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【連作短編】先輩ちゃんと後輩君 その5

第5話 先輩ちゃんは部屋の掃除をしながらあれこれ考える

 部屋の厚手のカーテンが開いている。窓を覆う白いレースカーテンは朝陽を受けて、いつもより早くに朝を迎え入れた。
 青山 陽葵あおやま ひなたは掛け布団の中でもぞもぞと動き出す。しょぼつく目を擦って上体を起こした。やや背を丸めた姿で白く輝くレースカーテンをぼんやりと眺める。
 とろんとした目は横手のテーブルへと流れた。昨晩、高田 春人たかだ はるとと共に過ごした痕跡が残っている。大量の空の缶ビールが押し合う姿は電車の通勤ラッシュを思わせた。
「……片付けるか」
 陽葵はベッドを離れた。引き戸を開けて部屋を出ると廊下の途中にある右手のカーテンを開けた。隠されていた脱衣場があらわになった。一歩で踏み込み、洗面台の下の扉を開ける。右手を突っ込んで大型のポリ袋を取り出した。引き返す前に洗濯機を見やり、やるか、と口にした。
 部屋に戻るとポリ袋へ無造作に缶ビールを放り込む。全てを収めると歪な形で膨らんだ。ぶらぶらと振りながらキッチン横の隙間に押し込み、バタバタと走ってクローゼットを開けた。押し込まれた物がちょっとした雪崩を引き起こす。
 陽葵は胸に衣類を抱えて洗濯機まで運んだ。二往復を経て下着類をネットに詰め込み、洗濯槽にどさどさと落とす。
「回るのか?」
 疑問に思いながらも洗剤を適当に振り掛けて蓋を閉めた。電源を入れて大物コースを選択。流し込まれる水の音を聞くことなく、壁に立て掛けていたフローリング用のモップを手にした。
 廊下から始まり、部屋の隅々まで拭いて回る。程なくして額に汗が滲む。シャツの上部のボタンを外し、両方の袖を捲り上げた。
 一時間弱で満足のいく状態となった。陽葵は腰に手を当てて笑顔を見せる。
「悪くないな」
 部屋のレースカーテンを一気に開け放つ。眩しさで目尻に皺ができた。次第に慣れてしっかりと目を見開く。
 道を挟んだ一軒家では早々と洗濯物が揺れている。二階のベランダには朝の時間帯にも関わらず、家族分の布団が干されていた。
 陽葵は窓に顔を近づける。見る角度を変えて、汚れか、と口にした。全体的にかなり汚れていた。
 洗濯が終わる前に窓拭きに全力を注ぐ。適度に濡らした雑巾を使って外側を強めに擦る。高いところを拭こうと爪先立ちになった。小柄もあって手が届かない。
「後輩君がいれば!」
 瞬時に怒りを爆発させる。口を尖らせて部屋から小さな三脚を持ち出した。足場を確保してようやく全体を拭き終えた。
 洗濯機が軽やかに鳴る。陽葵は三脚を元に戻し、洗い籠に洗濯物を入れた。山盛りの状態でふらふらと部屋を通過してドカッと下ろす。
 最初に取り出した物は男性用のトランクスであった。一番、目立つ外側に干した。
「これも立派な防犯対策だな」
 ゆらゆらと揺れるトランクスを見て、ふと寂しげな表情を浮かべる。思い直した笑みで次々と洗濯物を干していった。多少、重なる部分があったものの全てを干し終えた。自信に満ち満ちた顔付きで、壮観だ、と力強い声を出した。
 急に気が緩んだのか。その場にぺたんと座り込む。風に吹かれる洗濯物を黙って眺めた。
 言葉よりも先に腹が鳴った。朝食の時間を迎えていた。後ろを振り返っても、そこに春人の姿はなかった。
「当然だ」
 鼻で笑って立ち上がる。小さな歩幅でキッチンへと向かった。
 手始めに冷蔵庫を開けた。自嘲めいた笑みが深くなる。野菜室で転がる剥き出しのキャベツを軽い平手打ちにした。
「どうしろと」
 調味料は塩しかない。昨晩はあった麺つゆとオリーブオイルは無くなっていた。春人が購入した物なので当然のことと言える。
「決めたぞ」
 陽葵は着替えを持って風呂場に直行した。脱ぎ散らかして浴室に入った。
 浴槽には浸からず、シャワーで済ませる。先程とは打って変わって上機嫌となり、鼻歌まで飛び出した。
「我ながら名案だ」
 言いながら全身の泡を不満と一緒に洗い流した。

