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日本の怪談 ~名作とコワさの魅力~

 四谷怪談や番長皿屋敷など、昔から語り継がれる怪談話がこれほど豊富で有名なのは、世界中探しても日本だけなのではないだろうか。おばけ評論家として取り上げるべき題材かと思うので、この記事ではあえて何編か、自分が名作と思う日本の怪談話を紹介してみることにしました。

 今やインターネットではコワい動画が投稿されたりして、それを集めたテレビ番組なんかもありますが、まさかそれをホンモノと信じる人はいないでしょう(ボクはほとんどが作りモノで、インチキだと思っている)。

 スマホ一台で、映像表現はなんでもできる時代です。そこにコワさを感じないですし、別モノとはいえ、怪談独特のロマンや雰囲気がないのです。それが今のウケる時代といえば仕方ないですが…。

 ここに紹介する怪談話は作者が創作したものもありますが、物語として魅力的な作品です。時には古典的ではあるけれど、優れた怪談話に触れてみてはいかがでしょうか。



「東海道四谷怪談」

 まずはじめに取り上げるのは、誰もが知っているこの「四谷怪談」についてです。
 「四谷怪談」は、江戸時代の歌舞伎作者、鶴屋南北によって書かれた、日本の代表的な怪談といってもいいでしょう。
 今日まで歌舞伎はもとより、芝居、映画、落語などでたくさん披露されてきました。
 この「四谷怪談」は、ある意味実話で、ある意味創作です。というのも文政十年に町の伝説を集めた「文政町方書上」(名主の茂八郎が町奉行に提出したもの)に載っている話を、鶴屋南北が歌舞伎の題材として作り変えたのです。ですので、この話の主人公である、お岩さんは実在した人物。今も四谷にお岩さんを祭ったお岩稲荷があるのは有名ですね。
 しかし、伝説は誰かによって創作されたもののようで、本来は物語にあるような、おどろおどろしい出来事はなく、むしろお岩さんの良妻賢母を讃えて建立された神社のようです。
 そう思えばむしろコワさはありませんが、見事なのは鶴屋南北がこの伝説を怪談として、歌舞伎の舞台に昇華させた点です。そしてそれが、今日まで映画や多くの舞台にコワい演出が引き継がれているのです。
 「四谷怪談」には他に紹介する作品とは違い、鶴屋南北の創作物以外はっきりとした原作がありません。大筋は決まっているものの、舞台であれ映画であれ、その時の作者によって演出が違うため、ここではあらすじはあえて控えます。どのような物語かは、ネットで簡単に調べられますので、そちらを参照されてみて下さい。
 むしろ私がこの作品について取り上げたかったのは、先にも挙げた、怪談としての効果的な演出です。
 戸板返しはその演出の最大の見どころ。主人公の伊右衛門によって殺害されたお岩と下男の小仏小平の遺体は、それぞれ戸板の表と裏に縛りつけられ川に流されます。しかしその後、罪の意識に苛まされる伊右衛門の前に、川の底から流した筈の戸板が浮き上がってくるのです。
 毒を盛られて顔が腫れ、髪の毛が抜け落ちた見るも無残なお岩が、縛り付けられた戸板の上で、
「伊右衛門どの~、この恨み…」
と呻く。伊右衛門が驚きのあまり刀を抜き斬りつけますが、そうすると戸板は反転し、今度は裏に縛り付けられた小平が現れて呪いごとを伊右衛門に浴びせるのです。
 この戸板返しの場面がとにかくコワい。そしておなじみの、ヒュードロドロという音響効果が、最大のコワさを発揮するのです。これが江戸時代、歌舞伎として創作されたものだと思うと、鶴屋南北の才媛ぶりがうかがい知れます。
 何本か映画化されていますが、私が見たのはモノクロ映像作品で、小学生の時、よせばいいのに土曜の深夜に放送されたのを見て、トイレに一人で行けなくなってしまいました。
 日本のホラー映画は「リング」や「呪怨」など有名な作品もありますが、この「四谷怪談」は元祖日本のホラー映画として、そのコワさは今も色あせていないと思います。
 最近では、あまり舞台の演目にかからなくなったのは残念なことですが、怪談の古典的名作として、後世に伝えられることを願っています。
 最後に、その伝説とされる元の話は、つのだじろう作の漫画「恐怖新聞」の第2巻に詳しく描かれています。ご興味ある方はぜひそちらも参考に。

