見出し画像

KOUMUIN MAGAZINE Hum VOL.0.5(瓦版)

Hum VOL.0.5とは… 某自治体職員が有志で作成した紙 + webによるZINE(瓦版)です。記事はメンバーが日替わりで更新していきます。(※2024年1月30〜2月3日更新済)

〜メンバー紹介:と、その推し〜
 TG:大橋裕之(漫画家)
 JJ:おばちゃん(葵リサイクルショップ)
 NB:ジミンちゃん(BTS)
 YM:福沢諭吉(昔の偉い人)
 JP:ダイアン(芸人)


Humとは… 「互助会」の活動の結果としてできたこのZINE(雑誌)のことです。勉強ノートあるいは自由研究をまとめておく箱のようなもので、組織の見解とは関係ありません。もっと言えば、「互助会」全員で合意したわけでもなく、「互助会」のアウトプットの一つの形にすぎないものと考えています。

「互助会」とは… 某自治体の有志の職員を中心とした勉強会のような集まりのことです。月一回、そのときどきの適当なテーマで「ああでもない、こうでもない」ということを雑談することを主としてます。(TG)









はじめに ズラしの作法 (TG)

 2024年は選挙の年だそうだ。11月の大統領選挙を控える米国をはじめとして、世界中で40以上の国政選挙があるらしい。去年くらいから生成AIという言葉をやたら耳にするようになったが、フェイクニュースや陰謀論と呼ばれるものたちがどう選挙に影響を及ぼすかが注目されているという。

 日本でも年明け早々大変なことが続いた。そこでもデマは問題になっている。「ググれ」という言い方があるが、人々がフェイクニュースや陰謀論の真偽を確かめようとして検索をすると、むしろそうした情報を信じてしまう結果を招くという研究結果さえ出てきているそうだ。結果、かたくなな信念同士がぶつかるとしたら辛いことだ。

 ある意味で、つねに「公式」の立場にいる行政や公務員にとっては身につまされる話でもある。それが可能になるのは、その組織や手続きのルールがきっちり定められており、「信頼」されているからに他ならない。とはいえ、その重要性に疑いの余地がないとしても、市民としての私たちもまた、「公式」からの供給を待つだけの存在ではない。

 レベッカ・ソルニットは『災害ユートピア:なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』という本のなかで、大きな災害でいつものルールが通用しなくなったときに立ち上がる、即興的かつ自律的なコミュニティを鮮やかに描いた(そして、市井の人々の暴走をおそれ、コントロールすることに心をとられたエリートや管理者たちを批判した)。

 しかし、災害時に限らず、そのようなユートピアは、正しいことや公式なことは誰かその役割の人がやるだろうといって、自分は痛みやぶつかること、あるいは誰かに迷惑をかけることを恐れてじっとしているだけでは起こらない。そういう傾向は年々強まっているように思う。かといって反対に、強い信念をもって突き進むことも、なにかに絡めとられかねないのだとすれば、どういう戦略がとれるだろう。

 これらのことは一枚のコインの表裏のようにも思える。たったひとつの正解がどこかにあると思えばこそ、ただ待つか突き進むかの二択になりがちだ。であれば、行きつ戻りつ、なにも進んでいないように感じながらも、じたばたともがいてみたり、ズラしてみてはどうだろうか。

 少なくとも「互助会」が、あるいはHumがとるべき(だと私個人がそう考える)戦略は、「ズラしていくこと」だと思う。真正面からぶつかりそうだなと感じたら、半身をズラして、「これだったらお互いおもしろいと思えるよね」というところで行動を共にすること(あるいは別々に行動してみること)。

 今号は、創刊準備号という位置づけの前号(vol.0)と、創刊号として今後出す予定のvol.1の間の火急版というていになる。どれだけ刻むんだという話ではあるが、(なかなか進まないvol.1が出るまでの時間稼ぎも兼ねて)今このタイミングで考えていることを出しておきたかった。

 最近、人に勧められて『町内会:日本人の自治感覚』という本を読んだ。1980年刊行の古い本だが、最近電子版で復刊されたものだ。そこではこんなことが指摘されていた。

 「“同意”にもとづいて都市が形成されるという構造がないから、貧富の別も、職業の隔たりも、年齢差も出身地の違いも、コミュニティの形成には支障がない。それほどの差異がありながら、共同生活体として成りたつためには、その“場”の規範に従うという黙約がなくてはならない。」