 二日酔いにはならず、すっきりと目覚めた春人は洗面台に向かう。
 天板に置かれたポンプ式の泡を掌に出して鼻から顎に掛けて塗りたくる。鏡の横にある収納棚から剃刀かみそりを取り出してヒゲを剃り始めた。終わると洗面器に水を溜めて顔を洗った。近くにぶら下げたタオルを手に取り、しっかりと水気を拭き取る。口は軽くゆすぐ程度で済ませた。
 頃合いを見計らったように玄関のチャイムが鳴る。不吉を告げる三三七拍子に、またですか、と溜息と共に吐き出した。パジャマもあって急いでシャツに着替え、小走りで玄関の扉を開けた。
「私だ」
 陽葵はこれ見よがしに胸を張る。薄桃色のチュニックに薄いベージュのカーディガンを羽織る。白いスキニーパンツが大人びた印象を与えた。
「おはようございます。今日は何をしに来られたのですか」
「腹ペコなんだ」
「近くに喫茶店があります。モーニングはいかがでしょうか」
「金がない。無一文だ」
 堂々と言い放つ。
「財布を忘れて出てしまったのですね」
「いや、違う。最初から持ってくるつもりがなかった」
「ここは先輩ちゃん専用の定食屋ではありませんよ。今の状況は、まあ、気の毒とは思いますが」
「同情するならメシをくれ!」
 強気の表情で陽葵は声を荒げた。春人は何かを思い出したように軽く頷いた。
「大昔に流行ったテレビドラマの台詞ですか」
「よくわかったな。今でもネットに動画があるぞ」
「観たことがあるので知っています。ヒロインの子役が先輩ちゃんみたいでした」
「健気で意志が強くて実に私らしいではないか」
「それと小さくて気づかずに頭を踏んでしまいそうになりますね」
「私は一寸法師か! とにかくメシを食わせろ!」
 陽葵は強引な前進を始める。春人は身体を張って対抗した。
「後輩君、いいのかね? 奥の手を使うぞ」
「弱みを握られたことはありませんが」
「……ここでおっぱいを出すぞ」
「はい?」
 よく聞き取れなかったという風に春人は耳を傾けた。
「おっぱいをぽろんだ。胸をはだけた状態でさめざめと泣くぞ。台詞付きだ。『私の身体が目的だったのね』とか言うぞ」
「朝ご飯が食べたいくらいで、そこまでしますか」
 春人は蔑むような目で言った。挑むような顔付きで陽葵は断言した。
「今の私ならばする。絶対だ。ぽろんするぞ。いいんだな」
「……昨晩の余り物でよければ上がってください」
「交渉成立だ」
 春人が横向きになると陽葵はできた隙間に突っ込んだ。パンプスを脱いで部屋にあがり、冷蔵庫に直行した。扉を開けて中のビール缶を取り出し、その場で開けて飲み始める。
「胃にみる一口だ」
「大人しく座っていてください。今から温めます」
「下準備を済ませていた例の一品だな」
「そうです。ご飯は?」
「もちろん、いる。山盛りで頼む」
 陽葵は缶ビールを持った状態でクッションに腰を下ろす。別の手でリモコンを操り、星座占いのコーナーを熱心に見つめる。
「今日の乙女座の運勢は最高だ。ラッキーアイテムはパンプスで、ラッキーカラーは白だそうだ。私そのものではないか」
「タダ飯にあり付けたのですから。真逆の僕には女難の相があるのでしょうか」
 鍋を火に掛けた春人は自身の右の掌をじっと見つめる。
「そんなことはないぞ。私は幸運の女神だからな」
「そうですね」
 春人はぼんやりした目で笑った。

 鍋から香りが溢れる。同時に陽葵が落ち着かなくなった。背筋を伸ばして鼻をひくひくさせる。
「甘酸っぱい香りだ。香辛料は感じない。麻婆豆腐とは違うのか?」
「違います。これは骨を入れる器になります」
 座卓に小鉢を置いた。目にした陽葵は想像を膨らませる。
「スペアリブを入れる器にしては小さいな。骨付きの豚の角煮、いや、鶏肉が適当か。そうなるとチューリップ!」
「お待たせしました。こちらが注文のご飯の大盛になります」
 見た目の重量感は申し分ない。茶碗に丸く盛られていた。
 メインの大皿には狐色の手羽先が折り重なっている。白い湯気が見えることから相当な熱を孕んでいた。
「香りの正体は手羽先か! かなりの熱さを感じるぞ。これを素手で食べるのは無理があるぞ」
「箸を使ってください」
「これを箸で摘まんで齧り付くのか。骨があって、少々、手こずりそうだ」
 陽葵は箸を手に取った。手羽先の一つを摘まみ上げて肉厚の部分を口に含む。強めに噛んで突き出した部分を箸で引っ張る。
「ぽろんだぞ!」
 その言葉に春人は苦笑いを浮かべた。
「ぽろんがトラウマになりそうです」
「本当にぽろんだ。骨から簡単に肉が取れる。味はぽん酢なのか?」
「そうです。ぽん酢と醤油で手羽先を煮込みました。旨味と甘味を加えるために隠し味に麺つゆを試してみました」
「これは美味いぞ! ご飯に最高に合うぞ!」
 艶々した唇でご飯を掻っ込む。一口、ビールを飲んで再び手羽先を齧る。小鉢に着々と骨を積み上げていった。
 陽葵は手羽先のおかわりをした。同じ速度で食べ続ける。とは言え、限界の兆しが見え隠れする。さりげなくパンツのボタンを外した。腰を振るような動作が多くなる。その状態で懸命に手と口を動かした。
 最後の手羽先を咥え、箸で押し込む。口から引っ張り出した骨を小鉢に盛り付けて箸を置いた。
 両手を合わせて笑顔で一礼する。
「ごちそうさまでした! 本当に美味かったぞ!」
「お粗末さまでした」
 言うや否や、正面に座っていた春人は両膝を立てて手を伸ばす。陽葵の口の横に付いていたご飯粒を親指で拭い、自分の口に入れた。
 あまりに自然な行動に陽葵は呆然となった。遅れてきた感情で顔を真っ赤にした。
「……そんなの、反則だぞ」
「はい?」
 小首を傾げる春人に陽葵は口を尖らせた。
 小粒の果実は持て余す感情に激しく揺さぶられて、もじもじを止められなくなった。

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