つのだじろう 「恐怖新聞」第2巻 秋田書店

参考文献
「浮世絵の幽霊」 粕三平 芳賀書店
「怪談 民俗学の立場から」 今野圓輔 社会思想社
「日本の幽霊」 池田彌三郎 中央公論社
「恐怖新聞 第2巻」 つのだじろう 秋田書店

追記
土偶士さんが、「四谷怪談」の記事をアップされています。詳細に書かれた貴重な「四谷怪談」にまつわる現地リポートでもあります。



「吉備津の釜 (きびつのかま)」

 日本の怪談文学として名高い「雨月物語」。上田秋成による、九編の短編で構成された怪奇小説であり、中でも最も優れた作品がこの「吉備津の釜」です。

 舞台は吉備の国(今の岡山県)。庭妹(にいせ)の里に住む井沢正太郎は、大百姓のひとり息子ですが、仕事もせず酒ばかり飲み、遊びまくっている、両親には何とも悩みのタネでした。
 見かねた両親は正太郎の行く末を案じ、縁談を計画。そして正太郎は近所の老人の世話で、磯良(いそら)という女性との縁談話が持ち上がります。
 磯良は吉備津神社の娘で十七才、上品で美しい女性です。
 磯良の親も結婚には前向きでしたが、みかばらいの儀式を行い、磯良の将来を占うことにしました。
 みかばらいとは、大きな釜を神前に据えて湯を沸かし、その音の具合で吉凶を占うものでした。釜から湯がたぎる音がすれば吉、音が鳴らなければ凶で、その場合は不吉な前兆とみなされます。そして儀式の日ー。
 果たして、釜は湯がたぎっても、何の音もたてませんでした…。

 吉備津の釜は、こうした設定で物語が始まります。この後のあらすじは簡略しますが、結局、磯良と正太郎は結婚することになります。
 しかし正太郎は根っからの性悪で、港町に愛人を囲い、磯良に金の工面までさせた挙句、その愛人と播磨の国(今の兵庫県)の里に逃れます。
 正太郎の裏切りを知った磯良は落胆し、身体を壊して、ついには死んでしまいます。
 その磯良が怨霊となって、愛人を呪い殺し、正太郎の前にまで現れて彼を追い詰めていきます。
 恐れをなした正太郎は彦六という知人のつてで、まじないを行う老人に魔除けを頼みます。老人は正太郎の体にまじないの文句を書き、こう告げます。
「このまじないの札を家の戸口や戸に貼り付け、神仏に祈りなさい。そして四十二日間、一歩も外へ出てはならない」
 正太郎は老人の言いつけを守り、札を家の周りに貼って、家にこもることにします。するとその夜、戸をドンドンと叩く音がして、
「あなにくや。ここに尊い符文が張ってある」
 と、磯良の微かな声がするのです。磯良の怨霊は、やはり家までやってきたのです。正太郎は恐怖に怯え、一人家の中で蒲団をかぶって、ひたすら時が経つのを待つしかありませんでした。

 そしてここからが、この物語のクライマックスになる訳です。

 それからも磯良の怨霊は夜になると、毎晩やってきます。家の周りをめぐり、屋根の上のあたりで叫んだりする声が日増しに凄まじくなっていきます。
 そうして、ついに四十二日目の夜がきます。この夜を過ぎて朝を迎えられれば、怨霊は退散するのです。すると、窓の外に明かりが差し込む気配がありました。正太郎は無事に朝を迎えられたことに安堵します。そして戸を開けて外へ出てみると…。

