花雪
役人が、遊郭で客を殺した幼い娘を取り調べている。
三度目の調べだ。
遊郭に囲われていた娘の源氏名は「花雪」、歳は十五歳。
事件の内容をおおざっぱに書けばこうだ。
花雪は丹波の生まれ育ちで父は寺侍。
寺が戦さの中で焼け落ち、主な僧たちも幾人かの同輩も命を落とした。
幸い父は生き残ったものの、寺が無くなり途方に暮れていた。
そこに京の大寺から寺侍としての誘いがきた。
だが花雪はまだ幼く母も腰痛ですぐには旅ができない。
なので父が一人で先に行くことになった。
「迎えを出すまで時間はかからぬ。しばしの辛抱じゃ」
父は、あわただしく京に向かった。
大寺まで男の足でおよそ二日足らず、遠くはない。
母も花雪も安心していた。
ところが何日経っても父から知らせがない。
すると大寺から逆に書状がきた。
「いまだお見えになりませぬ、いかがなされたのでありましょう」
何かあったのか、父は大寺に行っていない。
それを知ってか、二日後に押し込み強盗が入った。
花雪は押し入れに隠れたが、母が殺されてしまった。
父は行き方知れず、母は悲憤の死、家の銭も奪われ、花雪は一人になった。
母の葬儀は親戚や近所の助けですんだが、父の行方はわからないまま。
そして花雪は母方の祖母を頼ることになった。
ところがこの祖母は花雪と血がつながっていないばかりか、性格が悪い。
祖父の後妻で母との折り合いも悪く、花雪にも冷たく、花雪自身も祖母が大嫌いだった。
それを知っている他の親戚の者たちが「うちで預かる」と言ったが祖母が猛反対した。
義理とはいえ自分の孫を他家に預けては沽券(こけん)にかかわると言い張ったのだ。
花雪は結局祖母の元に預けられた。
花雪は家を去るとき、後ろを振り返りながら親戚や近所の人々に何度も何度も頭を下げていた。
祖母はその日から花雪に冷たく当たった。
そして花雪は早くも三日後には姿が消えた。
買い物に出かけたまま帰ってこない、と祖母が大騒ぎした。
だが花雪を消したのは祖母本人だった。
どこへ消したのか、女衒(ぜげん)に売ったのだ。
女衒は女を売り買いするのが稼業であり、行く先はもちろん遊郭である。
祖母は花雪を女衒に売って銭に替えたのだ。
あまりの変転と大人の醜さに花雪は気が狂いそうだったが、それでも短気を起こさなかったのは侍の娘という誇りと自尊心があったからだ。
女衒は花雪に乱暴はしなかったが、それは優しいからではなく、無傷なら侍の娘は高値で売れると踏んだからだ。
遊郭に連れ込まれ脅され恫喝され、遊郭の主人はこう言った。
「お前の名前はいまから花雪じゃ。わしの言う通りにすれば楽もできるが、逆らえば生きておることを後悔することにもなる」
花雪はさすがに泣いたが、主人や女衒は横で世間話をしていた。
遊郭での生活が始まった。
寺侍の娘で読み書きもでき、立ち居振る舞いも十五歳とは思えないほど大人びていた花雪はすぐに大勢の客の目に留まった。
遊郭の主人が女房に言った。
「花雪は法外な値段でも買い手がつく。店には出さずに顔見世をしながら値段を吊り上げるからな」
主人と女房はせっせと花雪を客の席に入れて見せ回った。
だが花雪はへこたれなかった。
何があろうと、生きていればいつか必ず父に会える、という希望があったからだ。
そんなある日の夕暮れどき、旅の埃と汚れで顔を赤黒くした侍が店の暖簾をくぐった。
「部屋は開いておるか」
帳場にいた線香婆がすぐにかしこまった。
「これは、お武家様、お部屋は開いております」
線香婆が聞きもせぬのに侍は勝手に名乗った。
「拙者は遠山景時、丹波から京にいく途中じゃ、居心地が良ければ二三日逗留したい、銭は持っておるで案じるな」
「すぐに部屋にお通しいたします」
「酒と飯と、それに女もな」
線香婆は女郎を四人ほど遠山の席に入れた。
宴会が始まり、遠山は女郎二人と明け方まで同衾していた。
翌朝、女中たちが朝飯を遠山の部屋に運んできた。
