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本日も軽快に少子高齢化へ拍車をかけていく男、その名もブラ男。


ただいま。ブラ男です。

ブラック企業に転職してみた系の男。ブラ男です。

決してブラジャー着けてる系男子ではありません。


ブラック企業で働くさまを日々SNSに書き留めています。

そして、ここは僕の「自宅」。

僕が不定期に運用している様々な発信ツールの中でも僕の思考がコンテンツ化されずにそのまま発信されるいわゆるオフショット的なやつ。


突然だけど、僕は子供が好きである。

外ではそんなに笑う事が少ないから、よく意外と言われもする。

声がめっぽう低いから、たぶん「ごはんでちゅよ~!」とか周囲は想像に値しない男なのだろう。しらんけど。

僕は子供が大好きなのである。

もう明日にでも欲しい!と言わんばかりのテンションである。


が、しかし、だからこそ、「出産をする。」という行為は僕にとって重いのだ。(いや、実際にするのは女性だが。)

本当に色々と考えてしまう。


よく子供ができるというイベントに対して、巷で議題で上がっているのはやりお金。

勿論お金も大事。

でも、僕はもっとキモイ事を考える。


そもそも、自分の子供を一生愛せるのか?


「そんなの産んだらなんとかなるよ~!」と聞こえそうだ。

わかっている。

それが本能なのかもしれない。

でも、おかしいのだ。

もしよく言う「産んだらなんとかなる」のであれば、虐待やネグレクトなどはこの世に存在しないのだ。

愛という表現にすり替えて自分の寂しい気持ちを選択肢のない子供にぶつけるなんてもっての他である。

自分が絶対的な自信をもって愛せると言い切れない限りは、子供を作るのが怖いのだ。


年功序列の崩壊はけっこうイタい。


年功序列が活きていれば、20代に子供を作っていた事だろう。

役割が明確化されているのだ。

男性が働き、女性が育児をする。

出世にあたり性別に対して寛容な職場であれば勿論その逆もいいだろう。

定職に就いている男性と結婚をすれば女性は安心だ。


サザエさんをイメージするとかなりわかりやすい。

役割が明確なのだ。

いつも夕飯のシーンカットがカーテン越しのそれぞれのキャラクターの笑い声から始まる過程。

僕は夢見ている。


だが、年功序列が崩壊し、家族内の役割や体制を自分自身でデザインする事が非常に重要視される事となった。

年功序列が崩壊し、男性の給料はそう易々と上がらなくなった。

ダブルインカムが普通となり、女性側の負担が多くなったのだ。

育児もやって家事もやって労働も・・・・って女性はソレもう生きる事がブラック企業になりかねない。

いや、名誉のために言わせてもらうが、僕は絶対育児に参加するだろう。


でも、夫婦でお互いに疲弊していたら?

お互い余裕がなかったら?

育児タスクのお見合いでケンカになってしまったら?


そう考えると怖くなる、身震いがする。

夫婦どちらかの両親をアテにし出してはオシマイだ。

定年退職した親の体に鞭打ってさあ!これからが育児の始まりだ!なんて酷過ぎる。

親は僕たちを育ててくれたけど、親だから育ててくれたのだ。


両親は頼めば断らないだろう。

かわいい孫だ。きっと頑張ってしまうのだ。

僕は親族にやりがい搾取を強いるのか?

両親は育児マシンじゃない。

年功序列が崩壊している事を新卒1年目で感じた時、目の前が真っ暗になったのを今でも覚えている。


家族をデザインする自信はあるのか?


年功序列の時は、家族のデザインがほぼ一律化されていた。

社会のしくみがそのまま家族に反映されていたのだと思う。

昨今、自分の家族は自分でデザインしなくてはいけない。

夫婦でしっかりと話し合える体制が必要だ。

そもそもダブルインカムでコミュニケーションを減らしている場合ではない。

デザインできなかった場合、そのツケは絶対に子供に皺寄せがくる。

でも、こんな論調が世にはある。


いやいや、ブラ男はん。子供はなんだかんだ家族仲良けりゃ幸せでっせ。


ちょっと待て。

あまりにも独りよがり過ぎないか?