 正太郎がこの後どういった運命になったのかは、ネタバレもあって書きませんが、

 明けたると言いし夜はいまだ暗く、月は中空ながら、影ろうろうとしてひややかに…

 という、見事な上田秋成の表現が素晴らしいのです。
 この「吉備津の釜」を含めた著作「雨月物語」が、今も名作と言われるのは、単に怖がらせるだけではなく、その文章表現の巧みさが見事だからだと思うのです。
 上田秋成は子供の頃から病弱で、不思議な出来事や幽霊を信じるようになったと言われています。
 尚、「雨月物語」については、このnoteのサイトでも多くの優秀なクリエイターの方々が、記事を寄せています。関心のある方はどうぞ参照して下さい。


 


上田秋成(1734~1809年)

参考文献
「怪談 ほか」 講談社
「日本の幽霊」 池田彌三郎 中央公論社


 ここからは以前note のクリエイターさんのリクエストにも応える形で、「吉備津の釜」の結末について明かします。ネタバレがイヤな方は、閲覧禁止です。(笑)

 あらすじを簡略化しましたが、この物語にはもう一人の登場人物がいます。彦六という男です。彦六は愛人お袖のいとこという設定です。
 おまじないを正太郎に薦めたのは彦六で、正太郎の隣家に住んでいます。
四十二日の夜が明けたと思い、正太郎は嬉しさのあまり、隣りの彦六のところへ行こうとします。

 ここからは、その彦六目線で物語が語られます。

 彦六が戸を開けかけてた時、隣りの正太郎の軒先あたりで、
「ああっ」
と叫ぶ声がします。驚いて尻もちをついた彦六はおそるおそる起き上がって、そっと正太郎の家の方を見ます。
 家の戸は開いたままですが、正太郎の姿がありません。夜が明けたと思ったのは間違いで、月はまだ中空にかかっています。
 彦六は正太郎の家へ入ってみるものの、どこにもその姿はないのです。そして戸口を振り返ると、戸のわきの壁に生々しく血がかかって、下まで流れています。更に灯りをかかげて辺りを照らしてみれば、戸口の先に、男の髪の毛がひっかかっていて、それがばさばさと風に揺れているのでした。

 これが「吉備津の釜」の結末です。
 つまり、磯良の怨霊のまやかしによって朝が来たと勘違いさせられ、戸を開けてしまったばかりに、正太郎は怨霊に連れ去られた、という訳です。それを具体的な表現にせず、彦六の目線で語り、恐ろしい残痕を描くことで、読む者にそれを想像させる、というニクイ手法をとっているのです。
 
 また話題は変わりますが、この物語は古典であるため、慣れていない人には、理解に難しいという面があります(この作品に限りませんが)。しかし先に述べたように、原文である古文はとても魅力的です。
 例えば、愛人のお袖が死に、正太郎は里のはずれの野辺に墓をつくって毎日墓参りをする中で、ひとりの女に遭遇し、家へ招かれる場面があります。その時の情景を、上田秋成は、

 ”竹のとぼそのわびしきに、七日あまりの月のあかくさし入りて、ほどなき庭の荒れたるさえ見ゆ。ほそき燈火の光、窓の紙をもりてうらさびし。”

 
などと、素晴らしい雰囲気作りの表現をしているのです。古文と現代語訳で読み合わせてみるのも、ひとつの面白い発見があると思います。


「鳥取のふとん」

 「鳥取のふとん」原題「鳥取のふとんのはなし」は、「耳無し芳一」や「雪女」などの怪談を世に広めた、小泉八雲(本名ラフカディオ・ハーン)の著作「知られざる日本の面影」に所収されている奇談です。
 
