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No. 34 英語教育とidentity 23【方言というidentity②】


はじめに

前回の投稿では、松本敏治氏の『自閉症は津軽弁を話さない リターンズ:コミュニケーションを育む情報の獲得・共有のメカニズム』(福村出版)から、「方言とtranslanguaging」、そして「ことばとidentity」について考えました。

自閉症者が「文脈」に依存する方言を習得するのが難しいということがこの本では書かれていますが、そこから定形発達の子どもたちがどのように方言と共通語の社会的機能について学び、使いこなしているのかということを見ていきました。

今回の投稿では、この松本氏の本から学べることの続編を書いていきます。
このnoteではtranslanguagingやidentityについて書いているのですが、今回は少し離れた議論になるかもしれません。
というのも最近Twitterで、英語の指導は音読などのトレーニング中心でいいのかといったことを考えることが多くあり、この松本氏の本がそれに重要な示唆を与えてくれていると思ったので、そのことについて書いてみることにしました。

まずはこの本に書かれていることを箇条書きでまとめていきたいと思います。


『自閉症は津軽弁を話さない?』から学べること(Part 2)

  • 自閉症者は模倣から自己化をするよりも、場面を再現することにこだわりがある

  • 方言は関係性や状況によりさらに多様になる

  • ことばの「意図」は、「文脈」と「行動」から読み取るものである

  • 「意図」のレパートリーが共有されている者同士では、「意図」の読み取りは簡単。→自分の「意図」を通じて相手の「意図」を読み取ろうとするから

  • 協同作業には「調整」が必要。「目標」が同じだとしても「プラン」が違うかもしれないから(ことばのやり取りも協同作業)

  • 定形発達の人は「直感」から理由を学ぶが、自閉症者は言葉で理由を学ぶだけだから「直感」が身につきにくい

  • 自閉症者は心理化フィルタがうまく機能せず、情報の取捨選択が苦手。だから人のような複雑すぎるものは理解できない

  • 一方、自閉症者も「観察」、「経験」、「分析」を通じて「注意」が促され、学習するケースもある

  • なぜ自閉症者が健常者と違うのかと問うのなら、なぜ健常者は「健常者」として同じような性質を持つのかということを考えるべき。そうすることで自閉症者に対する理解も深まるかもしれない

  • 自閉症者もことばの社会的機能に気づいたとき(たとえば、周囲になじむ必要があると気づいたとき)、方言がでるようになることもある

読んでいて興味深い箇所を抜粋したので、それぞれのつながりがわかりにくいかもしれませんが、以下の三つのことが英語学習(第二言語習得)において重要だと思いました。

ことばは社会的なもの

ことばは人々が「意図」を伝達し合うための大切なツールです。つまりそれは一方通行ではなく、協同作業です。その協同作業の中で「意味」を共有していくので、意味は最初からあるというよりその「文脈」に依存しています。そしてことばを通じてなんらかの「目標」を達成していきます。こうやって考えると、ことばはいうまでもなく「社会的な営みを支えるもの」であるといえます。
多くの人がこのことを理解している一方で、第二言語学習・教育においては意外と軽視されていることが多いです。たとえば今回の投稿の最初に書いたような音読などのトレーニング重視の英語学習・教育だと、英語の「型」を身につけているのに止まっており、社会的な機能の学習には至りません。ことばが社会的なものであるということをよく理解していれば、これではことばの学習・教育をしているとはいえない(少なくともとても部分的なものである)と気付くと思います。

ことばの社会的機能を無視してことばを学習することはできない

ことばが社会的なものであるのなら、つまり社会的機能を備えるものであるならば、ことばの学習はただのシニフィエ(概念やイメージ、つまり意味内容)とシニフィアン(文字や音、つまり意味を表すもの)のセットを学ぶ行為ではないということがわかると思います。もちろん意味と音/綴りを学ぶことはことばの学習において重要なファクターですが、それだけでは真にことばの学習をしているとはいえません。
音読などのトレーニング重視の英語学習・教育では、ことばの社会的機能に「注意」を払うことさえ必要がなくなってしまいます。そうするというまでもなく、実際に使うなかで養われる「直感」を獲得する機会が一切無くなってしまいます。

identityを創出、表現、構築していく学習にならない

ことばの社会的側面を軽視することは、このnoteの二大テーマの一つであるidentityを軽視した英語学習・教育になってしまうということでもあります。
もちろん英語学習・教育の目標は人それぞれです。実際日本にいる多くの人は、英検やTOEIC、受験において高得点を獲得することが最大の目標かもしれません。それゆえに多くの指導者も、学習者の目標を叶えるべく奮闘されていると思います。
これ自体を否定するつもりは毛頭ないのですが、僕は少し先の未来を見据えて英語学習・教育に関わっていきたいと考えており、だからこそSNSを通じて発信しています
少し先の未来についてはこのnoteの一つ目の投稿で書いていますが、簡単にいえば「ある程度の英語を聴ける・読める・書ける・話せる」というレベルはもうAIによって必要性が低くなるので、それ以上のことを英語学習・教育でやっていく必要があるということです。それが僕にとっては、identityやtranslanguagingであり、これらを考慮に入れた英語学習・教育が広く実現されれば、このnoteのテーマでもある「誰も傷つかない」世界に近づいていけるのだと信じています。
話が大きくなりましたが、ことばの社会的側面を軽視すると真にことばを学べないというだけでなく、identityを軽視することにもつながってしまうのです。それはこの時代の英語学習・教育としては「もったいない」と僕は思います。

おわりに

長くなりましたが、松本氏の本を読んで改めて「ことばの社会的側面」の重要性を考えることができました。
念のため書いておきたいのですが、私は自閉症者と健常者を区別したり、差をつけて語りたいのではありません。むしろ、その「分断」を解消し、「スペクトラム」として考えていくことで、互いに良い方向に向かっていければいいと考えています。
また、第二言語学習 (SLA) 的な視点から自閉症者と方言について書こうと思いましたが、私の文章力では意図せぬところで誰かを傷つけてしまうかもしれないと思い、あまり深くは入り込みませんでした。ですが、上に箇条書きした箇所を読んだだけでも鋭い方なら英語教育に対して重要な示唆があると気付くと思いますし、他にもたくさん学ぶべきことがあります。よろしければ松本氏のこの本を読んで、より深く考えてみてください。

ことばの社会的側面をもっと意識して英語学習・教育に励んでいくことで、より豊かで実りある学習・教育になることを願っています。

参考文献

松本敏治 (2020). 『自閉症は津軽弁を話さない リターンズ:コミュニケーションを育む情報の獲得・共有のメカニズム』福村出版.


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