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オヤ、ツマ、オンナ

友香には、この春、アパレルメーカーに就職が決まった、ひとり息子の喜里矢がいる。
友香は、喜里矢をいつも溺愛している。
幼少期から取り組んできたサッカーや演劇の活動など、常に喜里矢を全面的にサポートしてきた。
喜里矢が周りの友達から、お前はマザコンかと揶揄されると、友香はより一層、喜里矢への愛情を強く注いだ。

夫の正志は、医療関係の仕事を二年前に立ち上げ、順調に成果を上げている。
夫婦仲はどこにでもある、可も不可もない、空気のような関係だと、友香は常々思っていた。仮に正志に、自分以外の女性がいても、友香は見てみぬ振りをするつもりでいた。
経済的支援だけあれば、永遠に仮面を脱ぐことのない夫婦でいることに、耐えぬける自信があった。
社会的ダメージを恐れる正志と、喜里矢から見た母親という象徴に応えたい友香の心情は、何とかバランスを保っていた。

「おい、携帯のバイブが鳴りっぱなしだぞ」
正志は、録画していたバラエティ番組を見ながら、友香に言った。
ディスプレイに映った名前を見て、友香は瞬時に電源を長押しした。
しばらく動悸が止まらず、冷蔵庫を開け、夜の献立を迷っている演技をした。
頭の中に、過去の記憶が甦る。もう完全に記憶を断ち切ったはずなのに…
フェイスブック、インスタ、ツイッターなどのメッセージ機能は、すべてブロックしていた。唯一、電話番号の登録だけは残していた。
まさか、直接電話をかけてくることはないだろうと盲信していた。後で着信拒否設定をすればいいと、自分に言い聞かせた。

十年振りとなる、彼からのコンタクトに、心が揺らぐことはない。もちろん心配も不安もない。ただほんの一瞬、彼と愛し合ったシーンが映像として甦った時、昔感じた絶望に包まれた後悔が、友香の胸を一層苦しくさせた。
最初から最後まで、そこに愛などなく、ただの行為だけであったことを、友香は覚えていた。その行為が、事実として残っていても、感謝や慈悲の気持ちなど、最早微塵もない。

テレビを見ながら、大笑いしている正志と喜里矢を横目に、お気に入りの白のワンピースを、クローゼットから引き出し、自分を鏡に重ねてみる。
「今日のシチュー、めちゃくちゃ美味しいね!」二人は互いに、三杯ずつお代わりをした。
友香の涙が、鍋の中に数滴溢れ落ちていたことも、友香が家庭から離れた空白の時間を持っていたことも、二人が知ることはない。

自活屋 徳々

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