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第四回 みろよ青い空、白い雲

by 小山 和智

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M子・T雄が幼稚園に通っていた2~3年間は、日本の童話や童謡の知識を学び直す懸命な努力の日々でした。持ち前の人懐っこさと探求心で飛び回りつつも、二人は「自分の頭の中が混乱している」という苦しさや悲しさも抱えていました。
でも帰国後1年余りが過ぎ、子どもたちも“狭いおうち”の暮らしにすっかり慣れたころ、家内の妊娠が判明したことで状況は変わりはじめます。お祖母ちゃん(家内の母)が泊りがけで手伝いに来てくれて、温かい笑顔で二人を包むように世話をしてくれるようになったのです。
そして赤ちゃんが生まれてくるという明るい希望、また生まれてくる子が成長していくことに寄り添える幸せの予感が、たいへんな毎日をずいぶん明るいものにしてくれました。

いとこたちと集まるのは初めて(1989)

いつまでも消えないもの

M子の友達のお母さんから、「M子ちゃん、すごいねぇ。毎朝(幼稚園の)お聖堂みどうから下駄箱を通って階段を2階に上がっていくまで、ずっと話し続けてるんだよ」と聞いたことがあります(注 1)。積極的に日本語を話すことで、崩れそうになる知識の山をなんとか押しとどめようとしていたのでしょう。
T雄も、友達からどんなに“のけ者”にされても離れず、いっしょに遊ぼうとしていました。何百回「ねえ、何してるの?」と口にしたでしょうか。幼稚園から帰って昼食を済ませると、今度は公園に飛び出していって、お年寄りや近所の子たちと遊びながらいろいろ教えてもらっていました。

注1)子どもたちが通っていたカトリック系の幼稚園では毎朝、登園するとお聖堂に入り、拝礼して「神様、どうか私をよい子にしてください」と祈ってから教室に向かいます。

インドネシアでの経験を維持することについては、とても手が回りませんし、「どうせ忘れてしまうのだから」というあきらめもあって、私たち夫婦は全然気にかけていませんでした。しかし、いつまでも消えないものもあったのです。
まず「虫のしらせを知るセンサー」のようなもの・・・・・・私たち夫婦ですら気づかずやりすごしてしまうような小さな情報や信号、あるいは音声・振動などを感知しています。きっとジャカルタで慣れ親しみ、身に覚えのあるものなのでしょう。
たとえばM子は、人の声の抑揚や“無音の子音”、遠くの鳥の声や虫の羽ばたきが聴き分けられます。T雄の場合は、モーターの異常音あるいは大人同士のヒソヒソ話などから異常や危険を察知したり、逆に幸運が生まれてくる方向を確信したりして、「超能力か?」と思うほどです。

もう一つは「体に染みついている癖」のようなもの・・・・・・たとえば発音、特に河内弁や広島弁に似た [r] の巻き舌は東京の子どもには耳障りなほど強いですし、また握手するときに思わず左手を添えるといった反射的な仕草も、消えずに残っています。
ちょっとダンスをさせても、手つきがバリ舞踊に似ていたりなんとなくジャワ舞踊みたいだったりもします。お辞儀もなんとなく浄瑠璃人形っぽいし・・・・・・いつも背筋をきちんと伸ばしているので、時と場合によっては不遜に見えることもあり得ます。

これらは貴重な資質ではあるのですが、幼い子の頭脳では処理しきれない情報に溺れそうになるし、周りの子から浮くという厄介な結果さえ引き起こしかねません。誤解もされやすいでしょう。
「器(Capacity)が広くなっている」ことが彼らにとってかえって重荷(Handicap)になっているように見えましたが、それでも子どもたちは育っていくのです。「それは障害ではなく個性なのだ」と思って生きていけるよう、自尊心だけは守ってやらなくてはと私は思っていました。

七五三のお参り・自転車の練習(1989)

