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8 1/2 (Otto e mezzo)

 就寝時間になると、カーテンや鍵を閉めるのはいつも夫。そして朝になってカーテンを開けて日差しを家の中に取り込むのは私。

 これは誰が決めたわけではないけれど、家族の中での役割だ。私が妻であり母であるのと同じように。これはそれぞれの性格でもあり、また自身が家族に対してしてあげたいことの象徴であると私は理解している。

 家族に対しての「役割」というのはまだいいのだけれども、それでは夫に対する私の「役割」とはなんであろうという考えに行きついてしまうと、少し萎えてしまう。夫に対して私が「仕事」をしているように聞こえるし、夫が何かを達成するためのその踏み台にしか自分がなっていないような感覚を憶えるからだ。

 フェリーニの「8 1/2」の浅瀬で見られるテーマはこういうことだと思う。主人公グイドの幻想が様々映画には登場するが、その中でも一番わかりやすくて印象に残るのは彼のハーレムの世界ではないだろうか。そこには彼の人生に登場した十人十色の女性たちが登場し、彼を温かく家へ迎え入れる。それぞれがグイドのことを形は違えど愛しており、そして互いに嫉妬を感じず仲がいい。みんながグイドのためを思って協力して、グイドを幸せにしようと努めている、彼にとっての理想郷である。その家には「27歳以上は2階に住む」というあまりにも不公平な独断と偏見による規則が定められており、その規則に対してはさすがにブーイングの嵐が巻き起こる。(「70歳まで愛される権利があるー!」など叫んでいる女性もいて、その年齢の線引きをまた女性自身で行っていることに笑ってしまうけれど)彼にとってのハーレムのはずが、彼を前にして女の強さが弱まることはない。

 そんな時にも慎ましやかにグイドに優しく味方するのがアヌーク・エメ演じる妻ルイザである。この幻想の中ではしかし、美貌もあまり目立たなく存在感のないかんじで、ただただグイドを支え家事を取り仕切る女性として描かれている。彼女個人が描かれない。彼は理想郷の中に理想とする妻を作り出したにもかかわらず、それは結局、その理想郷を悲しみに包む結果となってしまった。

 「彼の女の趣味がよくわかる」というセリフがあったけれど、むしろ彼はいろいろなタイプの女性からいろんなエキスを味わっているようにも見える。例えば妻は聡明で品のあるタイプの人だが、一方で愛人はわかりやすく派手な女。あとは子供の頃に初めて出会った性欲の象徴のようなDonna di Fellini。(フェリーニの映画によく出てくる大柄で胸もお尻も大きい女の人)聖霊が見える姉のような存在。若くて不安定そうな女学生。それぞれに対しグイドは自分の役割を果たしながら、自分を律している。しかし1人若くて美の象徴のようなクラウディア・カルディナーレ。彼女のような存在はフェリーニの人生には登場しなかった。

 言うまでもなくグイドはフェリー二自身である。自分の話のような映画。それで彼は何をしようと言うのか。

 彼の両親も幻想に登場する。明るすぎる真っ白い場所。天国から一時戻ってきているような両親の姿。子供として一応心配はする。「お父さん、今いるところは良いところなの?」子供として親を心配する一面を見せながらも、自分の姿はいつのまにか神父になっている。「お前とルイザは理想の夫婦だ」と父に言われる。実際には破綻しかけている夫婦仲だが、親の思いとの隔たりを感じる。

 最後にはみんな真っ白い、モノクロにしてもあまりにも白い世界になる。役割とかなにもない平たい世界。彼の幻想かはたまた彼の死後の世界か。


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