 このことは「いかにも同質であり、主体性がないとまで見える」日本人の悪いところともされているが、かえって今の時代には案外有効なのかもしれないと思った。(TG)






近代京都年表

瓦版を紙で印刷してみよう!
 ※A3両面印刷(縮小しないように。)
 ※全タイトル掲載の2枚組も追加しました。
  (2024年3月)

2枚組は重ねて折ればOK





#Report_それゆけ町内会サミット (JJ)

 時を遡ること一ヶ月ほど前、京都の片隅のとある自治会館で「町内会サミット」なる会が開催されたことを、みなさんご存知だろうか。

 今回は、当日その会に潜入取材してきた私JJが、そのサミットでの様子と、それを通じて感じたことなんかを、この場を借りてお伝えさせていただこうと思います。人生初の実録ルポルタージュ。

_____

 あらましから説明すると、このサミットの主催者の方は、今現在進行形で市内のある町で町内会長を務めていて、まぁかいつまんで言うと、今の町内会について色々と思うところがあったらしい。
 その煮えたぎる想いをいかにして昇華させてやろうか。ということで、別の町の町内会長さんや自治連合会の会長さん、市の担当者さんなんかを一堂に集めて会談をしようじゃないか、というのがこの企画の興りなのだという。

 (ここから以下、主催者の方を「姐さん」と呼称する。実は私は大学時代からインターン等で姐さんのお世話になっており、パワフルな背中を長らく見させてもらっていた。最近は町内会長までやってたんだね。本当にすごい人だ)


 そもそも町内会って何をやっているんだ、というところだが、これがまあ多い多い。
 まちと市役所の窓口係に始まり、回覧板の運営、会費の徴収、掲示板の管理、清掃、防災、親睦行事、果てはまちのお地蔵さんのお手入れなど、それはもう多岐にわたるらしい。仕事を終えて家に帰り着き、家事もしながらこれらの作業を一つ一つ潰していくそうだ。
 なんとまあ、この人たちが人知れずまちを回してくれていたのだ。町内会アンサングヒーローズ。
 どの町内会もそんな状態らしい。もう頭が上がらない。

 でもそんななか面白かったのが、これらのやるべき事はどの町内会でも似たようなものらしいが、実際の取り組み方はそれぞれ全く違っているという点だ。
 これは姐さん含め、会に出席していた町内会長さんたちもみんな新鮮に驚いていた。

 「回覧板とLINEグループの両刀使いにしたよ」とか「総会の様子をzoom配信してるよ」とか「まちの人にアンケート調査をしたよ」とか「町内会に入っていない人にも平等にサポートするようにしたよ」とか「テナントビルから会費むしり取ってるよ」とか「町内会長をサポートする有志の青年会を作ったよ」とか「お地蔵さんへのお供えはいつも散歩してるおばあちゃんに一任したよ」とか。いやみんなすごいな。

 一番感動したのは、「支払い義務のある町内会費を廃止して、支払い任意の協賛金に変えた。それに伴い徴収もやめて月に数日、協賛金持参Dayを設けたら、なぜか徴収してた時よりもお金が集まるようになった。持参してくれた時に一緒にお茶したりするもんだから関係性も良くなった」という事例だ。これすごすぎやしませんか?

 ほんで何が面白いって、他の町内会の人同士って普段ほとんど話す機会がないから、これらの智慧が全然共有されていないのだそう。
 参加者同士の意見交換の時も「古いわね、そのやり方は時代遅れよっ」みたいな声が飛び出て、みんなから歓声が上がっていた。
 みんなちょっとずつちょっとずつ、工夫を重ねて独自の進化を遂げながら町内会を存続させているのだ。これはアツい。

 こんなサミットの様子をみて、町内会の内情なんてものを全く知らずに好事例ばかりを浴びまくった結果、僕はもう「これなんか町内会イケそうやん」という感覚になったりもした。
 いや実際には課題山積なのだろうが、でも実は、まちに住む人たちにこういうある種の錯覚や勘違いを起こさせるような場が、今一番必要とされてるんじゃない?とも思った。

 また、別の自治連合会の会長さんは「やらされ作業はどうしたって辛い。みんなの『これならできるよ』を集めてカスタムできる町内会にしたい」と言っていて天才だった。
 それなら、僕はずっと町内に住む人たちの家にある不用品とかを一堂に集めてバザーをやってみたいと思ってたんですけど、それやりませんか?絶対面白くないですか?