 昔、鳥取の町に一軒の宿屋が店開きをしました。宿屋の主人は少しでも評判の良い宿屋にしようと、宿泊客に手厚いもてなしをすることを念頭においていました。
 そしてある行商人の男性を、はじめての客として迎えます。
 行商人は宿のもてなしを受け、酒を飲み、気分良く部屋に敷かれたふとんに横になりました。
 眠気にうつらうつらしていると、部屋の中から声が聞こえてきます。
「兄さん寒かろう」
「おまえ寒かろう」
 それは子供の声でした。行商人は部屋と部屋の仕切りが襖だけだったため、どこかの子供が迷い込んできたのかと思い、
「この部屋は違うぞ」
 と、そっと声をかけてみました。一瞬、しーんと静けさが戻りました。しかし、少しすると、また同じ掛け合うような声が聞こえてきます。
「兄さん寒かろう」
「おまえ寒かろう」
 行商人は途端に跳ね起き、行燈を灯して、部屋の中を確認してみます。が、人影はない。念のため押し入れまで探ってみますが、何もありません。
 不思議な気持ちのまま再びふとんに横になりました。
 するとー。また声が聞こえてきます。
「兄さん寒かろう」
「おまえ寒かろう」
 行商人は、この時になって、はじめてゾーっとするのを覚えました。なぜならその声は、自分のかぶっているふとんの中から聞こえてくることに気づいたからなのです。
 身の周りのものをかき集め、行商人は部屋を飛び出し、宿の主人をたたき起こすと、事の次第を訴えました。予期せぬ苦情に宿屋の主人は納得がいきません。
「お客様は酒を飲んで、悪い夢でも見たのです」
 しかし行商人は、金を払って出て行ってしまいました。
 次の夜、別な客が一夜の宿を求めて訪れます。そしてやはり夜中に、前夜の行商人と同じ苦情で主人は起こされてしまいます。納得のいかない主人は終いには客と喧嘩になってしまいました。
 主人は、きっと新規の開業を嫌った同業者の仕業だ、と思いましたが、今度の客は酒を飲んでいないー。念のため、客のいなくなった部屋に行ってみることにしました。
 そして部屋の中でじっとしていると、やがて、どこからともなく、子供の声が聞こえてきました。
「兄さん寒かろう」
「おまえ寒かろう」
 宿の主人は、その声がたった一枚のふとんからしていることがわかりました。そしてそのふとんを自分の部屋に持ち込んでかけて寝たところ、掛け合いの声は夜が明けるまで続いたのです。
 そのふとんは、古道具屋から買ったものでした。主人は翌日その古道具屋を訪ねましたが、店の人は何も知らず、その店よりも更に小さい古道具屋から仕入れたものであり、調べると、さらに元は貧しい商人から買い取って流れてきたふとんであることがわかりました。そして主人は、このふとんにまつわる、ある兄弟の哀しい話を知ることになるのでしたー。

 数々の怪談話を収集した小泉八雲の「怪談」は有名な著作ですが、この「鳥取のふとん」は、八雲が日本に来て、日本の印象記、観察記である「知られざる日本の面影」という二十七章からなる大冊に収められています。
 私は八雲の作品の中でこの話がいちばん好きです。怪談というよりは奇談の部類とも思いますが、哀れみの要素が入った、コワいけれど哀しくもある物語なのです。

 ラフカディオ・ハーンは、1850年、ギリシアのイオニア諸島のサンタ・マウラ島で生まれ、アメリカに渡るまで各地を転々とし、1890年に日本に来日します。そして島根県の松江中学校の教師になり、やがて小泉節子と結婚し、小泉八雲として日本に帰化します。
 八雲は神社や日本の風俗を研究し、古くから伝えられている日本の伝説や民話を愛し、東京に移住した晩年に、代表作の「怪談」を執筆するのです。そこには、妻であった節子夫人の多大なる協力がありました。その辺のことは、書物の解説に詳しくあり、八雲の知られざる側面、としても面白い話です。
 ちなみに、ろくろ首、という妖怪はだれもが知っていると思いますが、大抵は首がにゅ~と伸びるものとして描かれていますが、八雲の「怪談」に語られる「ろくろ首」は違ったものです。
 一人の僧侶が山中の宿で一晩を過ごすことになりますが、そこの住人たちはじつは「ろくろ首」という怪物たちで、夜になると胴体の首から離れ、頭だけになって浮遊し、僧侶を襲って食べる相談をする、という恐ろしい話になっています。資料によれば、享和三年に刊行された、十返舎一九の著作「怪物興論」所載の話が元になっているようです。