その中に花雪の顔があった。
遠山が女中に尋ねた。
「この娘、今夜呼べ」
「顔見世のみにございます」
「銭ならあるぞ」
「いくら積まれても無理にございます」
「狙っておる客は多いのか」
「もちろん。少々の銭では屁にもなりませぬ」
「丹波の武士、この遠山景時の言うことでも屁か」
そのとき花雪の身体がピクッと動いたが誰も気づかない。
花雪が小さな声で言った。
「遠山景時さまとおっしゃるのですか」
「ああ、そうじゃ」
花雪はうつむいたが、目は別人になっていた。
それにも誰も気づかない。
花雪は探るように続けて言った。
「丹波とはどのようなところでございますか」
「あ~、ええところじゃよ」
そう言ったきり遠山は黙った。
(この侍、噓じゃ、丹波のことを知らぬ、まさか)
花雪は遠山が丹波の者ではないことを見抜き、そして考えている。
「花雪よ、こっちへこい」
「だめです。花雪よ、もう溜まり(たまり)にお戻り」
「よいではないか、お前こそ戻れ、戻れ!」
女中は障子を全部開けっぱなしにして戻っていった。
遠山は花雪の袖を引っ張って横に寄せた。
そのとき遠山の着物が少しはだけて胸が見えた。
花雪の目はその胸に釘付けになった。
「おお、お前、拙者の胸に触りたいのか」
「いえ、その小さな巾着は」
遠山の胸に汚れて赤黒くなった小さな巾着が下がっていた。
巾着に何か書いてあるが汚れと焼けでよく見えない。
花雪はそれを読もうと必死で見ている。
「これはの、拙者の娘が道中の無事を祈って作ってくれたお守りが中に入っておるのよ」
花雪の身体が小さく小刻みに震え始めた。
「お前、震えておるのか、かわいいのォ、よし、もう二三日おることにしよう」
遠山は店の者を呼んだ。
花雪は両手のこぶしを握り込み、一心に巾着を見ていた。
遠山が線香婆に言った。
「今晩も飲むで花雪を出せ、銭はある。花雪に手出しはせぬ」
主人は飲み代をふっかけたが、遠山は前銭まで渡した。
「花雪、今夜は遠山の部屋に行け、何かあれば大声を上げろ」
夜の席は盆と正月が一緒にきたような騒ぎになった。
女郎も芸者も女中も出たり入ったり、もちろん花雪は遠山のそばで酌を続けた。
「花雪は朝までお付き合いいたします。布団で添い寝もいたしますが、店には黙っててください。わたしが怒られますので」
この言葉で遠山は有頂天になり、飲みまくった。
花雪は遠山にすり寄って肩をあずけ、その手を握った。
遠山はびっくりしながら、なめるように花雪を見た。
花雪が言った。
「遠山様は丹波とおっしゃいましたが違うのでしょ。わたしも丹波ですからわかります」
「お前、丹波か、こりゃ下手したな」
と遠山は薄笑いを浮かべながら言った。
「ああ、そうよ、おれは備中の者だ」
拙者がオレになっていた。
「もっと面白いことを教えてやろうか」
花雪の表情が変わったことに遠山も気づいて図に乗った。
「話してもええが、お前の身体をもらう、それが条件じゃ」
「はい、よろしゅうございます」
花雪は一か八か、父と母を心で呼びながら遠山の言葉に賭けた。
遠山は虚勢を張るように酒を一気に飲み干し、酒の勢いと花雪への欲情で頭が切れた。
「よし、話してやる、しかし聞けばオレの仲間じゃ、誰にも言うな」
花雪は懐に手を当てて何かを確かめている。
「半年あまり前のことじゃ、京が近い野原で弁当を食っておった侍に会った。近づいて話しかけ、むすびを口に運び油断しているところをドスで刺して殺した。侍の着物も何もかも盗って、書状もこの巾着もいただいた。
書状を読むと宛て名は遠山景時とあり、巾着にはお守りが入っていた。巾着には父上様、舞、と書いてある。舞が娘の名であることはすぐにわかった。汚れとヤケで黒くなっておるが、かすかに見えるじゃろう。オレは舞という娘を持つ遠山景時に化けた。このお守りは役人に問われたときには実に役に立ってくれておる。どうじゃオレはスゴイ男であろうが」
花雪の手が震え、涙が流れ落ちている。