ジブリ作品とファミコン

M子もT雄も、絵本を音読したり文字を書いたりすることは、小学校に入学するまで苦手なままでした。特に登場人物の心の動きを想像しながら読み進めるような物語の類は、語彙の絶対量が不足しているせいか、楽しむことはできなかったようです。
二人が幼稚園時代に子どもの世界で生きるために必要な情報を得ていたのはもっぱらテレビ番組とビデオで、とりわけ『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』、『魔女の宅急便』、『おもひでぽろぽろ』、『紅の豚』などスタジオ・ジブリのアニメは、二人の“教養”のもととして大きなウエイトを占めていました。
たとえば『となりのトトロ』は、ジャカルタからよく遊びに行っていた田舎のことを思い出させてくれたようです。あるいは母親が入院しているという物語設定も自らの原体験(家内は腸チフスなどで入院していたことがあります)と重ね合わせていたかもしれません。M子は姉妹の葛藤やそれぞれの妄想の世界に、ずいぶん共感していました。T雄は大トトロや猫バスなど、ジブリ作品に出てくる“動くもの”に想像を膨らませて楽しんでいましたが、日常を忘れるために格好の時間だったのでしょう。

日常を忘れる時間といえば、任天堂ファミコンにもお世話になりました。サンリオ系などさまざまなキャラクターを使ったテレビゲーム(アプリ)がたくさん売られていて、それらのキャラクターに親しみながら親子で楽しんだものです。
副産物として、子どもたちの反射神経を養うのに役立ったかと思います。当時は、最近のゲームのように目まぐるしく複雑に展開するのとは違って単純なものが多かったので、子どもに自由に触らせても心配はありませんでした。
意外だったのは、機械的なオモチャに触るのが苦手なM子が、ファミコンには「のめり込むように」遊んでいたこと・・・・・・何かを吹っ切りたいような集中力を見せていました。
ちなみに『ドラゴンクエスト』はカタカナの文字を速く読まないといけないので、うちの子たちには不評でした。

最強の家庭教師が現われた

M子が年長組、T雄が年中組の夏休みに、広島に住んでいるお祖母ちゃんが、妊娠している家内を手伝うためにやってきました。いっしょに寝起きしながら数か月過ごせるのですから、子どもたちは大喜びです。
お祖母ちゃんも、孫たちのことばが帰国直後に会ったときよりも後退していることに驚き、力のかぎり話し相手になってやろうと奮起してくれました。

安産祈願の初詣・広島の田舎で遊ぶ(1990)

幸い華道・茶道・書道の素養があるので、日本の習慣や礼儀作法、そこに込められた心などをやさしく繰り返し教えてくれます。またおとぎ話も、テレビの『日本昔ばなし』とは違うバージョンを声色入りで演じてくれます。
また習字の手ほどきもしてもらって、おかげで二人とも毛筆だけは形よく書けるようになりました(なぜか鉛筆やボールペンだと金釘かなくぎ流ですが)。
それ以降、お祖母ちゃんは毎年数か月、東京に遊びに来てくれるようになりました。6畳2間に6人が暮らすのは楽ではありませんでしたが、孫たちが幼稚園などで「あっちにぶつかりこっちで傷つく暮らし」に寄り添ってくれたのです。

秩父の芦ヶ久保の自然の中で

お祖母ちゃんのほかにももう一人、強力な助っ人すけっとが現われました。帰国して1年くらいたったころ、私の大学時代の恩師T先生が秩父山中の芦ヶ久保にある仕事場に招待してくださいました。豊かな自然の中で宿泊できるのは、私たちにとって天国です。
M子もT雄も数年ぶりの“別荘お泊まり”に大興奮でしたが、最初は先生のことを別荘の管理人か何かだと思ったらしく、車を運転している先生に「おじさん、あそこへ行って!」などと、あれこれ注文します。私たちが慌てて注意しようとしたら、先生は「いいんだよ」と制止されました。“孫”同然に思われていたのです。