参考文献
「怪談 他四編」 ハーン 旺文社
「怪談 ほか」  講談社

小泉八雲 (1850~1904年)


「すいか」

 主に大正時代から昭和初期に劇作家、小説家として活躍した岡本綺堂による怪異譚です。

 享保十九年の江戸時代。
 本所に小さい屋敷を持っている稲城八太郎の奉公人、伊平はその日、主人のいいつけで、湯島の親類宅へ七夕に備えるすいかを持っていくことになります。
 伊平は三か月前に上総(今の千葉)から出てきて、江戸の道にあまり詳しくありませんでした。そのせいかその日も方角を誤り、風呂敷包みにくるんだすいかを抱えて、日も暮れ六つ(午後六時)に近い頃、下谷御徒町辺りを通りかかります。
 そこには辻番所があり、その前を通りかかろうとした時、番人の一人に呼び止められます。
「これ、待て。おまえの持っているものは何だ」
 伊平はすいかであることを告げますが、番人は中を開けて見せるように迫ります。
 伊平は言われたとおりに風呂敷包みを開けます。ところが、中から出てきたのは、女の生首でした。
 番人は驚いて、
「これがすいかか!?」
 と声を荒げ、ただ茫然としている伊平は縄をかけられます。他の番人も出てきて、その首をあらためたところ、それは三十才前後の、色白の醜い女の首でした。しかし不思議なことに、首の切り口から血が滴っていないのです。番人たちは再び首を風呂敷に包み、改めて伊平を取り調べることにしました。
 番人は伊平を問い詰めますが、もちろん伊平はすいかを持っていた認識しかなく、ただこの事態に怯えているだけでした。
 取り調べても、伊平に不審な点はなく、暮れ六つとはいえ、今の時分に首を持ち歩く理由に合点がいかなくなった番人たちは、もう一度改めて風呂敷を開けてみます。
 するとー。そこには、すいかがあるだけでした。転がしてみても、女の生首ではなく、ただの青いすいかです。
 この事態に伊平も番人も仰天するしかありませんでした。
 どんなに不思議であっても、すいかと確認した以上、番人たちは伊平を解放するしかありませんでした。
 しかし伊平はこの出来事が気がかりで、ひとまず屋敷の主人のもとへ引き返すことにしました。
 伊平が屋敷へ戻ると、主人の妻であるお米が出迎えます。縁側でお米が引き返してきた理由を尋ねますが、伊平は口ごもります。
「じつは、このすいかが…」
「だからさ、このすいかがどうしたと…」
 そう言いながら、風呂敷を開けたお米は悲鳴をあげます。伊平も驚きのあまり叫びました。すいかは、再び女の生首に変わっていたのです。
 騒ぎを聞きつけた主人の八太郎と客人の池部が出てきました。お米を押しのけて八太郎が風呂敷をはねのけてみると、それは、すいかでした。
 伊平が番所での出来事を打ち明けると、客人の池部は、一連のまやかしのような出来事を真剣に受け止め、すいかを割ってみてはどうかと提案します。そして、池部が小刀をすいかに突き立てて割ってみると、中から一匹の青いカエルが跳び出てきました。
「こいつの仕業かな」
池部がそう言い、主人の八太郎が尚もすいかの中身をえぐると、幾筋かの髪の毛が発見されます。女のものであるらしい長いその髪は、カエルの後ろ足の一本に強く絡みついているのでした…。