 (ちなみにこれ、実際に左京区の浄土寺というエリアで始まっている取組なんですけど、めちゃくちゃ最高なんでこちらから見てみてください)


 そんなこんなで、最後には参加者みんなで一言ずつ感想を言い合って、「まぁ大変だし課題も多いけど頑張っていこうね」という感じでサミットは無事朗らかに閉会したのでした。

_______

 実録町内会ルポルタージュ、いかがだったでしょうか。テンションに任せて一気に書いたので読み苦しいところがあったかもしれませんが、ご容赦いただけたら幸いです。

 でもなんだか、これまで薄っすら感じていた「町内会オワコン感」が、今なら逆になんでもできるんじゃないかという風にコペ転した感じがして、僕は少し興奮しました。

 もしみなさんも町内会に興味が湧いてきたら、まちの気さくなおじさんとかにしれっと話を聞いてみてください。そしてまたどこかでその情報を共有してくれたら助かります。それを基にアーカイブマップでも作ろうかな。
 きっとまちによって全然違う状況があったりするんだろうなあ。

 とまぁ、こんな感じで町内会熱の高まった僕なのですが、正直に言うと今住んでいるまちの町内会にはまだ入っていません。なんか怖いじゃないですか普通に。

 ということで、一旦、私JJは姐さんの町内会に引き続き潜入させてもらおうかなとか思っています。気心知れた人がいれば町内会は怖くない。
 また成果報告できそうなことがあれば、どこかで共有させていただきます。続きを乞うご期待。町内会の未来に幸あれ!(JJ)






#Diary_なにも書くことがない人の駄話 (NB)

日記 2024/01/20
 今回、Hum0.5の話があったとき、あ、わたしは書くことが本当にないな、と思った。

 みんな何か毎日考えていることがあってえらい。好きなことがあってええね。何かやりたいことや気になることあってえらいよほんとにキミたち!という気持ち(えらいとか、やりたいからやってるわけじゃないし、そんなんじゃないから!云々つっこまれるのはわかってる)。

 ずっとなんとなくいろんなことが不安で、自分という人間がしょうもなく感じて、面白くなくて、生活もぼんやりしていて、突然涙が出てきて(人前ではこらえているが、ひとり布団の中やシャワーを浴びながら、はたまた散歩中の橋の上で、など)、結局はそういう自分を受容して乗り越えていくしかないのだけど、うまく割り切れずに30年生きてきている。生きるの下手くそだな、そろそろ変えていかないとこの先しんどいなということもわかるけど、うるせえ、それはそうなんだけどサ!という私の中のイヤイヤが発動して不貞腐れて終わる。誰にも優しくできずトゲトゲな感情。みんなどうやってそういうこと乗り越えているんだ?ずっと思春期のままな私。

 で、そんなこんなで恥ずかしながら自分のことで精一杯で生きているので、まちのこと、とか言われてもなにもピンとこないし、社会のことなんて考えずに毎日ぼんやり過ごしているし、ひとりで生きている気になっているなあということに気付く。それに、公務員という職種で働いているけど、「まちのために」みたいな大それた意識なんてないなあ(と思っている)。自分の仕事が結果まちのためになっているとしても、全然遠いところのような気がする。手元にはなにもない。

 毎日目の前の仕事をさばいていたら1日すぐ終わるし、もっといろんなことに目を向けたり考えたりできたらいいけど、仕事中、全然余白つくれてないなと思う。全体像がわからず視野も狭い。たとえば「なんちゃら総合計画」の見直しについての内容確認みたいな仕事もあったけど、ちゃんと計画読んだら面白いんやろうなーと横目に見つつ、自分の該当箇所だけチェックして流していく、みたいなもったいないことも平気でやる。資料作りも、ひたすら誰かや何かへの言い訳資料みたいなものばっかり生み出している。そういうことの積み重ねで今週も結局、残業続きで互助会の集まりには顔を出せずに終わったし、そうなると家と職場の往復で日々が過ぎていく。みんなでHumの話してたり原稿送られてきたりしてもスルーしちゃってごめん。