子供には比較対象がない。

前の家族はバチクソ退屈だったけど、ブラ男の子供でよかったわああなんて言うはずない。

(たまに前世の記憶を持った子がいるらしいが一般論ではないので割愛する。)


そこが怖すぎる。

情緒的な思考を除外してかたっ苦しく考えすぎなのかもしれない。

でも、考えてみてほしい、命の創出は簡単なものではない。

産んだら終わりなのではない。

産んでからがスタートなのだ。


家族をデザインする必要があると感じたのは。

世の中にモンスターペアレントという言葉が流行りだした時。

「教育」「育児」「家庭」の構図が崩壊し出したと思った。


年功序列で男性の収入が安定していた時代。

専業主婦として親が家にいる場合、それが一般的だった時代。

幼稚園や保育園は子供の「社会経験」のひとつだ。

園で起きた事にそこまで目くじらを立てる親はいなかったはずだ。

先生に怒られるという行為ですらも社会経験だ。

僕は先生にびんたされた事があるが、親に泣きつくなんて論外だった。


先生にびんたされるような事やってんじゃねえよボケナスが。


これでオシマイなのだ。

だが卑屈になる事はなく、僕が悪い事をしたから今この現実があるのだ。と因果関係を成立させる事となる。

教育における暴力はあまりにも属人的なスキルなので、それを振るう側がコントロールする事と教育として肯定する事の難易度はかなり高いけど・・・。

僕は暴力や体罰を肯定したいのではない。


図工の北島(先生)に五十嵐が一撃やられたってよ。仕返ししようぜ。


と、粘土創作の授業で男性生徒の8割がドラゴンボールを制作した時、願いはおろか神龍は召喚されず、僕たち男子陣が職員室に召喚される事になったのは、学校や幼稚園、保育園といった教育機関を「教育機関」でムチャしたと自身が確認するには十分な出来事だった。

(その時代でさえ、現代社会におけるモンペと呼ばれるであろう親はいたが、子供ながらに「アイツにドラゴンボール作らせたら親が召喚されるからやめとこうぜ」と自粛して頂いていた。)

少し話が逸れた。

僕は体罰を肯定するためにこの記事を書きたいのではないから話を戻すとする。


では、モンスターペアレントが流行りだした現代はどうか。

完全に、「教育」や「家庭」そのものをデザインし切れず、教育機関に丸投げをしている構図である。


学校って真っ当な人材を育てる場所でしょ?


戦慄が走る。

前例のない超前衛的なデザインを協力会社にオリエンテーションゼロで発注した時に、「よしなにやっといて」と言っているのと同じである。

わかるかい、そんなもん。

教育機関は元々ある姿を変わらず提供し続けている(と思いたい)から、ダブルインカムで教育熱心な現代の親とほどギャップが発生するのが怖いところである。

年功序列が崩壊し、ダブルインカムが当然になった今、子供の社会で起きた事をフィードバックする場がなくなってしまっているのだ。


僕が親になった時、そんな事態は絶対に避けたい。

フィードバックをディレクションするには、子供の話しにいつも耳を傾けなくてはいけない。

子供の「生きる」進捗のヒアリングが絶対的に必要なのだ。

そんな中、夫婦ともども疲弊しきっていて、自分自身の仕事のディレクションに一杯一杯だとしたら。

子供の些細な変化に気づけないとしたら。

僕はそんな状態で子供を作りたくはない。


奥さんが専業主婦だったとしても、そんな大変なプレッシャー一人で感じてほしくない。

僕には家族をデザインする自信があるのだろうか。

いや、残された時間でデザインできるのだろうか。


子供なんて産んじまえば勝手に親になるんだよ。


たまにこれも言われる。

だが、そういう事じゃないのだ。

僕が言いたいのは。

僕が言いたいのはこういう事だ。


命の創出という神々しい行為を、自身の成長のギャンブル要素に使うな


子供は愛さなくてはいけない。

愛すというのは、心を鬼にする時もあり、許す事でもあり、見返りなく、対象者の幸福を一心で願う事でないといけない。



自身が子から親になる過程のギャンブルにもし失敗したら?

まじで笑えない。



キャー!カワイイー!俺も子供ホシィー!いやーん!ほっぺプニプニー!



社会に責任を転嫁しているつもりはない。

そう見えてしまっていたら、ごめんなさい。

僕は子供が大好きなのだ。

公園で子供がはしゃいでいたら、僕も参加したいのだ。一緒に砂場遊びをしたいのだ。(もし僕が人生諦めたら不審者のレッテル上等で人生の棒をフルスイングしながら砂場に突撃することだろう。)

だからこそ、色々と考えてしまうのだ。

じゃあ、どういう状態なら子供を作るのか。



僕一人で二人分の生産性を担保した時だ



それなら、課題解決の短縮に必要なお金も稼ぎながら、確実に我が子の話しに耳を傾ける事ができる。

僕は子供が好きなのだ。


産みたーい!と言っているのはいつも親である。

子供が産まれたーい!と発言はこの世では存在しない言葉。




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ブラック企業に転職してみた。


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