎます。味を思い出すだけで頬の横が痛くなります」
「飲みたいって、せがんだくせに」
「いつの話ですか。それなら、こちらは」
 悪戯っぽい笑みで千紗は家の奥へと駆け出した。早々に二つの紙袋を持って戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「これってパンよね」
「小腹が空いた時の携行食です」
 中を開けて見た咲千香は露骨に口角を下げた。
「しかも硬いヤツね。噛んでいるだけで顎が怠くなりそう」
「焦げてないですよ」
「本当ね。あのパン屋、少しは心を入れ替えたみたいね」
 二人は揃って笑みを浮かべた。

 出掛ける用意を済ませた。二人は似たような格好で歩いてゲートを目指す。途中で顔見知りのサイボーグと出会い、軽い挨拶を交わした。
 難なく二人はゲートを潜る。荒廃した地へと踏み出した。
 どんよりと垂れ込める雲を見て咲千香は軽い息を吐いた。
「今日も曇りね」
「あそこを見てください!」
 千紗は興奮気味に別の空を指差した。雲に押し潰されそうな光が見える。
「雲が薄くなっているみたいね」
「地球の浄化作用のおかげかもしれません」
「わたし達の未来は少し、明るくなったのかな」
「そうですよ。とても明るくて光り輝いています!」
 千紗は笑顔で両腕を広げた。艶やかな長い黒髪を弾ませて喜びを全身で伝える。傍らにいた咲千香の目が優しくなった。
「千紗、変わったね。前よりもずっと明るくなったよ」
「人は変われると思うのです。街の方々も少しずつですが変わりました。わたしもそうです」
 片方の足を高々と上げる。
「靴が買えました」
「そっちなの? 普通は一戸建ての方を自慢するよね?」
「家賃住まいなので、もっと頑張らないといけません」
 気合を入れ直すように両方の拳を握る。咲千香は笑って首に手を回した。
「今日もよろしくね」
「頑張って稼いで、空を移動できる最新のモビリティを手に入れましょう」
「高い目標だけど、それがあれば世界の裏側まで行けそうね」
「行きましょう、二人で!」
 千紗も首に手を回す。二人は肩を組んだ状態で夢を語った。

 ――自分達が思い描いた、人らしく生きる為に。

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