 この話はその後、すいかの出どころを調べる展開に及びますが、何とも不可思議な出来事としたまま終わります。

 この作品が面白いのは、じつはこの話が、М君という学生が友人の家に候した時に、所蔵から見つけた古い写本の中の「稲城家の怪事」という記事を読んだ、という現代の自分が語る舞台になっていることです。
 そして、自分自身も、すいかにまつわる因縁めいた奇怪な事件を体験することになります。
 江戸時代の怪奇を語るとともに、現代の話と二重写しにしている点が非常に興味深い読み物です。
 作者の岡本綺堂は小さい頃からおばけの話が好きだったと云われ、「青蛙堂鬼談」や「近代異妖集」などの怪奇物語を残しています。

参考文献
「怪談 ほか」 講談社

岡本綺堂(1872~1939年)


「牡丹燈籠」

 最後にとりあげるのが、この「牡丹燈籠」です。
 日本では、「東海道四谷怪談」「番長皿屋敷」と並ぶ、三大怪談話のひとつとも云われる有名な作品です。
 しかし、実はこの「牡丹燈籠」は、日本の怪談話ではありません。元は中国の瞿佑(くゆう)という人が書いた作品です。
 これまで映画化もされ、ドラマや落語に至るまで、日本の話として書き換えられて発表されてきたことから、日本の怪談と思われているのは当然のことでしょう。また、よほどマニアックな人ではないかぎり、原作自体を読んでいる人も少ないと思うので、あえてここでとり上げることにしました。

 瞿佑は中国明時代の文人で、この「牡丹燈籠」は伝奇小説「剪燈新話」の中に収められていたものです。それが江戸時代の日本に伝えられ、浅井了意による怪奇物語集「御伽婢子」で翻案され、明治時代に落語などで創作されていきました。
 瞿佑自身は書いたものが政府に嫌われ、辺鄙な場所に追いやられて、晩年は不遇であったとも伝えられています。