 社会との関わりしろとしたら、マンションの管理人さんに朝会ったら挨拶するとか、帰りにスーパーに行くとか、そのぐらい。銭湯にでも行ったら良いのだろうけどそんな元気もない。自分のなかの何かを消費して終わっていく毎日。こんなんでいいのかな、と思うけど一方で、仕事なんてこんなもんやろと思う自分もいる。後者のほうが割合が高い。

 でもなんとなくやっぱり、このままではよくないんだろうなと感じているので、こうして互助会していたりするし、半身ズラすみたいなことは大事だなとは思う。大事だなとは思うけど、で、どうする?とにかく接点を多くしたり、フィールドに入っていったりすることかなと思うけど、それってけっこう気力がいるし余裕のあるときしか行けない。そして私は自分に甘いので、なんとなく今日はしんどいなということであればすぐ断りがち。自分は積極的に何かを変えていったり飛び込んでいったりするタイプでもないし(そこを変えろという指摘もあるだろうけど)、プレイヤータイプでもないしマネージャータイプでもないし、フリーライドしてるだけ?

 何かの場に参加するには、何か自分の役割があると安心するんだろうけど、私みたいな中途半端な人間からするとどこも居心地が悪く、でも、そんな自分のことを理解して、自分の性格やイヤイヤな生き方も含めてなんとかしたいなと考えている最近。

 以上、公務員のぼんやりしたモヤモヤでした。おしまい。

おまけ
 ここまで書いて、結局わたしはこんなに大変なんだ!みたいな文章になったので、凹んでいます。なんて小さな人間。いやだなあ。もっと「ヘルシー」な感じで生きたい。(NB)






#Essay_合気道と民主主義 (YM)

「観の目」と「見の目」
 選挙の季節になると思うのだが、わたしには特定の政治的立場というものがない。イデオロギーめいたものが苦手なのだ。
 だからというわけでもないが、右と左を交互に稽古する、合気道という武術を習いはじめた。
 合気道というものには、試合がない。襲ってきた相手をどういう風に受け流すかということについて、ひたすら稽古をするのである。また、合気道は、真正面から力で対抗することを良しとしない。むしろ、余計な力を抜いて、相手の力の方向をいわば「ずらす」ようにして、振る舞うことを要求される。
 武術の面白さは何かといえば、頭でなく体でもって、重要なことを経験的に習得していくということだろうか。そしてその「重要なこと」は、決して抽象的なことではなく、極めて実際的な性質を持つ。昔は武術の得手不得手というのは自分の生死に直結していた。武術とは、抜き差しならない過酷な現実の中で磨かれてきた、生き抜くための統合的な叡智なのである。だから、武術を学ぶことの意義は現代でも大いにあるとわたしは思う。

 武術を学んで経験的に得た知識の一つに、「バランスこそ生命線である」というものがある。ここでいうバランスとは、体の重心や目の付けどころ、 心の持ちようも含めた、総合的な概念である。例えば、重心が傾き、体軸がブレた状態では技が効きにくい。特定の一箇所しか見なければ視界が狭くなって危ない。心が平らかなほうが無駄な力が入らず結果として合理的な振る舞いができる。だから、武術的な観点から見れば、「俺は右派だから右しか稽古しないし、右のポジションしか取らない」という人は、あまり賢いとは言えない。戦国の世では生き残れないだろう。

 バランスを保つことを少し別の観点で捉えれば、「あいまいなところに留まる」とも言えるかもしれない。状況変化に対応できるように、なるべくニュートラルな状態にしておく、ということである。剣術の達人、宮本武蔵は、『五輪書』の中で、「観の目つよく、見の目よわく」といったことを述べている。状況を観察する目は強く持つが、実際に見えている視界はひろく、ぼーっとするくらいのあいまいな状態にしたほうがよい、というようなことだと思われる。
 これはわたしの選挙観についても通じるところがある。政党やイデオロギーという、わかりやすい表面的なラベルについては、ぼーっと見ておくくらいがいい。そこよりもむしろ、時代を捉える感性や、先を見通す「観の目」を、粛々と磨いておきたい。

