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短編小説 スーツと裏切り者。(1447字)

プロローグ
三年通う恵比寿ガード下の中華食堂永楽楼でいつもの通り、
レバニラ炒め定食を注文した。
店は昼食ピークの後で、客は少なかった。
パートのおばちゃんが笑って中国訛りで
飲むか
と、水代わりにまかないのインスタントコーヒーを入れてくれた。
驚いた。
毎日通っているが、初めての事だった。
何故か優しさが区切りになった。
その後店には行ってない。


茂はスーツに袖を通したあの日をはっきりと覚えている。
悔やむことも無く、夢を売った日だ。
その日が高速道路の分岐点だった事は間違いない。
茂は軽い気持ちでハンドルを右に切った。
乱雑に立ち並ぶビル群から、どんどん遠ざかり整然と建ち並ぶ高層ビルが見えて来た、そろそろ高速の出口だ。
その日茂は長い髪を切り七三のリクルートカットにした。
頭が軽くなりサッパリしたのと同時に頭の中にあった、面倒くさく複雑に絡まり縺れ解けないテグス塊の様な夢も捨てた。
散髪したその足で、先日買った三つ揃えのスーツを池袋の西武百貨店に引き取りに行った、会計の八万円と一緒に昨夜抜いた約10センチ余りの白い牙を二本渡した。店員は怪訝な表情を浮かべていたが、
ここのゴミ箱に捨てるのが一番だと説き伏せた。
実は前夜に自分の上顎から飛び出している、日本画に描かれる虎にあるような二本の牙をペンチで引き抜いたのである。
酔い潰れそうだった為か、さほどの痛みでは無かった。
この日は忙しく茂は池袋から六本木に向かった。
この日シナリオ学校の仲間が送別会を開いてくれたのである。
仲間達から、新人賞佳作まで行ったのに勿体無い等の声を掛けてくれる者もいたが、喰い詰めた侍が志を捨て刀を捨て、町人に成る様に、
茂は実利を獲り、ある意味裏切者となった。
未練はなかった。
茂は大学を卒業し、一部上場企業のスーパーに就職した。
時代の子となり仕事に励み四十年が経った。
茂はサラリーマン生活を振り返り悔いている。
社命に従い疑わず、気づけば非道徳的且つ合法的悪行をやって来た。
資本競争の先兵となりショッピングセンターやコンビニの出店を指揮した。
その余波で、沢山の商店街が消えていった。
今は当時の様な達成感は無い、
過去への居直りも無い。
最近はその企業も古くなり陳腐化し淘汰される運命の様だ。

定年退職した今、茂に残ったものは、
鏡に映る深い皺が目立つ髯面で髪の薄い、どこか幼い老人の顔だ。
その顔に牙は無い。
しかし今、茂は浅ましくもペンを執っている。
四十年前の仲間の中には、売れっ子の小説家となり一時代を築いたCさん、放送作家として活躍し今は弟子を指導している者もいる。
勿論付き合いはなく茂は、彼らの活躍を知った時に、
ただ見上げるだけの存在である。
小説を書く事に疲れると、茂は余計な事を考えてしまう、今はただ書き続ける事が、最も重要な事で・・・
来週は応募した新人賞の発表がある。

新人賞の最終決定はA出版社の会議室で行われ、新人賞は決まった。
審査員達が会議室から出て来た、最後に出て来た審査員の
C先生が編集者に話しかけた、
佳作の○○さんの年齢て、分るかしら。
編集者の返答を聞いてC先生が言った
○○さん、まだ書いてんだ、
編集者が訊いた。
お知合いですか
たぶん、若い頃の知り合いじゃないかと思うの。
そう言うとC先生はエレベーターの方に歩き出した。


新人賞の発表の日、茂はパソコンを開いた。
佳作の欄に茂のペンネームがあった。
思わず上顎に手を伸ばしたが、・・・・
まだ牙は生えていない。
                                      おわり。









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