 その瞿佑が書いた、本元の「牡丹燈籠」のあらすじを、要約ではありますが、前四話とは違い、ここでは最後まで掲載しておきます。

 舞台となるのは、中国の東部浙江省にある、明州という町です。

 明州では正月の十五日の夜から五日間、町中に燈籠を掲げる燈籠祭が行われていました。
 この町に、喬生という若い男がいました。喬生は妻を亡くしたばかりで、意気消沈しています。その夜も、一人家の外へ出て、ぼんやりと町に揺れる燈籠の灯りを眺めていました。
 夜も十二時になり、家の中へ入りかけた時のことです。前の道を、二りんの牡丹の花を飾った燈籠を女中に持たせ、先に立たせて案内させながら歩く、一人の美しい娘が通りかかります。
 喬生はいっぺんで、その美しさの虜になり、見とれながら、どこに住んでいるのか、あとをつけてみることにしました。
 やがて喬生に気づいた娘は、
「何の約束もなく、月の下で出会えるとは」
 そう言うのでした。中国には月夜の出会いには深い縁があると言い伝えられています。喬生は思わず、
「私の家はすぐそこなので、ちょっと寄りませんか」
 と話しかけました。娘はそのことを承諾し、女中と二人で喬生の家へ入っていったのです。
 娘は、姓は符、名は淑芳(しゅくほう)と言い、女中は金蓮という名であることを喬生に告げます。もとは奉化州の書記官だった父親が亡くなり、家は落ちぶれ、他に身寄りもなく、女中の金蓮と二人で、湖水の西に仮住まいをしている、とのことでした。
 その晩、三人でかるたに興じ、酒を飲み、ひとり身になった喬生には楽しい時間が過ぎたのでした。夜明けになって二人が帰った後も、喬生の心には淑芳の美しさが離れませんでした。
 そして、またその日の夜も、二人は喬生の誘いのままに家を訪ねてくるのでした。
 そんなことが半月ばかり続いたある日、喬生の隣りに住む老人が、以前とは違う喬生の異変ともいえる気配に気づきます。奥さんを亡くしたばかりだというのに、毎晩若い女の声が聞こえてくる。それにめっきり顔色が悪くなっている喬生のことが気がかりでした。
 そこである晩、老人は壁の穴から、喬生の家を覗いてみることにしました。そして、仰天します。そこには喬生と並んで、化粧を施した骸骨が二体、目もうつろに喬生と戯れていたのです。
 あくる日、老人はそのことを喬生に告げます。はじめは取り合わなかった喬生でしたが、淑芳の異様な手足の冷たさを思い出し、ようやく事の重大さを認識するのでした。
 真相を確かめるために、喬生は淑芳の言っていた湖の西へ行ってみることにします。しかし、いくら探しても、淑芳たちが住んでいるという家は見つかりません。日も暮れ、疲れた喬生は、湖のほとりにある湖心寺という寺へ寄り、休むことにしました。
 喬生が寺の廊下を歩いていると、ひと間くらいの部屋があることに気づきました。そしてそこには、寝棺がひとつ置いてあります。貼り付けられた白い紙には、
 ”奉化州書記官の娘 淑芳のひつぎ”
 とあり、さらに棺の前に牡丹の花の燈籠がかけてあります。その下には葬式の紙張り人形が立っていて、それには ”金蓮” と書いてあるのでした。
 喬生は総毛立って、寺を飛び出しました。
 この世の者ではない亡霊にとり憑かれたことを知った喬生は、老人のすすめで、玄妙寺という寺の住職から護符を授かり、
「湖水の寺には今後絶対に行ってはいけない」
 と、戒められるのでした。
 ところが、それからひと月余り経った頃、隣町の友人を訪ねた喬生はしたたか酒に酔い、その帰り道、あの湖水寺の前を通りかかってしまうのです。
 すると、
「お嬢様がお待ちかねです。どうしてちっともいらっしゃらなかったのです」
 そう言って、突然喬生の袖をつかむ者がいます。それは金蓮でした。喬生は逃げようと必死になりますが、そのままずるずると寺の中へ連れ込まれてしまいます。そして、あの棺のある部屋へー。
 そこには、美しいままの淑芳が待っているのでした。
「どうしてこんな仕打ちをされるのです。私を寄せつけないようなことばかりして、お恨みします。もう二度とお別れはいやでございます」
 淑芳はそう言って、喬生の手をつかむと、寝棺の傍へにじり寄ります。すると、棺の蓋が軋む音をたてながら、ひとりでに開いていきます。
 喬生は悲鳴を上げる間もありませんでした。淑芳は喬生を抱きかかえ、棺の中へ飛び込んだのです。そして、棺の蓋はばたりと閉まり、辺りはひっそりと静まりかえるのでした…。

 それから幾日か過ぎ、喬生が家に帰ってきた気配がないことに気づいた隣りの老人は、胸騒ぎを覚え、話に聞いていた湖心寺へ行ってみることにしました。
 老人はやがて、あの棺の部屋へたどりつきます。そして不気味に置いてある寝棺の蓋から、見覚えのある着物の端が出ていることに気づきました。
 寺の住職と一緒に棺を開けてみると、死んで久しく日が経っている喬生と、まるで蝋人形のごとく生きているようにさえ見える、一人の娘の遺体があるのでした。
 寺の住職によると、
「この死人は、もと奉化州の書記官をしていた符さんの娘さんです。符さんが亡くなり、この娘さんも十七で早死にした。そしてこの棺をこの寺へ預け、家族は北へ旅立たれたまま音信がなく、もう十二年になる。こんな祟りがあろうとは…」
 ということでした。
 それから寺では、この娘の棺と喬生の亡骸を、裏の墓地へ葬ったのでした。