民主主義と新陳代謝
 わたしは今まで、言論の自由が保障されていない、「権威主義」に分類されるような国々にいくつか行ったことがある。
 実際にそうした国に行くと、ここに住むのは厳しいな、ということを実感した。
 そもそも、わたしはおしゃべりなので、言論の自由がないのは息苦しい。また、表現が制約されているからだろうか、全体的な印象として、都市空間に生命力がなく、なんとなく冷たいように感じられたのである。
 思うに、民主主義という制度には、生命の本質に似たところがある。それは、「古くなった制度や人事を、自由闊達な議論によって入れ替える」、つまり新陳代謝するという点だ。
 どんな素晴らしい制度や組織があっても、時代は必ず変化するものだから、どうしたって古くなった制度や組織を捨て、新しくものを取り込む働きがなければならない。それを支えるのが、自由闊達な言論と選挙の仕組みなのではないか。ぼくら自身が生き生きした言葉を話すことを通して、社会を自ずと柔軟でみずみずしいものにしていくこと。それが民主主義の本質であり、他の制度にはない強みだと思う。

言葉と呼吸の関係
 それでは、生き生きとした言葉を話すための秘訣とは何なのだろう。言い換えれば、生きた言葉の源とは何か、ということである。結論から言うと、それは「呼吸」、それも深い呼吸だと考える。
 言うまでもなく、呼吸はエネルギーの源だ。「いきる」ということは、「いき」と切っても切れない。よく生きるとは、よい息をすること、と言っても過言ではない。こうした呼吸観は、東洋の武術や医術に通底するものだと思う。整体や鍼灸などの医療法は、つまるところ患者自身の深い呼吸を導き、自律的に回復する力を取り戻させるのが目的だ、ということを本で読んだことがある。さらに興味深いのは、どうやら「整体」という日本発祥の医術は、武術が積み上げてきた身体や呼吸に関する知識や技法を基にしているそうだ。身体知を人を癒すことに使えば整体であり、人を殺すことに使えば武術だというのである。
 実際に合気道でも、呼吸は非常に大切な要素である。よく言われる、「丹田に気を集める」ということのひとつの意義は、「深い呼吸をする」ということであると思われる。また、古武術のひとつ、大東流合気柔術では、達人の域になると、「相手の呼吸を自らの呼吸に同調させ、自分の呼吸を調整することで波を作り出し、スキが生まれたところを狙う」などといったことが行われるそうである。

 このように、呼吸を制すものが、人生を制す、と言った面があると思う。これは社会的にも同じことで、その社会でどれだけ深く息をして生きていけるかどうかが、その社会の健全さを測る指標である気がする。
 例えば言論の自由が保障されない国では、人々は息苦しさを感じるだろう。考えてみれば、「言葉」というのも、言の「葉」であるように、ひとつの生命がそこにはたらいている。古今集の仮名序の、「やまとうたは…」という冒頭にも、言葉を植物のように捉える言語観が窺える。よく生きることと、生きた言葉を話すことは、つながっているのである。民主主義の根幹をなす「生きた言論」というのも、個々人の深い呼吸に支えられているのではないか。

 生命たるもの、ひとは必ずどこかで深呼吸をして、じぶん本来のいのちのリズムに帰っていくことが必要だと思う。そのためにも、わたしたちにはニュートラルな状態を意識し、あえて言えば「あいまいさに留まる」ような時間が絶対に必要だと思う。あいまいというのは、ことさらに何かを主張せず、あらゆる想念を手放し、くり返すいのちの波にこころを委ねるーーそんなひとときのことである。逆説的ではあるが、社会の隅々で清水のように流れるあいまいなひとときこそが、活発な民主主義の土壌を肥やしていくのかもしれない。

 おそらく、ちょうど合気道が教えるように、我々の個々のいのちの深い場所では、対立するものはなにもなく、あらゆることの境がはっきりしない、あいまいな地平が広がっているのではないだろうか。わたしはあくまでそういう無分別なこころを携えたまま、よくかんがえ、一票を投じる。(YM)






#Essay_川原の石 (JP)



“ I have seen sparks fly out 
When two stones are rubbed, 
So perhaps it is not dark inside after all; 
Perhaps there is a moon shining 
From somewhere, as though behind a hill 
Just enough light to make out 
The strange writings, the star-charts 
On the inner walls. ”