「なんじゃお前、泣いておるのか」
花雪は懐から手拭いでまかれた細身の包丁を出した。
「包丁ではないか、何する気かい」
花雪は手拭いを捨て立ち上がり、包丁を構えて言った。
「遠山景時はわが父じゃ、舞はわたしの本名じゃ、父上、舞をお守りくだされ。おのれは父の仇、思い知れっ」
遠山はあまりの意外さに呆然となったまま動けない。
花雪は思いっきり遠山の首を突き刺した。
遠山は手でよけようとしたが、指の間を刃が突き抜けた。
グワッという声とともに喉から血が噴き出た。
花雪は「おのれ、おのれが」と叫びながら遠山を突き刺し続けた。
遠山は血の中で目をむいたまま絶命した。
花雪は遠山の血だらけの胸から巾着を取り上げ、喉を刺そうとしたが包丁を置いた。
様子を見に女中がやってくる足音が聞こえる。
花雪は巾着を握りしめ泣いていた。
役人が言った。
「ようわかった。人殺しではあるが、父の仇討ちではのう、しばし牢におれ」
遊郭で部屋の畳の入れ替えが終わったころ、京の尼寺に入っていく花雪の姿があった。
庵主(あんじゅ)が微笑みながら、尼としての名を書いた紙を花雪の前にそっと置いた。
花雪いや舞は、父と別れて以来、初めて笑った。
近く遠く鐘の音が聞こえてくる。
舞は鐘が鳴るほうに目を向けた。
父が目指したあの寺の鐘だった。
「織田信長の家来である」と自称する喜平は二十歳で元は大百姓の三男。
その子分いや家来は吾助と兵蔵の二人、ともに十八歳で喜平の実家で使われていた百姓の次男同士だ。
この三人、村の厄介者だったが「侍になる」と叫んで村を飛び出した。
実家も村の者もそろって喜んだほど嫌われていた。
だが手に職も無い三人、近所の喧嘩のような小さな戦の手伝いや博奕場の雑用やときには一軒家に押し込み強盗までやりながら生きている。
この先は磔獄門か、どうせロクなことにはなるまい、と三人はそれぞれが思っている。
だがそこに思わぬ事態が起きた。
三人が川べりで遊んでいたときのこと、土手の上を旅の侍とその仲間らしき二人が通り過ぎた。
二人ともにまとまった旅支度で相応な身分のようだ。
去っていくうしろ姿を見ながら三人は顔を合わせ、喜平が侍のほうにあごをしゃくると吾助と兵蔵はうなづいた。
あの二人を襲う気だ。
距離を開けて侍をつけていく。
「この先は山ばかりで家もない。あいつら弁当を持っているようだ。もうじき日が暮れるから、どこかで休むだろう。そんときにやるからな」
吾助と兵蔵はうなづいた。
空は満月が煌々と光り、街道も二人の影もはっきりと見える。
広い野原の中に街道の目印にもなっている大きな松の木がポツンと立っている。
その下の草むらに侍は腰をおろし、仲間もそばに座った。
辺りは一面の野原だ。
二人は何か話しながら弁当を食い始めた。
喜平が指図した。
「オレが歩いて近づくからな、お前らは茂みに隠れて先に近づき、オレが頭をかいたら後ろから襲え」
吾助と兵蔵は草むらをかきわけ先に進んだ。
しばらくして喜平は旅人のふりをしながら二人に近づいていった。
月の明かりに互いの顔が浮かんだ。
「これはどうもお食事ですか、月も行灯代わりでございますな」
「ああ、そうじゃ、ええ月じゃ、どちらへ参られる」
「伊賀までまいります」
「それは遠いの、休んでいかれぬか」
出来の良い人物であることは喜平にもわかった。
だがそんなことは気にもせぬ喜平だ。
見ると侍のすぐ後ろで吾助と兵蔵が刀の柄に手をかけている。
喜平の目が光った。
「そうですね、おじゃまでなければ少し」
というや喜平は頭をかいた。
吾助は侍を、兵蔵は供の者を、後ろからいきなり飛び出し、刀で突いた。
ウウッとうなっただけで侍と仲間は血しぶきの中で息絶えた。
「簡単にいったのォ」
「うんこやつら歩き疲れもあったのじゃろうの」
「早いとこ済ませようぞ」
三人は二人の着物を剥ぎ、盗れるものはみな盗った。
侍の懐からは刺繡の入った小さな巾着と書状が出てきた。