 そしてー。
 この後、霧の立ち込める日や、月の光のほのかな夜、細い雨に煙る夕暮れ時などに、一人の女中が牡丹の花のついた燈籠を掲げて先に立ち、その後ろを喬生と淑芳が手をとり合って、ゆっくり歩く姿を、町の人々が見かけるようになるのでした。
 それを見た者は、言い知れようのない不思議な気持ちになり、激しい寒気を覚える一方、夢のような気持ちに包まれるのでした。
 そうしてこの亡霊を見た者は重い病にかかり、喬生と娘のために法事を営んで供物を捧げれば快方に向かうが、そうしなかった者は皆死んでしまうのです。町の人々は、いつこの牡丹燈籠の亡霊に出会ってしまうか、恐ろしくてたまりませんでした。
 町の人々は玄妙寺の住職に助けを求めます。しかし祟りが始まっていては護符が役にたたないため、鬼神をもこらしめる法術を持つ、四明山にこもる鉄冠道人を訪ねるように言われます。
 人々は必死に山深い寺を訪ね、その名のとおり鉄の冠を被った道人に会い、お願いをするのでした。
 道人は一人の童子を連れて、山を下り、湖心寺の墓地へやってきてくれました。そして壇を作り、童子に鐘を叩かせて祈り、護符を焚いて、それを火に燃やしたのです。
 すると煙の中から、頭巾を被った金の鎧で身を固めている数人の男たちが現れました。
「この辺りにて、祟りをなす死霊あり。速やかに捕らうべし…」
 道人が命を下すと、鎧を身に着けた男たちは、どこかへ消えるように去ったのでした。
 しばらくすると、その男たちによって、鎖に縛られた喬生と淑芳、そして金蓮が引き立てられてきました。
「天国には破邪の使途あり、地獄には懲罰の火山あり、物の怪をして、その悪を許さず、鬼どもをして、その暴をほしいままになさしめず…」
 鉄冠道人はお経のようなまじないの言葉を与え、縛られてきた三人は、鎧の男たちによって、何処へか連れ去られていくのでした。
 役目を終えた道人は、童子とともに、山へと帰っていきました。
 こうして、牡丹燈籠の祟りはようやく止んだのです。
 町の人々は道人に後からお礼を言うため、再び山の寺を訪ねました。しかし道人のいた古寺は空っぽになっていて、その姿はどこにもありませんでした。

 長文になりましたが、これが「牡丹燈籠」の原作です。
 日本では淑芳と金蓮は吉原の関係者、喬生は元武家の侍などと書き換えらて創作されています。もっとも日本でこの「牡丹燈籠」で印象的なのは、亡霊の履く下駄の、カランコロンという音が落語などで効果的に使われたことでしょうか。原作ではまったく出てこないんですね。
 ボクがわざわざ最後までこの話を紹介したかったのは、後半の鉄冠道人のくだりが、創作として優れていると思うからなのです。今だったら、SFXでその場面が再現できそうな、そんな創造を古い時代にできた瞿佑の才能の素晴らしさに敬意を払いたいと思います。


映画「牡丹燈籠」の一コマ

 最後にー。
 ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。
 この掲載は、ボクにとっての挑戦でもありました。ただ個人の経験を書くのではなく、個々の作品をいかに紹介するか、とても試練であり、素晴らしい鍛錬になったと思う次第です。
 同業(?)のショートホラー作家の水無月マエクさんが自身の記事で、今回は難産だった、と呟いていたこともわかります。
 今やこのnoteに参加している人は、500万人とか。対してこの記事を読んでいただけているのは、2023年一月の時点で、14人。500万分の14です。しかし、ボクにはそんなことはどうでもよかったのです。この記事を発表することに意義があり、おばけ評論家としての絶対的ポリシーでした。
 いつかどこで、物好きな人が気づいて読んでくれたらそれでいい。何よりデジタルの時代に、消えつつあるモノを、忘れられないためにも、一人くらいこんな怪談記事を残しておきたかったのです。

 ボクの記事を自身の本棚に入れてくれている、晴れ。さん、とても励みになりました。ありがとうございます。
 今は卒業したらしいこの記事を掲載するきっかけを作ってくれた、クリエイターさんには、感謝しています。



 

 
 



 

 

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