「ハズし」が浸透してから芸術はフリータイムに突入した


アートは、技術の基盤がしっかりとした上で一般的な人にも支持されるような凄く分かりやすい皮肉的な表現を入れたものが受ける事もあれば、ナンセンスとかヘタウマにもならない、只のヘタと思ってしまう表現でも、有識者が深読みして「敢えてやってるんだろう」と解釈したり、運良く時流に乗ってしまえば、技術をしっかりと持っている芸術家達をごぼう抜きして支持される事もあるので、良し悪しの基準がほとんど無いというか、無いからこそ良いような、最も自由な世界ではあると思うんですが、よくよく考えたら採点基準が曖昧な表現の世界は全てそういうもんで、それは映画や映像表現の世界に関しても同じで、結局は有識者の主観が先に来て、その生理を肯定するために、過去のデータを沢山引っ張り出して照らし合わせて世間に説得力を持たせる、説得させて良し悪しを決めてしまう分野なんで、アートよりも息苦しいけど、やっぱり「曖昧」という余地がある所は同じだなと思う訳です。

本題ですが、「ハズし」という「敢えて」「逆に」「一周して」が何周もしてしまう価値観が世間一般に広く浸透してしまった今、有識者が映画の世界の良し悪しを独断する意味は、更に薄まって行ってる気がします。

そして、その「ハズし」の浸透は、絶対に収益を上げるためにあらゆるデータと最新技術とアイデアを凝らして作った商業映画と、ひたすら自分の衝動を映像表現にぶち込みたいという目的で作られたアングラ映画との棲み分けも、これから益々曖昧になっていくと思います。
アーティスティックもエンタメも同じ板の上という時代になっただけでなく、天才が圧倒する訳でも無い時代が来ている。
有識者さえも要らない、アートよりも自由過ぎる時代は、すぐそこ。

本題より前置きの方が長かったか。



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