先生は仕事で忙しくしていらっしゃるので、いっしょに食事をするとき以外は、私たちだけで野山を散歩したり河原に水遊びに行ったり、のんびり自由に過ごせます(料理は先生と家内が担当。私は洗濯と掃除、庭の草抜きをする程度)。
寝室の窓の下ではクレソンが自生していますし、夏にはそこでオニヤンマが何匹も羽化します。庭の向うには野生のセリやワサビが生えた小川があり、周囲の果樹園では大きなキジが悠然と歩いていて、ときどき「ぺーッ」と鳴きます。
夜になると、M子は天下の大先生(私より20歳年上)を相手に自説を述べたり“今日の探究”を報告したりしますが、先生は楽しそうに聞いていらっしゃいます。T雄とは、初期のパソコンに触らせながら遊んでくださいました。

T先生は数か月ごとに「遊びにおいで」と誘ってくださって、先生の仕事場が私たちにとっての“実家”のようになりました。子どもたちは、先生がどんな疑問に対しても考えるヒントを与えたりいっしょに考えたりしてくださるので、毎回“探究の課題”を抱えて訪ねます。そうして宝物のような時間がゆったりと流れていきました。
なお、私の本当の実家は広島の農村にあり、帰省すれば子どもたちは本当の祖父・祖母と遊べます。とれたての野菜や果物も食べ放題だし、シラサギやカワセミ、あるいはトンボやカブトムシなどもたくさん見られます。しかし東京からは遠いので年に一回も帰省できませんから、芦ヶ久保はありがたい“故郷”でした。

最後のピースがはまった

M子もT雄も日本語のシャワーを浴びてきた絶対量が不足しているため、言い間違い・聞き間違いはつねにあるし、不用意に「ウシを食べる」「ブタを食べる」と言って(「ギューニク」なんて言葉を知らないから)周りの子から気持ち悪がられることも・・・・・・。それをきっかけにからかわれたり馬鹿にされたりすることも少なくありませんでした。ときには幼稚園で“のけ者”にされて悲しい思いをすることもあったようです。
しかし“泣き言”や愚痴を言うことはありませんでした。数年後に判明したことですが、親に余計な心配をかけたくなかったそうです。二人ともジャカルタ以来、どんなにいやなことや悲しいことがあっても「起きてしまったことは仕方ない」「この人も、たまたまそうしてしまっただけさ」と考えて忘れる癖を身につけてしまっていたようです。親としては、なんとも切ないのですけど・・・・・・。

植木等の歌『だまって俺について来い』(注 2)をお祖母ちゃんに教えてもらってから、この歌は我が家のテーマソングになっていました。どんなにつらいときでも「♪みろよ青い空、白い雲・・・・・・」と皆で歌って笑顔をつくるのです。そうすると自然に力が湧いてきます。
そして次女のC子が生まれると、「我が家の最後のピースがはまった」という感慨を私たちは抱きました。4年前に次男を亡くして以降、ずっと“ジグソーパズルの最後の穴”の感覚を抱いていたので、「これでもう大丈夫!」という自信が湧いてきたのです。4年分の愛情をこめてC子が成長していくことに寄り添えることも、家族全員、本当に幸せでした。

注2)東宝映画『ホラ吹き太閤記』(1964年)の主題歌で、植木等が歌った。その後もいくつかの映画で挿入歌に使われた。作詞は青島幸男、作曲は萩原哲晶。

大雪の朝、赤ちゃん誕生でガッツポーズ(1990)

やがてM子もT雄も小学校に上がります。うろ覚えのことわざや「犬棒かるた」を口にして笑いを誘うのはあいかわらず日常茶飯事で、さまざまな珍問答をしたり“とんちんかんな行動”をとってあきれられることも多発しました。
それを身近に見ていて、私は“TCKの苦労”について自らの不勉強を痛感するようにもなります。「我が家の最後のピースがはまった」のを機に、私自身も「新しい学びに挑戦しよう!」と考えるようになりました。

夏祭りにお出かけ(1989)

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