私=自我=他者?
前回の記事にも関係するだろうか?
赤ん坊は何も持っていない。そこにはただ学習能力だけがある。
赤ん坊は言語を吸収する。
言語はもちろん赤ん坊が生み出したわけではない。
他者が他者と通信するために生み出した精密なプロトコルだから。
赤ん坊が生み出す言葉もある。あーとかうーとか。言語水準未満。
赤ん坊はまず言語という他者を己として同化する。
そして同化した他者たる言語で提示された他者の価値観を吸収していく。
最初は家族とか養育者の価値観を吸収する。
そのうち幼稚園とか学校に行くことになって、先生や同級生、上級生、下級生の価値観を吸収する。
今はインターネットもあるので、無数の人間の価値観を吸収することになる。
そのうち自我が芽生えある一定の価値観に反発することになる。
さてここでひとつ疑問。
この自我とは本当に私なのだろうか。
他者が作り出した言語で、他者が語った価値観を吸収して、ある一定の価値観を払いのける。
ここには無数の他者があるだけで、私がやったとといえばひたすら学習=吸収していただけだ。
ある一定の価値観を払いのけたのが私というにはまだ足りない。
ある一定の価値観を払いのける価値観を吸収し採用しているに過ぎない。
それが自我=私だといわれてもまた同じようなことが始まる。
ある一定の価値観を払いのける価値観を採用する価値観を採用しているに過ぎない。
自我=私=他者というまるで奇妙な図式である。
他者の欲望を欲望するとはうまく言い表したものである。
自分と他者との境界線は考え出すとよくわからないものである。
だがしかし現実感感覚として私たちは今、自分の他人が分かれているものだという確信がある。
この確信のどこかにこの私=自我=他者を破壊する力があるよな気もする。
自分が何かを志向すること=他者が欲望すること図式の奇妙な思索でした。
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