STONE / Charles Simic


” ふたつの石がこすれて火花が散るのを見たことがある。つまるところ石の内部は暗くないのかもしれない。丘の向こうでどこからか月が輝いているように、それは内壁に描かれた奇妙な文字や星座を眺めるのに十分な光だろう。 ”

石 / チャールズ・シミック




 この春、京都から東京へ引っ越した。七年ほど暮らしたアパートからは、毎朝バスで通勤していた。加茂街道を北大路から葵橋へ下るまでの間、車窓から鴨川*と比叡山を眺めることができる。朝の空気の中、自転車を漕ぐ人・ジョギングする人・散歩する犬・飛んだり泳いだりしている鳥たち、それぞれの速度で川と平行に流れている。いつも一人でディアボロを練習していた彼は、きっと今朝も鴨川に居たに違いない。

 京都からの引っ越しが決まったとき、鴨川から離れると思うと寂しくなった。鴨川の大げさでないきらびやかさが好きだった。ふわぁーっとあくびをして、身体の中の空気を入れ換えたくなる。ちょうどいい川がまちに流れていることは、とても有難いことだと思う。

 幼い頃、天体観測が好きだった。いろんな惑星を観測しているうちに、その辺に落ちている石も地球や宇宙の一部なんだと気づき、石も好きになった。いい石を見つけるとつい拾ってしまい、部屋にはいくつも並べてある。

 引っ越しにあたり、全てを新居に持っていくわけにもいかず、友人にあげたり、自然に還したりして泣く泣く数を減らした。
 鴨川にもひとつ、石の群れの隙間に、白くて細長い石をそっと据えた。

 何かを好きと言い続けていると、それが自然と自分のところに集まってくることがたまにある。これはモノに限らず、仕事や人間関係でもそんなことがある。

 先日久しぶりに京都に帰った。友人と合流してしばらく経った後、そういえばこれ、とポケットからなにかを手渡された。青黒くて、少しねじれたL字形の石だった。

 この形なにに見える? 鴨川で拾ってん、と言う。う~んといろんな角度から眺めていると、それ、パターの先っぽ、ゴルフの、と。完全にパターの先っぽやん!と二人で爆笑した。

 石をもらうとふたつ嬉しい。ひとつは「好き」という個人的な感覚を誰かと共有できること。もうひとつ、石を見つけたときに思い出してもらえたんだなと思うとじんわりとますます嬉しくなる。(JP)

* 慣例として高野川との合流点より上流は「賀茂川」or「加茂川」、下流は「鴨川」と表記されるが、個人的な好みで「鴨川」と表記している。






おわりに 意志はどこへ (TG)

 行政の仕事は、「誰かの願いに乗っかることである」と言ってみる。というのも、国における三権分立(!)の考え方によれば、(ややこしくなるので、司法についてはいったん置くとして)私たちは選挙によって立法機関を構成する代表者を選び、そこで決定されたことを効率よく執行するのが行政府だからだ。

民意というのは立法機関の方にあって、行政府はあくまでもそれを機械的にこなす存在だというのがたてまえになる。その意味において、行政府そのものに意志はない。


 けどこれはなにも、行政府だけに限った話ではないと思う。多くの場合、食品加工工場で働いている人は、自分が食べるためにつくっているわけではない。それは衣服でも工業製品でも同じことだ。私たちは顔の見えない誰かのために自分の使わないものをつくったり提供することのほうが多い。


 このことはごく当たり前に聞こえる。しかし、その結果として、私たちがやっている行為のなかから意志というものが失われてはいないだろうか? ”乗っかる”という言葉をあえて使ったのは、地方自治体で働くものとして、そのことを改めて問い直してみたかったからだ。


 意志とはなんだろうか。なんらかの事業にしろプロジェクトにしろ、本来、その背後あるいは向こう側には、それを(潜在的であったとしても)やりたいとかやるべきだと思う現実の人びとが存在している。多分、意志はそこに宿っている。誰もが誰かの代理人やサポーターで、自らの望みは誰かにやってもらうのだとしたら、意志はいったいどこへいってしまうのだろう。


 先日、とある空き家の活用に関するイベントがあった。その座談会を視聴していて一番胸に刺さったのは、ある人の「足りないのはプレイヤーだ」という発言だった。考えてみれば至極当然で、空き家が増えていくということが課題だとすると、結局のところ「誰が使うの?」という話になる。