喜平が手に取り見ると、小さな巾着には「父上様」と書かれその横には小さく「菊」と書かれていた。
「これは菊は父上様の娘じゃろうな、なるほどな。まあこれも何かの縁じゃ、菊よ、今からはわしが父じゃ、しっかり守ってくれよ」
ウア~と笑った吾助と兵蔵の声が月夜に吸い込まれた。
喜平は巾着を大事そうに胸に入れると書状を開いた。
文字の読み書きができる喜平が読んでみると侍はいまいる寺が戦さで燃えて灰燼となり、比叡山に頼ったところ許され、比叡山に向かっていたところらしい。
書状の宛名は遠山景時、丹波の人間だった。
「こやつは『丹波のとおやまかげとき』か、名前もええな、お守りもあるし、うん決めた、この名前もらった。オイッオレはいまから遠山景時であるからの」
「オレたちは」
「お前たちはオレの仲間よ、言葉も変えてわしを盛り立てるんじゃぞ、しっかりと忠勤に励めよ」
「おおう、いいともさ」
この瞬間、喜平は丹波の寺侍から比叡山に移った寺侍遠山景時に化けた。
吾助と兵蔵は名前はそのまんまで景時の従者になっていた。
兵蔵はいまのままの衣装だが、吾助は仲間の衣装をそのまま着るらしい。
「少々血がついておるで、どこか川で洗えばえかろう」
景時となった喜平は巾着にお守りを入れ、懐になおした。
喜平はその後、遠山景時と名乗り、吾助と兵蔵はそのまんま景時の従者になった。
「俺たちは侍にはなれんのか」
「まあ待て、お前らの面では侍にはなれん、焦るな、そのうちいいようにしてやるで」
そういう景時も喜平そのまんまなので、どう見ても丹波の侍でも比叡山に行く侍にも見えなかったが、人はわからない。
時が経つとこれが不思議なことにそう見えてきた。
「馬子にも衣裳」とはよう言うたもんじゃ、喜平よ遠くから見ると一端の侍に見えるで」
「ああ、そうか、ほんでもお前らも初めの頃より品がようなったで」
「三人並んで歩くと百姓町人どもは道を譲るしの、旅籠でも扱いが違う。確かに見た目は変わっておるようやな」
世は荒れるに任せ、とうとう信長が比叡山の焼き討ちをやり、山内の者は女子どもも問わずに皆殺しにして焼き尽くした。
話しを聞くと三人はすぐに現地に行った。
織田方なのか叡山方なのかわからない兵や町民や商人や偽坊主までもが、あちらこちらに残っては始末や強奪を繰り返している。
織田の兵が治安を守っているが何せ比叡山は大きな山だ。
目の届かないところは、そこらじゅうにある。
山のあちらこちらから荼毘の煙が上がり、焼け跡や遺骸からあれこれと金品着物を奪い取っている者もいる。
焼くのが間に合わず、谷に捨てる遺骸もあれば、そこら辺に埋められる遺骸もある。
空には死体を食う烏が舞い、藪には同じく死体を食らう野良犬が潜んでいる。
「いやあ、地獄絵図じゃが、奪う者には極楽じゃな」
と景時が言うと吾助が言う。
「しかしようもここまでやったもんじゃ、やるとなれば徹底的にやるんじゃな信長は、ここまでくると褒めてやりたいわ」
兵蔵は黙々と遺骸を漁っている。
景時が二人に言う。
「おい、歩いてみるぞ、残り物に福ありじゃ」
兵蔵が言った。
「しかし、下手すればこっちの身が危ない気がするが」
景時が答えた。
「なあに、わしはときには丹波の寺侍の遠山であり、ときには叡山の寺侍遠山じゃ、使い分ければ信長の兵に見つかっても大丈夫じゃ」
三人は籠を背負い山をめぐった。
いや、至るところに遺骸が転がっている。
小童も女子も年寄りも一緒くただ。
「こりや烏も太るやろうな」
「ああ、烏には功徳じゃな」
ワハハはと三人笑った。
背負った籠は刀剣や着物や小物でいっぱいだ。
「しんどいな、オイッちょっと休むで」
「おお、琵琶湖が見える。ええ景色じゃわい」
「ああ、ええ眺めや、人間、生きてなんぼやな、死んだら何にもならん」
三人は夜の闇にまぎれて山を下りた。
数日後、京が近い宿場町に三人の姿があった。
比叡山は焼かれ、戦さも続いているが、百姓町人はそれに付き合ってはいられない。
