生き方の参考書案内:河合隼雄「こころの処方箋」
殺した自分に殺される
人生というのは、つまりは”諦めること”なのではないかと、アラサーと呼ばれる年齢になって理解し始めた。
可能性は次第に狭まり、選択肢は目減りし、自分が生きるためには、あるいはだれかを守るためには、自分の「やりたい」ことを断念しなければならない場面が増えてきて、そうやって仕方なく自分の心を殺すことが、少しずつ増えてきたのかも知れない。
河合隼雄先生によれば、そのように殺したつもりの心は実はそう簡単には死んではくれなくて、生き埋められた土の中で蠢き、時には心の地殻変動を起こすような突飛な出来事という形に生まれ変わって、私の人生に復讐を企てるのだという。
河合先生のすごいところは、「自分を押し殺しても心は死なない」のだから「他人に振り回されずに自分らしく生きよう」と、物事を単純化するようなことは決してしない卓抜した”心の知性”あるいは”我慢強い知性”にある。
本書はタイトルにある通り、世の中の人々の悩みや苦しみといった「心の問題」に対して、河合先生が「処方箋」を与えてくれるものだ。
けれども、河合先生が私たちに差し出すのは「飲めば瞬時に全快」するような特効薬ではなく、どちらかといえば漢方薬のように「効いているのか、効いていないのか、よくわからない」薬のように思える。
河合先生は「二つの物事に板挟みにされること」「すぐには答えを出せない宙ぶらりんに耐えること」が、人間の知性や人間性の発達には不可欠であることを理解し、自らもカウンセリングを通じて「宙吊りになった人々」と共に「自らも宙吊りになって」対話を重ねてきた方であり、本書にもその懐の深さや辛抱強さは随所に表れている。
遅れの神様
河合先生は臨床心理学の世界的(日本人の方が知らないかもしれない)な権威であり、うつ病やノイローゼといった精神疾患・神経症の患者の治療に携わるだけでなく、いじめや不登校を経験するこどものセラピー、さらには「世間一般には何も不足のないように見えるにも関わらず、本人だけが深刻に悩んでいる」人々とのカウンセリングを生涯にわたり続けられた偉人だ。
それらの膨大な臨床経験とご自身の人生経験を踏まえて、河合先生は「早急に結論を下すこと」や「すぐに治療しようとすること」の危険についてしばしば言及している。
大切なことは、目にみえる結果だけを追い求めたり、合理的な思考に依存した解決を急がずに、心(あるいは魂)の語る言葉にも耳を傾け、時間をかけて問題と向き合う忍耐強い態度だという。
河合先生は「スローであること」「他の人より遅れてあること」の重要性を理解した、現代日本における数少ない大人のひとりだった。
今の日本社会には「スピード感が大事」「乗り遅れてはいけない」「ビジネスは即レスが命」など、とにかく「早く結論を出し、行動に移すこと」を声高に叫ぶ大人で溢れかえっているような気がするけれど、それっていうのは本来の意味での「時間を味方につけること」ではないと、スローな私は思ったりしてしまう。
人間はそれぞれ、持って生まれた「時間」があるのではないだろうか。
確かに、桜は時期が訪れれば一斉に咲いているように見える。でもね、よく近づいて観察してみると、周りが鮮やかに咲き誇る中で、ぽつ、ぽつと、蕾の状態で花開くのを待っている花もある。
その花に向かって「満開の時期だから早く咲け」と無理を言う人はいないはず。強引に蕾をこじ開けようとすれば、その蕾はポロポロと崩れて死んでしまうだろうから。
なのに、人間に対しては「波に乗り遅れないように急げ」と言うのは、いったいどうしてなのだろうか。4月入学・進級や新卒一括採用のような制度なんて、それの最たるものだと思う。どうしてみんながみんな、一緒になって同じタイミングで就職しなければならないのでしょうか?(答えは「企業にとって都合がいいから」)
植物と同じように人間だって、それぞれに「花開くべき時」があるはずなのに、世の中の多くの人は機が熟すのを待てないみたいで、私のような「スロー・パーソン」は生きづらくて仕方がなかったりする。
河合先生は人よりも成長や成熟に時間がかかる人々を指して、「遅れの神様」の存在を指摘する。世の中には他の人よりも遅れているからこそ、人には見えない景色を見ることができ、それを創造性に繋げることができる。この世界には「遅れの神様」に見染められた人間がいるのだ、と。
車では目に止めることもなく走り過ぎてしまう景色も、ゆっくり歩く人々の目には美しい光景として映る。下を向いて忙しなく桜並木を過ぎ去っていく人々の目には、満開の桜の中にまだ出番を待つ蕾の存在は映らない。
場当たり的な灯りを消すこと。暗闇でしか見えないことがある。
話を本に戻そう。
本書には「「理解ある親」を持つ子はたまらない」「心の中の勝負は51対49のことが多い」「道草によってこそ「道」の味がわかる」など、数多くの人々の心の問題に寄り添ってきた河合先生ならではの深みに満ちた言葉が並んでいる。
その中でも、大学生の頃に「処方箋」を求めてすがるように本書を読んだ私の中で、いまだに心に残っているエピソードを紹介しようと思う。それは「灯を消す方がよく見えることがある」の章だ。
漁師たちが船で遠方の海に出かけたものの、すっかり辺りが暗くなってしまい、それに慌てて方角がわからなくなって、帰り道を見失ってしまった。
漁師たちは灯りを方々にかざして港を探すが、どうしても見つからないで途方にくれる。その時に、その中の知恵のある一人が「灯りを消せ」といった。他の漁師は意味がわからないながらも灯りを消すと、辺りは真の暗闇になった。
やがて暗闇に目が慣れると、闇の中、遠くの方に明かりが見えることに気がついた。港の町の明かりだ。近くの灯りのせいで見えなくなっていた遠くの光が、真の闇の中で見えるようになったのだ。
河合先生はこの話をもとにして、とある不登校児の事例について語っている。
両親は学校の先生に「過保護に育てたのが悪い」と言われて、子供に厳しく接するようにした。しかし、子供は登校するどころか余計に悪化しているようにさえ感じられ、今度は他の先生に相談すると「甘えが大事」と言われ、わけがわからなくなってしまう、という話だ。
私たちは解決を急ぐあまり、「それなりの灯をもって、うろうろする」ことばかりしてしまう。まだ蕾の桜に火を近づけて「ほら、暖かくなったから咲きなさい」と言わんばかりに。でも、本当に大切なことは、灯を消してじっと待つ勇気なのだと河合先生は語りかける。
「自分の目でものを見る」のは、怖い。世間やだれかの言う通りにすれば、たとえそれが間違っていたとしても、「場当たり的な灯」のせいにできる。でも、その怖さを乗り越えて真の暗闇の中で自らと向き合う強さを持たなければ、私たちは本当の意味で「自分らしく生きること」はできない。
ただね、果たして、現代の忙しない日本社会で、どれだけの大人が「闇の中で目をこらす」ことの大切さを知っているだろうか、と考えると、私はちょっとだけ絶望的な気分になるのだけど、読者の皆様はいかがでしょうか。
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