つい私たちは「こういう活用があったら良いね」とか「この場所にはこんなものがあったら嬉しい」と言って、社会課題や枠組みの話ばかりをしてしまう。それをする誰かのことや、自分がそこにどう関わるのかはつい抜け落ちてしまいがちだ。



自治体のジレンマ


 自治体のジレンマはここにある。行政として向き合わなければならない多くの問題の根本に「プレイヤーの不在」がありながら、自分たちがプレイヤーとして振る舞うことは良しとされていなかったりする。公務員のアイデンティティ・クライシスなるものがあるとすれば、このことは大きな要因ではないだろうか。


 ややこしいことに公務員のアイデンティティは、二重・三重の性質を帯びている。まず、ここまで述べたように、一方で効率的に処理をこなしていく歯車としての役割を、もう一方では市民が担えなくなった公共の担い手としての自主性を期待されている。実際、私自身も地域の人から「職員がまちに住んだらええんや」と言われたことが何度かある。


さらに今度は、(むしろ前者よりも、この考え方のほうがなじみ深いかもしれないが)行政は非効率であるともされている。どの自治体でもそうだと思うが、財政はひっ迫し、民営化、つまりは経済合理性に任せてしまおうというのは、よくされる話だ。


 これらが重なり合えば、企業がまちを運営するという発想まですぐだろう。そうなれば、どのようなまちが望ましいかを考えるにあたって重要なのは、原理的には意志ではなく経済合理性ということになる。



すでに参加している?


 先の空き家のイベントで、もう一つ印象に残ったのは、また別の人がこんなことを言っていたシーンだ。「空き家を活用しようという話からは始めない。とにかく集まるきっかけをつくって、まず関係性ができるのが先で、活用の話はあとから出てくる。」


 意志とは必ずしも能動的だったり、意識的だったりするとは限らない。あるいはあらかじめ存在すらしていなくて、気がついたらやっていたとか、偶然が重なり合って「やらなきゃいけないなあ」みたいなことはたくさんある。私たちは、そのようなものとしていろいろなものに参加しているはずだ。プレイヤーはいないのではなくて、多分見えていないだけなのだ。


 と、ここまで書いたのは、自分が勉強会のようなものを、2年弱ほど続けてきたことの理由でもあり、長い言い訳でもある。モヤモヤをシェアするためにつくった集まりが、「そんなに続けなきゃならんのか、いやおもしろくてやってるんだしいいか」「いやでもみんながやりたいのがこれなのか、いやいやエゴが出せないと自分にとっても意味ないし」などとまた別のモヤモヤを連れてくる。


 実際、集まりに最初にいたけれど最近は来ていない人もいるし、この0.5号をつくるにあたっても、ありていに言えばもめたし、心がへし折れそうになることも多々ある。それでもこうしたことをやらなければ会わなかった人や、関係性や、企画のようなものがわずかにでも生まれれば報われるものもある。そうしたことを繰り返すくらいしか自分にはやり方が思いつかない。


 悩ましいのは、こうした“参加”のあり方が遊びなのか仕事なのかよくわからなくなるということだ。文化人類学者のデヴィッド・グレーバーは、その二つを完全に切り分けて考えようとすること自体が近代以降の私たちの決めつけにすぎないことを示唆している。

というのも、100%が契約関係や利己心からなる仕事もなければ(同僚に「ペンをとってくれ」と言われて「いくらくれる?」と応える人はいない)、なんら利己心と紐づけることのできない遊びや気前のよさ(名声、満足感、神様が見ている云々…)も存在し得ないからだ。


 もしそうなのだとすれば、私たちは誰かの代理ではなく自分たちでなにかをやって、それをみんなが持ち寄ることで機嫌良くやっていくようなやり方があるのかもしれない。そもそも商売であれ自治であれそういうものでなかったか。


 ところで、グレーバーという人は、人びとに、何もしなくても食うに困らないだけの収入を保証したとしたら、その人たちは怠けるのではなく、好き勝手になにか価値のあることを始めるだろうということも述べている。

これは私たちには、楽観的すぎるように聞こえるかもしれない。でも私はそのことを心の底からそれを信じられるかどうかよりも、信じようとする意志こそが大事なんじゃないかとも思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?