町は賑やかで人も多い。
戦さは侍たちの問題であり、市中には銭と人手を取られない限り関係は無いのだ。
赤い提灯に囲まれ、太鼓に笛に三味線の音が聞こえる。
女の声や男の声、その間で年寄りの怒声や子どものような大声も聞こえる。
玄関両脇に大きな提灯、屋根の上には「万楽」と大書された看板が立っている。
ここは宿場で一番の廓だ。
三人の姿があった。
喜平いや景時は、あごに髭を生やし、髷にも慣れ、飯の食い方は下品ではあるが一応侍らしくになっていた。
一昨日から逗留している。
銭は持っているので酒も食事も女郎も次から次へと出てくる。
昼餉を済まして三人になると景時が言った。
「ちと過ぎたのう、そろそろ明日朝には立つか」
「そうじゃの、一気に京まで行ってみるか」
「ああ、それがええ、わしゃ京には行ったことがない」
「よっしゃ、明日朝には出立といたそう」
そうじゃ、そうじゃと吾助と兵蔵が囃した。
●
その夜の宴会が済むと三人は隣り合わせで別々の部屋に消えた。
それぞれ女郎がついている。
景時の相手はまだ十七歳だという。
「おお、若いの、名前は何という」
「菊、と申します」
景時の顔が一気に卑しくなったとき菊は下を向いていた。
朝のこと、景時の部屋の襖が開かない。
廓の者に吾助と兵蔵も加わって部屋の前に集まった。
廓の婆が言った。
「もし、お客様、起きておいでで」
返事はない。
「お菊よ、もう刻限じゃで開けるぞ」
お菊は布団の横に座っていた。
見ると景時はうつ伏せになって寝ている。
「お客様、起きてくださいまし、朝ですぞ」
婆が近寄って布団をめくると一瞬の間をおいて悲鳴を上げた。
景時が血まみれになって死んでいた。
胸には何ヵ所もの鋭い穴が開いている。
菊の手には包丁が握られていた。
廓の者がかけつけ菊に何があったかと聞いた。
「わしらでは手に負えん、役人呼んで来い。それからこの二人も逃がすな」
吾助と兵蔵は廓の者に囲まれて奥の部屋に連れていかれた。
廓の前は人だかりでいっぱいだ。
廓の線香婆に聞くと
「菊か、どえらい迷惑をかけよって、はよう磔にしてやっておくれ、後始末で店は大事じゃ」
たまたま菊を連れてきた女衒が逗留しておったのでどこからきたのか尋ねたところ丹波らしいと言う。
どうみても並みの女子ではない。
生まれはいずこか、家は何をしておったのか、と尋ねると女衒は言った。
「どうやらどこぞの大寺におった侍が父親らしく、母親はとうに亡くなり、
寺は戦で焼け落ちて職を失ったものの山城での仕官が決まり、先に供の者を連れて山城に向かったそうにございます。しかし待っても父からの返事はないどころか、仕官先の寺からもまだ着かれぬという知らせがきた、
そうこうするうちに戦に巻き込まれ、叔母も叔父も亡くなり、ひとりで父親を捜しに山城に向かっておったそうにございます。その道中で何者かに襲われ銭も身体も奪われて苦界に堕とされたそうにございます。
元は寺侍の娘か、道理での、戦が無ければ良き世であったろうが
菊は言う。
「あの三人は尋常な男たちでないことはすぐにわかりました。わたしの相手は喜平と申しておりましたが、あやつが着物を脱いだとき小さな巾着が落ちました。
わたしはそれを見たとき、全身の震えが止まりませんでした。
まぎれもなく、わたしが父に渡した巾着とお守りにございました。
気がとおくなるような気持ちで喜平に尋ねました。
「奇麗な巾着をお持ちね、お守りも、袋には夏と書いてあるし」
喜平は言いました。
「ああ、オレの妾の娘の名でな、よう慕ってくれてな、旅へ行かれるならこれをもってとわざわざ作ってくれたのよ、うう、思い出しても涙が出そうじゃ」と言いました。
役人たちはじっと聞いている。
警固役人のそばにはその巾着とお守りが置いてある。
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