書くことが凡人にもたらす効能
僕は本の著者ではない。新進気鋭のライターでも、編集者でもない。なんかの講師でもない。暇潰しでnoteを書く「凡人」だ。
でも、いいじゃないか。書くことの効能を語っても、いいじゃないか。
一応書いてるんだから、いいじゃないか。
さあ、許しを得たところで初めていく。(誰からだ)
動機はまたもや不純だった
以前書いた、「読書」「部活」「言葉」に続き、これまた動機は不純なものだった。(逆に不純じゃないことはなんかあるのか)
僕はnoteこそ、最近書き始めたが、何かを書き残すということは大学生の頃からやっていた。ただ、日記は書いたことがない。(え、)めんどくさいからだ。(は、)
大体日記を何冊にも渡って、毎日毎日書き残すなんて大それた事は、「凡人」の僕には到底できない。そんなことができるのは「立派な人」で「凡人」ではない。(いや、むしろお前がダメな方なんじゃないか?)
少なくとも、僕はそういうわけにはいかない。
自分の価値観や、考え方、生き方、信条のようなものをその都度、書き留めていた。それを色々なところに貼っていた。仕事場にも「マイ名言集」みたいなものが常に貼ってあった。
「なんか名言とか、文章書くとか、立派そうやん。。あわよくばモテるやん。」
これである。(相変わらず愚かだ)
もちろん他人の評価はそういうわけにはいかない。
大抵これだ。「変わってるね。」(涙)
心と頭の整理ができる
これは、非常に良い効能だ。
頭がモヤモヤするとはどういうことか。
それは自分の感情をどう説明して良いかわからないということだ。
なら、書けばいい。文章じゃなく単語でいい。もし悩んだら、目を閉じて、沸いている感情や、起こったことを書き連ねればいい。〇〇と言われて、ムカついた。悲しかった。自分がダメな気がした。冷たく感じた。そんな感じで書けばいい。
すると、勝手に頭が整理してくれる。
人は実は頭がいい。想像力、連想力、合理化の天才だ。
少し試してみよう。次にあげる3つの単語であなたはどんな結論を出すだろう。
「教室」「恥ずかしい」「オナラ」
きっと「あぁ、授業中オナラをしてしまって、みんながクスクス笑う声が聞こえて恥ずかしかったんですね。」とこうなるだろう。
僕はそんなことは言っていない。単語を並べただけだ。でも人間はこう解釈する。
こんなふうに人は文字にすると頭の中で勝手に整理する。
書くことにはこんな効能があるのだ。
過去の自分が残せる
人の価値観は常に変化している。大きくは変わらなくても、誰でも少しずつ変化している。ガラケー派の老人がスマホに変えたり、SNS反対派がTwitterを始めたり、そんなことでもだ。(これは僕の話)
その都度、今の価値観を書き残すことで、後で読んだときに、過去の自分の価値観と出会うことができる。なんでこんなこと考えていたんだろう?と感じることばかりだろう。それでいい。それだけ今の自分とは違う価値観と出会うことができるからだ。
それだけ自分の価値観の幅は広がる。過去の自分と同じような価値観に共感することもできる。過去の自分が書いたことに、心救われることだってある。
これはその都度書き残しているからこそ、可能なことなのだ。
ただ一つの弱点は、その時は神が降りてきたと感じていた文も、今読むと結構恥ずかしいということだ。(隠)
自己受容ができる
人は考えもしていないことは書けない。これの例は出せない。考えもしていないからだ。書けるということは、それが自分の中にあるという証拠だ。
書くことで自分のことを受け入れることができる。こう思っていると認めることができるのだ。
「自分を認められない」と書くことは、「自分を認められない自分を認めることだ。」(哲学的!!)
すると、どうして認められないのか。どこが認められないのか。どうすればいいのか。と、こう考えていくチャンスが得られる。
自己承認、自己肯定、自己実現、他者貢献もいい。ただ、まずは書いてみることが肝心だ。自己受容が肝心だ。
いかがだったでしょうか。
凡人でも書くことによってこんな効能が得られる。専門家や有名な著者であれば、他人の人生を変えたり、人を救ったり、お金が得られたり、そんな効能もあるかもしれない。ただ、凡人の僕はそういうわけにはいかない。
誰にも読まれなくてもいい。恥ずかしい文章でもいい。まずは書いてみることで、自分でも意外な効果があるものだ。
思ったことを書けばいい。うまくなれば、いろんな効能が出てくるかもしれないが、初めからそういうわけにはいかない。
この3つの効果だけでも、人生において非常に有益だ。
初めは評価など気にせず、思ったことを書けばいい。なんなら公開せずに、ひっそりノートにでも書けばいい。必ずあなたにも効能はある。
それではまた。
お金はエネルギーである。(うさんくさい)